「聖母マリアへのまことの信心」(聖グレニョン・ド・モンフォール著)

読者の皆様、この本は宝であります。
神秘的な働きによってマリア御自身が
あなたを選ばれ手の中に納められたのです。

「聖母マリアへのまことの信心」 第六巻

2022-12-02 14:51:20 | 日記

         カルメルの聖母

第四節 この完全な信心についての予言的声明

111.わたしは、マリアについては、じつにたくさんのことを書いてまいりました。が、まだ書き足りないと思うのです。わたしは、マリアの本当のしもべ、イエズス・キリストの本格的な弟子を養成したい意図をもっていますので、マリアについてはまだまだたくさんのことを言いたいですし、それだけにまた、自分の学識の不足から、また時間の不足から、書きもらすことがずいぶん多いだろうと思うのです。



112.ああ、もしわたしのこの小さな本が、霊的に氏も育ちも良い人―すなわち「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく」(ヨハネ1・13)ただ、神とマリアによって生まれた人の手にはいり、さらにこの本が、わたしがこれから書きしるそうとしている、マリアへのまことの堅実な信心の優秀さと価値を、聖霊の恵みによって、この人に見いださせ霊感してくれるなら、わたしの苦労はむくいられてなお余りあるというべきです。

わたしの最も愛する母マリア、わたしの最も尊敬する女王マリア―わたしはマリアの最もツマラヌ子であり、最もいやしいしもべですが―このマリアのみ栄えのために、わたしがこれから書きしるそうとしているもろもろの真理を、読者の心の中にそそぎ入れるために、わたしのけがれた血でも、もし役にたちますなら、わたしは喜んでインキのかわりに、自分の血で、この原稿を書いていきたいものです。読者の中には、わたしが述べる信心の実行に忠実なかたが、きっとおられることと希望しております。

どうか、そういう忠実な読者が、わたしが自分の忘恩と不忠実によって、最も愛すべき母マリア、最も尊敬すべき女王マリアにおかけした、もろもろの莫大な損害をつぐなってくださいますように。



113.わたしが心の奥そこに秘蔵してきたすべての企画―しかもその実行を、何年も前から神に祈り続けてきたすべての企画が、いよいよ近い将来に、達成への糸ぐちを見いだすのではなかろうか、との予感がしきりに、わたしの脳裏をかすめるきのうきょうなのです。この企画が、達成への糸ぐちをつかむとき、マリアはおそかれ早かれ、もっと多くのこども、しもべ、愛のドレイを持つようになるでしょう。そしてこの人たちの活躍のおかげで、イエズス・キリストが今までよりもいっそう強力に、人びとの心の中で、ご自分の支配権を行使されるでしょう。



114.わたしは、こんなことを予測しているのです。すなわち、この小さな本と、それを書くため聖霊がお使いになった人(=著者)を、悪魔的な歯でかみ砕き、八ッ裂きにしようと、多くの敵どもが、怒り狂う野じゅうのように、襲いかかってくるでしょう。すくなくともかれらは、この本を出版させないために、どこかの倉庫の片すみに、やみと沈黙とホコリの中に埋没させるでしょう。そればかりでなく、この本を読んで、まことの信心を実行する人々に対してさえも、迫害の手をのべるでしょう。

かまうもんですか。いや、それで結構。こうした展望は、わたしを大いにはげまし、大成功まちがいなし、との希望さえ与えてくれるのです。つまり、まもなく急テンポでやってくる宇宙ぐるみの超非常事態に際会して、イエズスとマリアの大軍団が、しかも忠勇無双の男女両兵士の大軍団が、世界のずい処に旗あげをし、世俗に対して、悪魔に対して、腐敗した人間性に対して、血みどろの戦いをいどみ、最後には勝利をおさめるのです。

“読者は、よく読み取るように”(マタイ24・15)“それができる者は、それを受け入れなさい”
(マタイ19・12)



第五節 マリアへの信心のうち、どんな信心業を選ぶべきか

115.マリアへのまことの信心の内面的な信心業はたくさんありますが、そのうちの主要なものを簡単に述べましょう。

①マリアを、神の御母として、“崇敬”する。すなわち、マリアを、すべての聖人にまさる者として恩寵の傑作として、神人イエズス・キリストの次に偉大な者として、高く評価し敬慕する。
②マリアの善徳・特権・行為を黙想する。
③マリアの偉大さを観想する。
④マリアに、愛と賛美と感謝の気もちをあらわす。
⑤心からマリアに呼ばわる。
⑥自分のすべてをマリアにささげ、マリアと一つになりきる。
⑦マリアを喜ばせるために、すべてのわざをなす。
⑧自分のすべてのわざを、マリアによって、マリアのうちに、マリアとともに、マリアのために始め、続け、終わる。

それを、わたしたちの、終局の目的であるキリストによって、キリストのうちに、キリストとともに、キリストのために行うためです。この最後の、すなわち⑧番目の信心業については、のちほどくわしく説明します。



116.マリアへのまことの信心には、外面的な信心業もいくつかありますが、そのうちの主要なものを左にしるしましょう。


①マリア関連の信心会、使徒職に加入する。
②マリアの栄光のために創立された修道会に入会する。
③公にマリアをたたえる。
④マリアの栄光のために、ほどこし・断食・精神的・肉体的苦業をする。
⑤ロザリオ、スカプラリオ、などのマリア関連の信心用具を、いつも身につける。






⑥注意して、熱心に、敬虔に、次の祈りを唱える。―イエズス・キリストの主要な十五の奥義をたたえて、十五連のロザリオの祈り。
または、マリアへのお告げ、マリアのご訪問、主の降誕、主の奉献、神殿内での発見、という五つの喜びの奥義をたたえてロザリオ五連。

ゲッセマニの園での主のご心痛、ムチ打ち、イバラの冠、十字架の道、十字架上の死苦、など主の五つの苦しみの奥義を尊んで、ロザリオ五連、主の復活、主の昇天、聖霊降臨、聖母の被昇天、聖母の戴冠式、など五つの栄光の奥義をたたえてロザリオ五連。

マリアのおとしをたたえて“めでたし”六十回、または七十回(マリアは六十歳か七十歳かでおなくなりになったそうです)。マリアの十二の星の冠、すなわち十二の特権をたたえて、“天にまします”を三回、“めでたし”を十二回。

または、全教会に受け入れられ、となえられている「聖母の小聖務日課」。聖ボナベントラ編集の「聖母の小詩篇」。これをとなえると、おとなでも子供の心になり、マリアに対して本当に心が優しく、信心が深くなります。

次にマリアの十四の歓びをたたえて、“天にまします(主の祈り)”と“めでたし(アヴェマリアの祈り”を各十四回。

または教会が推薦する祈り、賛美歌など、たとえば典礼の季節に応じて、となえたり、歌ったりするサルヴェ・レジナ”Salve Regina”(聖霊降臨後節)、アルマ・レデンプトリス・マーテル”Alma Redemptoris Mater”(待降節)、アベ・レジナ・チェローム”Ave Regina coelorum”(降誕節)、レジナ・チェリ”Regina Coeli”(復活節)。その他、祈祷文や聖歌集にいっぱいのっている祈り、または賛美歌。たとえば、聖母の賛美歌といわれるマグニフィカト”Magnificat”又はオ・グロリオーザ・ドミナ”Ogloriosa Domina”

⑦マリアをたたえて、霊的賛美歌を、自分も歌い、ひとにも歌わせる。

     聖歌隊

⑧マリアのみ前に何度も何度も、尊敬のしるしに、ヒザを折ったり、礼をする。

たとえば毎朝、百回も六十回も、“アベ・マリア・ビルゴ・フィデリスAve Maria Virgo Fidelis”(めでたしマリア、忠信なる童貞女よ)といいながら。一日中、神の恩寵に忠実に従うめぐみを、マリアをとおして、神からいただくためです。晩には、”アベ・マリア・マーテル・”Ave Maria Misericordiae”(“めでたしマリア、あわれみの御母よ)といいながら。その日おかした罪のゆるしを、マリアをとおして、神からいただくためです。

⑨マリアの信心会のために働き、マリアの祭壇をかざりマリアのご像や、ご絵を美化する。
⑩マリアのご像やご絵を、行列のとき、自分も持ち、ひとにも持たせる。マリアのご絵を、少なくとも一枚、いつも身につけておく―悪魔への精強な武器として。
⑪マリアのご絵や、マリアのみ名を大書したカンバンを作らせる。それを教会や、家の中に置く。または町・教会・家の門や戸口にかかげる。
⑫マリアの特別な、荘厳な儀式で、自分じしんを、マリアに奉献する。



117.マリアへのまことの信心の具体的信心業の中には、まだまだ、たくさんあります。どれもこれも、聖霊が、聖なる霊魂たちに霊感してくださったもので、聖性の進歩に、たいへん役立ちます。また、イエズス会員のポール・バリ神父が書いた「フィラジに開かれた天国」という本の中には、聖人たちがマリアの栄光のために実行したいろんな信心が、たくさんのっています。こうした信心は、わたしたちを聖化するために、ふしぎなほど効果があります。しかし、次の要領でそれを実行せねばなりません。

①ただ神だけをお喜ばせしたい、自分の終局の目的であるイエズス・キリストとまったく一つになりきりたい、隣人にとっても良い手本となりたい、との善良な、まっすぐな意向をもって。
②意識的に気を散らさず、細心の注意を払いながら。
③あんまり急がず、持続した信心の念をもって。
④謹厳な態度、すなわち神への尊敬に満ち、隣人に良い模範となる態度をもって、それを実行せねばなりません。



118.何はさておき、わたしは声を高めて、次のように宣言する者です。わたしは、マリアへの信心を論じている本は、ほとんどみな読みました。今日の世界で、学徳ともに優秀な、いろんな人物とも親しくつき合い、かれらの言いぶんも聞きました。だが、そのあと、わたしが現在、実感としてもっていることは、マリアへの信心業のうち、わたしがこれから公開しようとしている信心業に比肩するものは、今のところ、知ってもいないし、聞いてもいない、ということです。わたしが、これから述べようとしているマリアへの信心は、ざいらいの信心にくらべて、神のため、霊魂からもっと多くのギセイを要求します。霊魂を自分自身から、また自愛心から、もっと空虚にし、浄化します。
霊魂を恩寵のうちに、また、恩寵を霊魂のうちに、もっと忠実に安全に保ってくれます。
霊魂をもっと完全に、もっと容易に、イエズス・キリストと一致させてくれます。
さいごに、神にとってはもっと栄光となり、霊魂にとってはもっと聖化能力を発揮し、隣人にとってはもっと有益となるのです。



119.この信心は、その精髄がもともと、霊魂の内面に存するのですから、すべての人が、おなじように理解できる性質のものではありません。ある人たちは、この信心の外郭でストップし、それ以上の進歩は望めないでしょう。そして大部分の人がこの部類でしょう。ごく少数の人が、内面にまで立ち入ることができましょうが、そこから信心の段階を、ただ一段しか登れないでしょう。
二段まで登れる人がいましょうか。

さらに三段まで登れる人がいましょうか。さいごに、そこで、信心の状態にふみとどまっておれる人がいましょうか。いるとしたら、それは、イエズス・キリストの聖霊から、この新しい信心のヒミツをおしえていただいた霊魂だけなのです。聖霊は、ごじしんで、この忠実な霊魂を、信心の状態へとお導きになるのです。こうした中で、この霊魂は、徳から徳へ、恩寵から恩寵へ、光から光へと、向上進歩し、ついには自分の全存在をあげてイエズス・キリストに変容し、聖性においてはすでにこの世で、キリストの背たけに達し、のちの世では、キリストの栄光の度合いに達するのです。


       キリストの栄光


第Ⅲ章 マリアへのまことの信心の本質


第一節 それは自分自身を、マリアをとおして、イエズス・キリストにまったくささげ尽くすこと

120.わたしたちの完徳のすべては、わたしたちが、イエズス・キリストに変容すること、つまり、イエズス・キリストとまったく一つになり、イエズス・キリストにまったくささげ尽くされることに存します。だから、あらゆる信心の中で、いちばん完全なのは、うたがいもなく、わたしたちをいちばん完全に、イエズス・キリストに変容させてくれるもの、かれとまったく一つにしてくれるもの、かれにまったく自分をささげ尽くさせてくれるもの―でなければなりません。

ところで、マリアは、あらゆる被造物の中で、イエズス・キリストにいちばん変容しておいでになるのですから、当然の帰結として、あらゆる信心のなかで、いちばん霊魂をイエズス・キリストに変容させ、ささげ尽くさせる信心は、その御母マリアへの信心なのです。また、霊魂が、マリアにささげ尽くされれば、それだけイエズス・キリストにも同様にささげ尽くされるのです。

だから、イエズス・キリストへの完全な自己奉献は、マリアへの完全な、全面的な自己奉献と表裏一体をなすものです。ことばを変えて申せば、それは、洗礼の約束の更新にほかなりません。そういう信心を公開したいのです。



121.そんなわけで、この信心は、自分自身をすべて、イエズス・キリストにささげ尽くすために、まず自分じしんをすべて、マリアにささげ尽くすことに存します。どんなものを、マリアにささげねばなりませんか。

それは次のとおりです。

①わたしたちのからだ、からだのすべての感覚、機能、からだのすべての部分。
②わたしたちの霊魂と、霊魂のすべての能力。
③わたしたちの外的善、すなわち、現在所有している、また未来に取得可能な、すべての地上的善。
④わたしたちの内面的精神的・霊的善、すなわち、わたしたちが過去・現在・未来をつうじて蓄積するすべてのクドク、善徳、善行。これは要するに、わたしたちが自然界と恩寵界において、現在所有しているすべてのもの、さらにまた将来、自然界、恩寵界、光栄界において、所有できるすべてのもの。それも最後の一セン一リン、一本の髪の毛、極微の善行にいたるまで、残りくまなく、しかも一時的ではなく、永遠にわたって、ささげ尽くさねばなりません。

そのうえ、これらの奉献、これらの奉仕のむくいとしては、自分は、マリアをとおして、マリアにおいて、イエズス・キリストに隷属しているのだ、というプライドと光栄のほかにはどんなむくいも要求せず、期待してもなりません。たとえマリアが―実際は絶対にそうではないのだが―被造物の中で、いちばん大らかでもなく、いちばん恩に感じやすいかたでもないと仮定してでもです。



122.ここで、注目していただきたいことがあります。それは、わたしたちがする善行には、二種類があるということです。すなわち、罪のつぐないとなる善行と、クドク(功徳)となる善行。別のことばで申せば、罪をつぐなう価値、または神に何かを祈求できる価値をもつ善行と、クドクとなる価値をもつ善行。

ある善行の、罪をつぐなう価値、または神に何かと祈求できる価値とは、つまり、おかした罪に相応する罰をつぐなう善行、または神から新規な恩寵を取得できる善行のことです。クドクとなる価値、または単にクドクとは、恩寵と永遠の栄光にあたいする善行のことです。

 ところで、わたしが今さっき述べた、マリアへの自己奉献によって、わたしたちはマリアに、自分がもっているすべての、つぐない価値、祈求価値、クドク価値―つまりは、自分のすべての善行のつぐないとクドクを、ささげ尽くしてしまうのです。こうした自己奉献によって、わたしたちはマリアに、自分のクドク、自分の恩寵、自分の善徳をささげるのです。それを、ほかの人に流通するためではありません。(なぜなら、わたしたち自身のクドク、恩寵、善徳は、ほかの人に流通できないものです。ただイエズス・キリストだけが、御父のみ前における、わたしたちの仲介者として、ご自分のクドクを、わたしたちに流通することが、おできになったのです。)

そうではなく、わたしがのちほど申しますように、わたしたちが自分のために、それを保ち、ふやし、美化するためなのです。わたしたちがマリアに、つぐないをおささげするのは、マリアがそれをおのぞみの人に、また神の最大の栄光のために、流通してくださるためなのです。



123.以上述べてきたことから、次の結論が出てまいります。

①この新しい信心によって、わたしたちはイエズス・キリストに、いちばん完全な仕方で―なぜなら、それはマリアのみ手をとおしてなされますから―自分が、かれにささげることのできる、すべてのものをささげるのです。しかも、ほかのざいらいの信心によってそうするよりも、はるかに多くのものをささげるのです。ほかの信心だと、自分の時間、自分の善行、自分のつぐない、自分の苦業のタダ一部分しか、イエズスにはささげません。

この信心では、自分のもっているすべてのものが、自分のもっている内面的善の使用権までが、また自分がくる日もくる日も、善行をおこなって取得したつぐないまでがすべて、イエズスにささげられ、聖別されるのです。こんなことは、おそらくどんなに神聖な修道会でも、メッタに見られない風景かと思います。

修道者は、清貧の誓願によって、自分の地上財産を神にささげます。貞潔の誓願によって自分のからだを神にささげます。従順の誓願によって、自分の意志を神にささげます。ときたま、閉居の誓願によって、自分のからだの自由移動を、神にささげることもあります。しかし、かれは、そんなことによって自分の善行の価値の自由処理権までも神にささげるのではありません。この信心ほどキリスト信者の精神を、かれのいちばん貴重な、いちばん愛すべき霊的資産である、自分自身のクドクとつぐないへの愛着から、離脱させるものはありません。


               修道士たち

124.②当然の結果として、このように自発的に、マリアをとおして、自分じしんを、イエズス・キリストにささげ尽くし、ギセイにした人は、もはや自分の善行の価値は一つも、自分勝手に、処理することができなくなります。この人が苦しみ、考え、語り、おこなうすべての善は、そっくりそのまま、マリアのものとなります。マリアはそれを、御子イエズスのお望みにしたがって、かれの最大の栄光のために、ご自由に処理されるのです。しかし、自分の善行のマリアへの帰属は、けっして身分上の義務に抵触しません。―現在、自分が果さねばならない義務にも、また将来果たさねばならない義務にも。

たとえば、司祭は義務として、または他の何かの理由で、自分がたてるミサの、つぐない価値と祈求価値を、ある特定の人の意向に従って神にささげねばなりません。こんな場合、司祭は神の命令により、また身分上の義務によって、そうするのだから、そうした奉献は、自分の善行の、マリアへの帰属を、絶対に妨害するものではありません。


125.③さらに、こういう結果も出てまいります。すなわち、わたしが提唱する信心によれば、わたしたちは自分自身を、御母マリアとイエズスとに、同時にささげ尽くすことになります。御母マリアに。すなわち、イエズスが、わたしたちと一体になるため、またわたしたちをご自分と一体にするためにお選びになった、完全な手段としてのマリアに。と同時に、イエズスにも。なぜなら、イエズスこそ、わたしたちの終局の目的であり、イエズスこそ、わたしたちのあがない主、わたしたちの神なのですから、わたしたちはイエズスに、すべてを負っているからです。



第二節 完全な信心による自己奉献は、洗礼の約束の完全な更新

126.前にも申しましたように、この信心はまさしく、洗礼のちかい、洗礼の約束の完全な更新だといっても、差し支えないのです。

キリスト者はすべて、洗礼を受ける前には、悪魔のドレイでした。悪魔に隷属していたからです。しかし、洗礼のとき、自分じしんの口でか、または代父・代母の口をかりて、公式に、悪魔と、その栄華と、そのわざを捨て、以後はイエズス・キリストを、自分の主、自分の神とすることを、そうごんにちかったのです。これからは愛のドレイとして、イエズス・キリストに隷属し、仕えることを、おごそかに約束したのです。


        洗礼式

それはまさしく、この信心がすることとまったく同じものです。この信心によって、(奉献文にしるされているように)わたしたちは、悪魔と、世俗と、罪と、自分自身とを捨て、マリアのみ手をとおして自分自身をまったく、イエズス・キリストにささげ尽くすのです。そのうえ、この信心にはプラス・アルファがついています。

洗礼のとき受洗者は通常、ほかの人の口、つまり代父、代母の口をかりて神に申し上げ、こうして、ほかの人を代理人に使って、自分自身をイエズス・キリストにささげます。しかし、この信心では、自分自身が自発的に、しかも事がらの内容を十分わきまえた上で、それをするのです。

 洗礼のとき、受洗者は、マリアのみ手をとおして、という明白な表現を使って、自分自身をイエズス・キリストにささげるのではありません。また、自分の善行の価値を、イエズス・キリストにささげ尽くすのでもありません。洗礼のあと、それを、好きな人に流通しようと、自分自身のためにたくわえておこうと、まったく本人の自由なのです。

だが、この信心では、ハッキリした表現を使って、自分を、マリアのみ手をとおして、イエズス・キリストにささげ、そのうえ、自分のすべての善行の価値までも、イエズス・キリストにささげ尽くすのです。



127.聖トマス・アクイナスが言っているように、人は洗礼のとき、悪魔とその栄華を捨てる、と神にちかいます。そして聖アウグスティヌスが言っているように、このちかいは、人間が立てるちかいの中で、いちばん大きな、いちばん免除不可能なちかいなのです。教会法学者も言っているとおり、わたしたちが洗礼のとき、神にたてるちかいこそ人間のちかいの中で、いちばん重大なちかいなのです。


 聖トマス・アクィナス


  聖アウグスティヌス

ところで、このいちばん大きなちかいを、完全にまもっている人はいますか。この洗礼の約束を、忠実に守っている人がいますか。ほとんど全てのキリスト信者が、洗礼のときイエズス・キリストに約束した忠誠を、破棄しているではありませんか。この世界的乱脈は、どこからくるのでしょうか。洗礼の約束とちかいの忘却からこそ。洗礼のとき、代父・代母をとおして、神と結んだ契約を、ほとんどだれでもが是認しないからこそ。



128.ルイ・デボネールの命令によって、当時キリスト教社会で暴威をふるった道義的無秩序をたてなおすために召集されたサンスの公会議(829年)は、この全教会的風俗壊乱の主要原因が、洗礼の約束の忘却と認識不足に起因する事実をつきとめました。これはしごく、もっともなことです。そんなわけで、サンスの公会議は、この大きな不幸の防止手段としては、キリスト信者一同に、洗礼のちかいと約束を更新するように呼びかけるのが、最善の策だと議決したのです。



129.「トリエント公会議のカトリック要理」も、このサンス公会議の意向を忠実に汲みとって、主任神父に、おなじことをするようにと命じています。すなわち、信者たちが、自分らのあがない主、神であるイエズス・キリストに、洗礼によって、結ばれ、ささげ尽くされた者であることを再認識し、再確認する方向に、かれらを指導せねばならぬ、と言っているのです。



130.公会議、教父、歴史の経験が声をそろえて、キリスト信者の乱脈矯正への最良手段は、かれらに洗礼の義務を思いおこさせ、洗礼のとき神にたてたちかいを更新させることだ、と言っているからには、今こそ完全な仕方で、すなわち、マリアをとおして、イエズス・キリストに自分自身をささげ尽くす、というこの信心によって、洗礼の義務を思いおこし、洗礼の約束を更新することは、あたりまえではないでしょうか。完全な仕方で―と、わたしは言います。なぜなら、自分自身をイエズス・キリストに、ささげ尽くすための手段として、あらゆる手段の中でいちばん完全である御母マリアを、お使い申しているからです。


     トリエント公会義



(第七巻につづく)

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第1部 信経
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第2部 秘跡
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