「聖母マリアへのまことの信心」(聖グレニョン・ド・モンフォール著)

読者の皆様、この本は宝であります。
神秘的な働きによってマリア御自身が
あなたを選ばれ手の中に納められたのです。

「聖母マリアへのまことの信心」 第五巻

2022-12-02 14:51:43 | 日記
第二節 マリアへのウソの信心

90.以上述べた五つの真理を前提として、これから、マリアへのまことの信心を、きびしい鑑識眼をもって、選別せねばなりません。マリアへのウソの信心が、異例のペースではんらんしていて、しかもそれがホンモノとごっちゃにされやすいからです。悪魔は、ニセガネ造りの名人、ウソつきの名人です。だから、マリアへのウソの信心によって、すでに多くの霊魂をだまし、地獄におとしています。悪魔は、例の経験にものをいわせて、くる日もくる日も、次から次へと、霊魂を罪のうちに愉快に遊ばせ眠らせて、地獄におとしているのです。口先だけで祈っていても、外面的な信心業をしていても、だいじょうぶ天国に行ける、と信者をだましているのです。

ニセガネ作りは一般には、金貨と銀貨しか作りません。銅貨やほかのカネは、ごくまれにしか作りません。金貨や銀貨ほどねうちが無いからです。悪魔の手口も同じこと。悪魔が偽造するのは、イエズスとマリアへの合同信心、聖体拝領への信心、マリアへの信心―だけです。これらの信心は、ほかのあらゆる信心の中で、特に光っているからです。ちょうど、金と銀があらゆる金属の中で、いちだんと異彩を放っているように。



91.だから、何よりもまず、マリアへのウソの信心とは何か。マリアへのまことの信心とは何か。をハッキリ知ることが、もっともだいじです。ウソの信心を捨て、まことの信心を実行するためです。次に、マリアへのまことの信心の中でも、実行面で、いろいろちがった信心業があるのですが、どれがいちばん完全なのか、どれがいちばんマリアのお気に召すのか、どれがいちばん神に栄光をきすのか、どれがいちばんわたしたちの聖化に寄与するのか、を知ることが、もっとも重要なポイントです。それが分かれば、この信心が好きで好きでたまらなくなるからです。



92.マリアへのウソの信心が七種類、したがってマリアへのウソの信心家も七種類があるようです。すなわち、マリア信心への①よろず評論型信心家、②オドオド型信心家、③チンドン屋型信心家、④ワンマン型信心家、⑤シリ焼け型信心家、⑥パリサイ型信心家、⑦エコノミック・アニマル型信心家。



第①項 よろず評論型信心家

93.よろず評論型信心家とは一般に、高慢な学者、自信過剰の知識人のことです。この先生がたも心のそこには、マリアへの信心をいくらかもってはいます。しかし、かれらは、あまり学のない信者が単純に、敬虔に、マリアにささげている具体的信心のほとんどすべてを、自分たちの気に入らないからといって批判し論難しています。十分に信用にあたいする著者が報道している、奇跡や歴史的事実も疑っています。マリアのあわれみと力づよさを実証する、諸修道会の年代史も信じません。
 神に祈るため、街角にあるマリアのご像や、ご絵の前にひざまづいている単純素朴な、謙虚な人たちを見ると、もう我慢できません。やつらは偶像崇拝者だ、木や石をおがんでいるじゃないか、と盛んに非難します。おれたちはこんなウワベばかりの信心は大きらい。マリアにまつわる、子供だましのオトギばなしや、架空的伝説を信じるほど、おれたちは単純細胞じゃない、とかれらは傲語しています。
 それでも教父たちは、マリアさまに、りっぱな讃辞を呈していますョ、とでも言ってごらんなさい。かれらはオオムがえしに、いや、それは説教の練習に、教父たちがホラを吹いたのだ、というにきまっています。と同時に、教父たちのマリア讃辞に、ちがった解釈をするのです。
 この傲慢で俗っぽく、ウソの信心家に対しては、大いに警戒せねばなりません。マリアへの信心に、大きな実害を与えているからです。おれたちは、マリア信心から、有害な毒素を除き去るのだ、と強弁しながら、じつは人びとを徹底的に、マリアへの信心から遠ざけているのです。


第②項 オドオド型信心家

94.オドオド型信心家とは、御母マリアを尊敬すると、それだけ御子イエズスに対して無礼になるのではないか、御母マリアをたたえると、それだけ御子イエズスをくさすことになるのではないか、といつもクヨクヨ心配している信心家のことです。かれらは、教父たちが丹精こめてマリアにささげた、ごくあたりまえの讃辞を、信者が同じように、聖母にささげるのをがまんできません。ご聖体の祭壇よりも、聖母の祭壇の前に、人が多くひざまついているのを見てもがまんできません。御子イエズスと御母マリアが互に、対立関係にあるとでも思っているのでしょうか。御母マリアに祈ることは、それじたい、御子イエズスに祈らないことだ、と信じ込んでいるのです。かれらは、人がしばしばマリアについて語り、しばしばマリアのもとに馳せていくのを見て、マユをひそめています。

かれらがふだん、もちだす言いぶんはこうです。―そんなにたくさんロザリオをとなえて、そんなにしばしば黙想会にあずかって、そんなにしげしげ聖母に信心をして、いったい何の役に立つのですか。そんなことは、学のない者がすることです。そんなことをすれば、われわれの宗教が笑いものにされますョ。イエズス・キリストへの信心のことばかり話しましょう。イエズス・キリストのもとにこそ、馳せて行かねばならんのです。イエズス・キリストこそ、わたしたちの唯一の仲介者ではありませんか。イエズス・キリストのことだけ、説教しなければなりません。
これが本当の信心というものです。・・・

なるほどかれらの言い分にも一理あります。しかし、かれらは、自分らの理論の応用の面で、まちがいをおかしています。すなわち、イエズス・キリストへの信心促進という、より大きな大義名分のために、マリアへの信心を妨害している、という点が、たいへん危険な思想であって、ここにこそ悪魔がたくみにしかけた、おとし穴があるのです。なぜならマリアを尊べばそれだけ、イエズス・キリストを尊ぶことになるのです。イエズス・キリストをますます完全に尊びたいからこそ、マリアを尊ぶのではありませんか。わたしたちの人生の終着駅は、イエズス・キリストです。終着駅への道がマリアです。マリアのもとに馳せて行くのです。



95.聖なる教会は、聖霊とともに(ルカ1・42)まずマリアを、次にイエズス・キリストを、それぞれ祝します。「あなたは女の中で祝され、またご胎の御子イエズスも祝されたもう」(天使祝詞)それは、マリアがイエズス・キリストよりも偉大だからではありません。イエズス・キリストと平等だからではありません。もしそうだったらこれは大変な異端です。

そうではなく、イエズス・キリストをふさわしく祝するためには、どうしてもその前にマリアを祝させねばならないからです。だから安心して、オドオド型信心家どもの反対をよそに、ホンモノ信心家とともに、マリアを祝して祈りましょう。「ああ、マリア。あなたは女の中で祝され、またご胎の御子イエズスも祝されたもう」

      受胎告知

第③項 チンドン屋型信心家

96.チンドン屋型信心家とは、マリアへの信心をもっぱら、外面的なわざに限定する人たちのことです。かれらは内的精神をもたないのですから、マリアへの信心でも、その外面的わざにしか興味がありません。大いそぎでロザリオをとなえます。心は散らしたままで、幾つものミサにあずかります。漫然と教会の行列にもあずかります。黙想会にもあずかりますが、でたらめな生活をいっこうに改善しません。情欲も自主的に規制しません。マリアの善徳も模倣しません。

信心の感覚的方面だけが好きで、中身を味わうことができません。外面的信心業に感激をおぼえなくなると、もう信心はダメだ、信心なんて愚の骨頂だ、とグチをこぼします。あげくの果ては、信心を全然やめるか、それとも時々思い出したようにかしません。世間にはこんな、チンドン屋型信心家が多いものです。しかもこの人たちぐらい、本当に祈っている人を、きびしく非難する者もありません。本当に祈っている人は、信心の内面的要素を、本質的なものと考えて、これと取組み、それでいて、本当の信心につきものの外面的つつましさも、おろそかにしません。これが、チンドン屋さんにとって、目の上のタンコブです。



第④項 ワンマン型信心家

97.ワンマン型信心家とは、情欲のおもむくままに、自由放題に生活している罪びと、世俗精神の愛好家のことです。口では、おれはキリスト信者だ、聖母信心家だ、と偉そうなことを言いながら、心の中には傲慢、貪欲、不品行、暴欲、憤怒、不正、悪口、不正義などの諸悪をかくし持っています。悪い習慣の中に平気でねむっています。おれはマリアさまに信心をしているのだから、というウマイ口実をもうけて、いっこうに自分の悪徳をたて直そうとはしません。

自分は毎日、ロザリオをとなえているのだから、毎土曜日、聖母をたたえるため断食をしているのだから、ロザリオやスカプラリオの信心会に籍を置いているのだから、聖母崇敬の信心用具を身につけているのだから、ああもしているし、こうもしているのだから、臨終のとき神はきっと、わたしの罪をゆるしてくださるにちがいない、よもや告解の秘跡も受けないで死ぬことはあるまい、とタカをくくっています。





このように、のん気にかまえているかれに向って、いや、あなたの信心はまちがっています、それは悪魔からくる迷いです。あなたを地獄におとす可能性のある、危険な思い上がりです、とでも言ってごらんなさい。絶対に信じはしませんから。反発的にこう言うでしょう。―いや、神さまはお人よしで、あわれみ深いかたです。地獄におとすために人間を、お造りになったのではなりません。だれだって罪はおかすでしょう。まさか告解の秘跡も受けないで死ぬことはあるまい。臨終のときタダ一言、神さま、わるうございました、といえばそれですむのじゃないでしょうか。

それにわたしは、ちゃんとマリアさまに信心をしております。
マリアさまのスカプラリオも、ちゃんと身につけています。毎日、マリアさまのご栄光のために、「主の祈り」を七度、それも忠実に謙虚に、となえています。ときどきは、ロザリオも、聖母の小聖務日課も、となえていますし、断食もしております、などなど。かれらは、自分たちの言い分を確証し強調するため、人から聞いたのか、本で読んだのか知らないが、とにかくウソかマコトか分からぬ“実例”をもち出します。それによるとこうです。ある人が大罪をもちながら、告解もせずに死んだ。だが、かれは生前、いくらか祈りもとなえていたし、また聖母信心のわざも実行していたので、告解するために奇跡的に生き返ったそうな。またある人は本当に息をひきとったが、その霊魂は告解の秘跡を受け終わるまで、からだから離れなかったとか。またある人はマリアさまのお情けによって、痛悔の罪のゆるしを神からいただき、めでたくも大往生をとげたとか。恵みだから、自分たちもマリアさまから、同じ恵みを期待しているんでございますョ、と言っているのです。



98.わがキリスト教において、こうした悪魔的な思い上がりほど、危険なシロものはありません。なぜなら、自分がおかしている罪によって、御子イエズス・キリストを、もう一度ムチ打ち、つき刺し、十字架につけ、情け容赦もなく侮辱している者が、おれは御母マリアさまを愛している、マリアさまを尊敬している、と真実に言えるでしょうか。

もしマリアが、この種の罪を是認している、ということにはなりませんか。つまり、御子イエズスを、もう一度、十字架につけ、侮辱する仕事に、マリアが協力している、ということにはなりませんか。しかし、どうしてそんなことが考えられますか。



99.ご聖体のうちにおられるイエズス・キリストへの信心の次に、いちばん神聖な、いちばん堅実な信心であるべき聖母への信心の、こうした乱用は、まさに、いちばん大きな、いちばんゆるしがたい汚聖であるべき、汚聖の聖体拝領に次ぐ汚聖である、とわたしはあえて断言します。



聖母への本当の信心をするには、望ましいことですが、必ずしもすべての罪をさける大聖人である必要はありません。だが、少なくとも(これからわたしの言うことをまじめに聞いてもらいたい)

第①に、御母マリアと同様、御子イエズスも侮辱するすべての大罪をさける、という誠実な強固な決心をもっていなければなりません。

第②に、罪をさけるために、自分にきびしい規制をほどこさねばなりません。

第③に、ある信心会に加入する、ロザリオの祈り、またその他の祈りをとなえる、土曜日に断食をする、などの具体的信心業を実行せねばなりません。



100.こうした信心業は、どんな罪人にとっても、頑固な罪人にとってさえも、不思議なほど有益です。この本の読者の中に、そうした罪びとがいますなら、また、たとえ片足を地獄の入口に突っ込んでいる罪びとがいましても、わたしはかれらに右の信心業をおすすめします。だが、次の条件をまもらねばなりません。すなわち、これらの善業を実行するその意図は、マリアのお取り次ぎによって、悔い改めと、おかした罪のゆるしの恵みを神からいただくことにあるのであって、絶対に良心のトガに反して、またイエズス・キリストの良い模範、聖人たちのりっぱな手本に眼をつむって、さらにまた福音のとおとい教えに耳をふさいで、安閑といつまでも、罪の状態にふみとどまっているためではないことを強調しておきます。



第⑤項 シリ焼け型信心家

101.シリ焼け型信心家は、散発的に、気まぐれに、マリアに信心をする人たちのことです。かれらは、熱しやすく、さめやすい。おれはマリアさまのためなら、なんでもやってやるぞ、という構えを見せているのですが、しばらくたつと、もとのモクアミにかえってしまいます。最初は、マリアさまに関連のある、ありとあらゆる信心業を片っぱしからやってのけます。いろんな信心会にも入会します。だが、まもなく規約も何も、忠実にまもらなくなります。

かれらは月のように、満ちたり欠けたり。だから、マリアの信用がありません。マリアが、三日月の上に乗っておられるように、かれらの場も、マリアの足の下です。変わりやすいから、マリアのしもべとしては、使いものになりません。マリアのしもべのバッチは、“忠実と堅実”という文字が大書してあります。祈りや信心業は、あんまりたくさんしないほうがいい。むしろ、世間が、悪魔が、肉が、どう言おうと、そんな信心業は量を減らして、かわりに愛と忠誠心をもって、それをしたほうが、はるかにいいのです。



第⑥項 パリサイ人型信心家

102.マリアへの信心をする人びとの中にも、パリサイ型信心家という、ニセモノ信心家がいます。人から聖人と見られたいために、自分の罪とわるい習慣を、聖母のいともきよらかなマントでカバーする、不逞の徒です。



第⑦項 エコノミック・アニマル型信心家

103.エコノミック・アニマル型信心家という者もいます。ふだん、無事平穏のときには、マリアのことなど全然念頭にありません。ただ有事の際だけ、たとえば、訴訟に勝つため、危険から脱出するため、病気をなおしてもらうため、その他、この種の地上的ご利益がほしいときだけ、マリアのもとに馳せていくのです。まったく、あぶないときの神だのみ式信心です。
以上に述べたのは、どれもこれも、ウソの信心家です。かれらは、神のみまえにも、御母マリアのみまえにも、三モンの価値もありません。



104.だから、用心に用心をして、そんな者にならないように気をつけましょう。
なにも信じないで、ただ批評非難ばかりしている、よろず評論家型信心家にならないように。イエズス・キリストへの尊敬をタテにして、マリアにあまり信心しないようにと、いつもクヨクヨしている、オドオド型信心家にならないように。信心のすべてを、ただ外面的信心業にだけ限定している、チンドン屋型信心家にならないように。マリアへのウソの信心を口実に、罪の中に惰眠をむさぼっている、ワンマン型信心家にならないように。軽率にも、信心業をクラクラ変え、わずかな誘惑にもすぐにそれを投げてしまう、シリ焼け型信心家にならないように。人から聖人と思われるために、いろいろな信心会に入会したり、聖母のスカプラリオなどを身につけている、パリサイ型信心家にならないように。さいごにからだの病気や不安から逃してもらうため、または現世的ご利益をもらうためにしか、マリアのもとに馳せいかない、エコノミック・アニマル型信心家にならないように。



第三節 マリアへのまことの信心とその特長

105.マリアへのウソの信心の正体をみぬき、それを断罪したあと、こんどは、マリアへのまことの信心はどうあるべきか、をハッキリさせなければなりません。
マリアへのまことの信心は、①内面的なもの、 ②愛情のこもったもの、 ③聖なるもの、 ④不動なもの、 ⑤無欲なものでなければなりません。




第①項 内面的な信心

106.マリアへのまことの信心の第一の特長は、それが内面的だということです。すなわち、この信心は、精神と心から、でてくるのです。マリアについていだいている尊敬の念から、マリアへの偉大さについての高度の認識から、マリアへの熱く優しい愛から、発生しているのです。



第②項 愛情のこもった信心

107.まことの信心の第二の特長は、それが愛情のこもったものだということです。つまり、マリアに対する信頼に満ちた信心です。

ちょうど子供が、母親に対してもっている信頼のような。まことの信心をもつ人は、からだと精神のあらゆる必要事にさいして、正直に、信頼をもって、愛情をこめて、マリアのもとに馳せていきます。
どんなとき、どんな場所、どんな事がらにおいても、マリアの助けを呼ばわります。
疑惑の雲にとざされたときには、心を照らしていただくため。道に迷ったときには、正道にひきもどしていただくため。誘惑のときには、勇気をささえていただくため。弱いときには、強めていただくため。罪の穴におちこんだときには、ひき上げていただくため。絶望におちいったときには、はげましていただくため。小心でクヨクヨしているときには、自己中心の小さなカラから脱出させていただくため。十字架、苦労、逆境のときには、なぐさめていただくために。

さいごに、からだと精神のあらゆる不順、あらゆるわずらいのとき、まことの信心家は何はともあれ、マリアのもとに馳せて行きます。マリアをうるさがらせる心配もなければ、マリアへの信心のために、御子イエズスに、不愉快な思いをさせるのではなかろうか、との心配も毛頭ありません。



第③項 聖なる信心

108.まことの信心の第三の特長は、それが聖だということです。すなわち、マリアへのまことの信心は、人に罪をさけさせ、マリアの諸徳を模倣させます。
とりわけマリアのふかい謙虚、いきいきとした信仰、目をつぶっての服従、たえまない祈り、あらゆる面での苦業、英雄的な忍耐、天使的な柔和、神々しい純潔、熱烈な愛徳、神的英知、をまねさせます。以上の諸徳は、マリアの十大善徳と呼ばれています。



第④項 不動の信心

109.マリアへのまことの信心の第四の特長は、それが不動だということです。それは人を、善の中に強化し固定し、信心業をかんたんに放棄しない方向へともって行きます。まことの信心は人を、世間に対して、世間のムードとコトワザに対して、勇敢にします。肉に対しても、肉の倦怠と挑戦に対しても、勇敢にします。悪魔とその誘惑にも、勇敢にします。そんな訳で、アリアへのまことの信心をもっている人は、人生の順境においても逆境においても、不変不動です。グチもこぼさねば、泣きもせず、恐れもしません。ときたま、信心の甘美に酔いしれて、失敗をしでかさないともかぎりません。だが、失敗しても、倒れても、御母マリアに手をさしのべて、すぐに立ちあがります。信心が無味乾燥になっても、ちっとも心配しません。マリアの忠実なしもべは、イエズスとマリアへの“信仰に生きる”(ヘブル10・38)のであって、けっしてからだの感覚にささえられて生きるのではないからです。



第⑤項 無欲な信心

110.さいごに、マリアへのまことの信心の第五の特長は、それが無欲だということです。つまり、まことの信心は人に、自分じしんのことを求めるのではなくて、マリアにおいて、ただ神のことだけを求めるように、とすすめるのです。マリアへの本当の信心家は、けっして自分じしんの利益や利害関係から、マリアに仕えるのではありません。自分じしんの地上善獲得のため、または永遠善獲得のためにマリアに仕えるのではありません。それはもっぱら、マリアが自分の奉仕にあたいするからこそ、また、マリアにおいて自分はただ神にだけ仕えているからこそ、マリアに仕えるのです。

マリアへのまことの信心をもっている人が、マリアを愛するのは、マリアから何か、もらうためではありません。マリアに何かもらおうと期待しているからでもありません。マリアを愛さずにはいられないから、マリアを愛するのです。だからこそ、信心において無味乾燥なときも、倦怠を感じているときも、感覚的な甘さや熱心さにひたっているときと同様の忠実さをもって、マリアを愛し、マリアに仕えるのです。はなやかなカナの結婚披露宴でも、凄惨なカルワリオの丘でも、おなじようにマリアを愛するのです。

ああ、このように無私無欲なマリアのしもべ マリアへの奉仕において全然、自分じしんのことを求めないしもべは、神とマリアのまなざしのまえに、どれほど好ましい貴重な存在なのでしょう。同時に、こうした無私無欲なしもべは、どれほど少ないでしょう。こうしたしもべが、ますます少なくなっていかないためにこそ、わたしは今こうして、ペンを取って、自分がこれまで公の場で、とりわけ長年間、自分の宣教の場で、人びとに教えてきたことを書きしるそうとしているのです。



(第六巻につづく)

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第1部 信経
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第2部 秘跡
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