こんなボランティアは嫌:ボランティアは無責任という立場をわきまえる【人生で唯一二度と会いたくない人】

こんなボランティアは嫌:ボランティアは無責任という立場をわきまえる【人生で唯一二度と会いたくない人】

ボランティアにもいろいろなタイプのものがある。

完全無償のものもあれば、有償のものもあるし、
交通費だけを補填するものや、ボランティア活動の費用効果よりも少ない報酬を払うものもある。
だから、「ボランティア」という言葉を使うときは、その言葉が指す対象を明確にしないと誤解を招くこともある。
「ボランティア=全て無償」と考えるひとがいるからだ。

しかし現在では、時給換算すれば1000円はするようなボランティア活動を8時間行って、2000円のお金を頂いたりするというタイプのボランティアも多い。


このように、様々な形態や取り組みが存在するボランティアだが、一貫して共通することは
ボランティアと言うのは一時的な存在であるから、取り組みに対して全責任を背負うことができない(負うべきではない) ということだ。


つまり、
責任を持つことができない人物が、現場で責任者たちを凌駕して、実権を握ってはいけない と思うのだ!

あれは数年前のことだった

数ヶ月前に購入した、オレンジ色のアウターを好んでヘビーローテションしている。
ローテーションしていないくらい、とても頻繁に着ている。

昔、学生のころにしたボランティアで「この人たちのようなボランティア活動はしたくないな!!」と憤慨したとき、そのボランティアの人が羽織っていたのがオレンジ色のアウターだった。
ぼくは、オレンジ色の服を着たくなかった。
そのくらい心に深く刻まれた嫌な記憶だ。

決して忘れることのない反面教師の教訓的な出来事なので、愛用のアウターに袖を通すたびに頭の中をちらつく。


そこで得られた教訓を、この記事では記したい。

”プロのボランティア”だろうが、現場責任者の指示のもとで動け

ボランティアは縁の下の力持ちである とぼくは思っている。
一時的な支援は、恒常的なものではない。
1日や2日だけのボランティア活動はあくまでも極々一時的なヘルプに過ぎず、その現場で数年正社員として働いている人を権限的な意味でも超越するべきではない。
というか、超越することはあり得ない。

なぜなら、ボランティアが責任を取ることはないからだ。
たとえボランティアが何か問題を招いたとしても、それはボランティアに依頼した正社員(責任者)が問題の責任を負う。

そういう関係があるのだから、ボランティアは現場責任者からの指示に従う必要がある。
(細かい部分は各個人に委ねられるのは普通)



だから、どれほど手際の良いボランティアであっても現場では責任者の指示を仰ぎ、動くべきだと思う。
そして、現場責任者側は、ボランティアをうまく扱って、効率よく動いてもらえるように管理する技量が求められる事実もあるだろう。


この【ボランティアー現場責任者】の関係性が崩れると、現場は混乱する。
現場に慣れているボランティアが、現場責任者の指示なく、勘違いして動き始めることがあるからだ。

問題が起きても責任取る気がないなら、勝手なことはしないほうがいい

特殊な話だけど、小学校の宿泊ボランティアを例にしよう。
体験学習のような宿泊に付きそうものだ。
同じ宿泊先に行くことをなんども体験すると、ボランティアでもその現場に詳しくなる。

たとえば、どこにキャンプファイヤー用の焚き木があるとか、リニアカーがあるとか、一言指示をもらえるだけでスムーズに動くことができるようになる。

だから、子どもの面倒や体験学習の現場段取りに時間を割く必要がある先生たちよりも、裏で下準備に帆走しているボランティアの方が現場のことを知っていることもある。


それは当たり前のことなのだが、
ぼくが人生で唯一「この人のような人間にはなりたくないな」と心に深く誓った人は、現場の指示を仰がず、
「〇〇はやっておきました」
「次の次の予定は〇〇だから、それも準備しておきました」と、まぁ勝手に(周りが動きを全く把握できないくらい)動き回っていた。

ぼくは教育関係のことは全くわからないので、指示されたことを着実にこなすスタイルを徹底していた。

仕事がなければ、責任者の人に指示を仰ぐけど、それはボランティアの人からではない。彼は責任者ではないから。

それに、子どもたちの宿泊学習が最も優先されるべき事項なので、教育現場の経験がないぼくは駒に徹したほうが全体の効率が良かった。指揮官が、子どもたちの状態や次の予定を含め、網羅的に把握している必要があると思ったからだ。



彼が子どもたちのいる現場を放棄して、現場責任者の指示なく、自己判断で裏方の作業を勝手にやっているから、ぼくは全体のバランスを取って子どもたちを監督していた。
グループに分けられた30人ほどの子どもたちの側に、大人が誰もいない状況になっていたからだ。

ぼくがそのように大人の仕事のバランスをとって子どもとばかり一緒にいると、
それに対して不満を持った彼は「仕事を探すんだよ!子どもたちと遊ぶんじゃなくて、仕事を見つけないと!!」と言ってきた。
ぼくからすれば、「彼は先取っているつもりで勝手に動いて、先生にも報告しないワンマンプレーをしている」だけだったのだが、
彼からすれば、「ぼくは仕事を見つけようともせずに子どもと遊んでる大学生」くらいのものだったのだろう。



この時の先生がたは、人に仕事を捌くのがあまり得意ではなかったから、この”プロのボランティア”をコントロールする人はいなかった。
彼がもっとも現場を知っており、なんでも先回りして勝手に動いているから、指示も出しにくかったのだろう。




あまり、この例を事細かく書くことに意味はないので、結論を書こう。


この”プロのボランティア”が現場を放棄して、責任者の指示なく動くから、子どもたちのいる現場を監督する大人が不足し、子どもたちのケガが多発した。
彫刻刀で手を怪我してしまう子や、大人の監視下にないが故に走り回って捻挫する子。

さらに、このボランティアは「ボランティア慣れしている”プロ”」なので、時間潰しの体育館アクティヴィティで子どもたちの耐久力には見合わない超ハードな遊びを提案し、1人は近くの病院へ連れて行くほどの怪我、もう1人は脱水症状のような状態で保健室に行くことになった。

そのようななかで、彼は責任者の立場にないので、子どもたちがいる場所で平気で関係のない電話をしたりしていた(途中からぼくもそういう嫌な情報の方に気が向いてしまった)。

責任を負わされることのないボランティアだからこそ、無責任な言動は慎むべき

ぼくは、彼のようには大人にはなりたくないと、人生で初めて思った。

当時「ひとはそれぞれ正義があってー」という、セカイノオワリのドラゴンナイトという曲が子どもたちの間で大人気していたのをよく覚えている。
ひとにはそれぞれポリシーや考えがあって、それに基づいて行動するのはよく理解できる。

でも、こと、ボランティアに関しては、立場をわきまえる必要がある。
子どもたちが怪我をしたことに対する責任は、ボランティアではなく、現場責任者の先生が負うのだ。


ぼくは今でも、”プロのボランティア”と呼ばれていた彼が勝手な行動をして、子どもたちに怪我が多発する結果になっても、ヘラヘラとどこ吹く風で自分になんの責任もないことを理解していたのが、嫌だった。気に食わなかった。



ボランティアは、自分が責任を負わされることがないからといって、無責任な言動をとっていいわけでは決してない。

これまでの人生に置いて、「二度と会いたくないな」と思ったのはこの”プロ”だけだ。
そのくらいぼくは彼を人生の反面教師にしている。

この経験が理由で、協力隊では「相手が望むこと」にこだわっていた

青年海外協力隊というのは、ボランティアだ。
お金が出るので、有償型。

ぼくは基本的にコロンビアでの活動期間中、現場の彼らからの要望に応える形にしていた。
要望が出てくるように仕向けた。


勝手に、自分の理想を求めて、相手に変化や改善を促すのはとても簡単なことだ。
相手が変わるかどうかはいずれにしても、主張はできる。

でも、強引に何かを進めたりするのはやめたほうがいい気がする。
無論、強引に進めようとしても、全く進まないのが常だろうけど。

たかが2年間しか現場にいない人間が、なにかを大きく変えてしまう可能性を秘めていることに対して責任は取れない。
無論、全く変わらないから要らん心配でもある。





いろいろな経験が自分のポリシーを創り上げていると思うと、彼のような”プロのボランティア”に出会えて良かったなとも思う。


オレンジのアウターは、もう自分の色に染まっている。


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Chaito

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