ヒキニートの選択肢は3つ。
もしあなたが他者に対して何か良いものを提供したいと思っているのであれば、何か良いものを提供するための鍛錬を積まなければなるまい。
何の鍛錬も積まずして人様に良いものを提供しようだなんて、考えが甘いにも程がある。
社会人として必要になってくる協調性や奴隷性を提供できている人達は、なぜそれらが提供できているのか?というと、学校の勉強やサークル活動、人付き合いなどの鍛錬を積み重ねてきたから提供できているのである。
元から向いていたという部分もあるかもしれないが、鍛錬を積み重ねたという事実は変わらない。
人が活躍しているのには、それなりの理由があり、それは鍛錬の積み重ねや素質によるものが大きいということである。
ならば、現在社会人として活躍できていない人達はいったい何なのか?
答えは簡単だ。
その素質が無かった人間であり、また協調性や奴隷性を提供するための鍛錬をコツコツと積み重ねてこなかった人間なだけである。
ならば彼らは、どんな鍛錬を積み重ねてきたのだろうか?
何の鍛錬も積まずに、生きてきたのである。
そんな彼らが今から社会に対して、協調性や奴隷性を提供することは可能であろうか?
可能かもしれないが、かなりの負荷が掛かることは避けられないだろう。
それを承知の上で社会人になろうと努力する人もいるが、おそらく大半の人は、それを承知しているからこそ、ヒキニート継続を選択する。
何の鍛錬も積んでこなかったヒキニートに出来る事って一体なんだろう?
提供することが現時点で不可能なのだとするならば、することは一つしかない。
鍛錬である。
協調性や奴隷性を身に付けるための鍛錬が不効率というのなら、それとは真反対のベクトルで鍛錬を積めばいいのだ。
キチガイの鍛錬である。
ヒキニートというだけで、あなたはキチガイの素質を持っている。
何の鍛錬も積まなければ、どこにでもいる中途半端なキチガイで終わるが、キチガイとしての鍛錬を積み重ね、一流のキチガイになれば、それはそれで需要のある人間になる可能性がある。
キチガイの鍛錬とは何なのかというと、
誰の目も気にせず、自分の興味の進むままに突き進んでいくということ。
リミッターを解除するのである。
これをやったら社会に変な目で見られるからやめよう…ではなくて、自分の中の社会性を全て削除してしまって、一人の奇人変人、キチガイとして成長するために、鍛錬を積むのである。
それでいいと思う。
まぁヒキニートの選択肢は3つだよね。
このまま何もしないでいるか、社会人としての鍛錬を積んで社会人になるか、キチガイとしての鍛錬を積んでキチガイになるか。
孤独に負けると、社会人の鍛錬をはじめちゃうこともあるだろう。
それでも別にいいんだけど、俺としては結局辛いだけだから、そこは中途半端にしちゃっていいと思ってる。
社会なんてクソのアホのバカである。
さぁ今すぐキチガイの鍛錬をはじめよう!