「聖母マリアへのまことの信心」(聖グレニョン・ド・モンフォール著)

読者の皆様、この本は宝であります。
神秘的な働きによってマリア御自身が
あなたを選ばれ手の中に納められたのです。

「聖母マリアへのまことの信心」 第一巻

2022-12-02 14:53:01 | 日記
原本『聖母マリアへのまことの信心』 

聖グレニョンド・モンフォール(1673~1716年)著
山下房三郎(トラピスト会司祭)訳
愛心館 1990年発行
(頁表示は原本との対応のため)


*教皇・枢機卿の推薦文


◎聖ピオ十世教皇は「聖ド・モンフォール著の聖母マリアへのまことの信心書を、余は熱烈に推奨し、これを読む人々に、心からの使徒の祝福を与える」と述べられた。

◎ベネディクト十五世教皇は、「聖母へのまことの信心の本は、小冊ながら敬虔において大である。この本が、ますます数多い霊魂にキリスト教的精神を斉らさん事を余は切に希望すると書き贈った。

◎ヴァン・ロスム枢機卿は、「この小さな本からは、霊魂を聖徳まで押し上げる見えざる力が発出している。たえずこの本を黙想することによって、心を地上から離して神に一致させる神秘的刺激を感ずるにいたるであろう。それは著者自身の聖徳のほとばしりであり、また寛大に報いたもう聖母マリアの祝福のためであろう。聖グレニョンド・モンフォールが教える聖母へのまことの信心を根気よく忠実に実行する人は、キリスト教的完徳の頂上に至り、神との密接な一致に達し得るにちがいない。真理であるキリストがこの世に与えられるのは常にマリアを通してであるから、より広くより深くマリアを知らせることは自分一個の完徳のためであるのは、もちろんであるが、またそれは崇高な使徒職でもあるのである」と言われている。

◎教皇・聖ヨハネ・パウロ2世は自らの使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」(en:Rosarium Virginis Mariae)において、「マリアは造られたもののうちで、最もイエズス・キリストと一致しているのです。ですから、人々の魂をイエズス・キリストへと聖別し、一致させるために一番必要なことは、その母である聖マリアへの信心業です。」と述べ、マリアへの信心業の大切さを強調している。
一般信者のあいだでは、グレニョンド・モンフォールによる「聖母マリアへのまことの信心」(en:True Devotion to Mary)のような著作が数世紀に渡って読まれ、このことがカトリック教会におけるマリアへの信心業が大きくなっていく土壌となり、何千万という巡礼者たちが、マリアに捧げられた大聖堂を毎年訪れるようになっていった。


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巻頭言

神はマリアの協力をえて、世の終りにそなえて、偉大な聖人を大量に送り出さねばならないからです。これらの偉大な聖人は、聖性の高さにおいて、他の尋常な聖人よりも抜群でなければなりません。ちょうどレバノンの糸杉が、他の杉よりも飛び抜けて巨大なように。このことは、ある無名の聖者に、神から啓示されました。これらの偉大な聖人は、恩寵と熱心に満ちあふれ、神の敵と戦うために、神から特に選抜された勇士です。この勇士らに向って、神の敵どもは四方八方から襲いかかるのです・・・。(本書47~48)


 すべての民に及ぶ大きな喜びを
  あなたがたに告げ知らせる
 きょう ダビドの町に
  あなたがたのために
 救い主がお生まれになった、すなわち
 主キリストである
         (ルカ2・10)



はしがき

読者のみなさま、あなたの手に入ったこの小さな本は、宝であります。しかも、かくれた宝であります。その宝は、聖霊の神秘的な働きによってあなたに知らされました。実はマリア御自身があなたを選ばれ、あなたの手の中に、この本を納められたのです。

最近誤った神学的な考え方によって、次第にマリア様に関する講話も少なくなり、聖職者の中にも、信者の中にも、マリア様に対する信心が非常に冷たくなったのではないかと思います。しかし、パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世の教令・教書によって、マリアにたいする信心、つまり、神学に基づく信心の時代になりました。聖グレニョン・ド・モンフォールのこの本は、教会のマリアに関する神学のテキストであります。
マリア様を知りたいですか、どうぞこの本を読みなさい、とすすめたいのです。
「この母にこの子あり」という諺の通り、イエズス様を知ったものは、どうしてもその母親をも知りたいと思います。と同時に、母を知りながら子もよく知っておきたいという事も言われます。「マリアへの、まことの信心」は神の御摂理の計画の中に聖母マリアの役割りが明らかに表れますし、又、あなた自身も母マリアの子として正しい信心とは何かを、この本をゆっくり読みながら黙想すれば、子としての務めが何であるかわかるのではないかと思います。

新しい聖霊降臨の時代に向って、最後のときの使徒職者が生み育てられることになるでしょう。したがって使徒職者を養成するために、大へんふさわしいテキストではないかと思います。マリア様に対する信心が深くなりますと、御子イエズスに対する信心も深くなりますし、イエズス様を愛してしまったものは何とかイエズス様を知らせたい、イエズス様に愛されたいと思うようになるのではないでしょうか。マリアのどれいになった者は幸いな人です。熱心さをもって、御国のために一生けんめいに働くことになるでしょう。
 最後の言葉としてもう一つのことをお願いしたいと思います。聖母のまことの信心を読んで、素晴らしい本であるとお考えになりましたら、どうか、ふさわしい人にこの本を配るようにおすすめします。

1980年1月19日
「愛と光の家」  アラン・ケヌエル神父

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P324
訳者あとがき(聖モンフォールの紹介)



この本の著者は、聖ルイ・マリ・クリニョン・ド・モンフォ-ル( Saint Louis Marie Grignion de Montfort )です。
彼は1673年1月31日、フランス、ブルターニュ地方のモンフォール・ラ・カンで生まれ、1716年4月28日サン・ローラン・シュル・セーブルで、四十三才で亡くなっています。

1685年、レンヌ市のイエズス会経営のトマス学園で、中等教育を受け、1693年秋、司祭職への招きを意識してパリへ出発、神学予備校ともいうべきクロード氏の私塾で勉強。1695年、サンスルピ大神学校に入学。かたわら、ソルボンヌ大学神学部に、聴講生としてかよっています。頭はいいし、その上たいへんな勉強家で、当時すでに霊性生活にかんする本は殆ど読破。1700年6月5日、二十七才で司祭に叙階されています。

海外宣教を志し、まずカナダ行きを願い出ましたが、上長から許してもらえず、1701年夏から、ナント教区で信徒司牧を開始。同年秋、ナント市立総合病院のチャプレンに就任。病める者、貧しき者、どうにもならない者との出合いによって、キリストの福音の精神を体得しています。
1706年、かれ独特の福音宣教のため、教会当局からの圧迫により病院のチャプレンを辞任、ローマへ巡礼。同年6月6日、時の教皇クレメンス十一世に単独面接をねがって許可され、東洋布教への派遣をねがい出ましたが許されません。教皇はかれに、フランスにとどまって、国内布教に専従するよう勧告。同時に教皇は、ド・モンフォール神父の悲願であり司牧目標である「洗礼の約束の更新によるキリスト教精神の刷新」運動を正式に承認され、かれに、“聖座直属宣教師”という肩書まで与えておられます。

それに勇気づけられたド・モンフォール“宣教師”は、すぐにフランスに帰り、全国の教区でモーレツな国内布教を展開しています。とりわけ、同志を糾合して、聖母信心を主旨とする使徒職を組織したり、修道会を創立。宗教改革によってひきおこされた、キリスト教生活の退潮を聖母信心によって、既往にもどすことに専念しています。


さて、この本の原稿(聖ド・モンフォールの直筆原稿)が、発見されたのは1842年です。だから、著者が亡くなってから126年目です。すでに著者が、本書の114で予言していますように、この本の原稿は長い間、悪魔の憎悪とネタミと妨害によって、倉庫の片すみの“やみと沈黙とホコリ”の中に、置き忘れられていました。その間、フランス大革命があってド・モンフォール神父の遺品がみな、官憲によって没収されました。官憲が到着する前、だれかが、聖人の直接原稿をどこかに持ち去って、そこに隠匿したらしい。発見場所は、聖ド・モンフォ-ルがそこで亡くなったローラン・シュブル・セーブルの教会(大天使ミカエル教会)に隣接した、畑の小屋の中です。1842年4月29日でした。だから、この原稿は約130年間、フランス大革命やその他教会迫害のあらし(つまり悪魔の地上制覇)が一段落するまで、ここに隠されていたのです。

本書の訳者は、厳律シトー・トラピスト会の修道僧ですが、トラピスト会はもともと、その会憲に明記しているとおり、“天地の元后・聖母マリアの栄誉のために”建てられたものです。だから“ナザレのマリア”の生活のように、トラピストの一日は、聖母への賛美と祈りで始まり、続行し、終わります。“サルベ(SALVE)を歌って、一日のお恵みを聖母に感謝し、お告げの祈りをとなえて床につきます。
こうした聖母の子どもの生活ほど、しあわせなものはありません。このしあわせを、読者のみなさんと分かち合いたいために、この本を邦訳出版して、お手元におとどけする次第です。

 1978年  聖母月  灯台の聖母トラピスト大修道院にて   山下房三郎



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    受胎告知



第Ⅰ章 聖母への信心の必要

第一節 マリアの偉大さ

1.マリアをとおしてこそ、イエズス・キリストは、この世においでになりました。だから、
おなじくマリアをとおしてこそ、イエズス・キリストは、この世を支配せねばならないのです。


2.マリアは、この世では、まったくかくれて生活されました。そのため、聖霊からも
教会からも“アルマ・マーテル”すなわち“かくれた母”と呼ばれておいでになるのです。
マリアは、たいへん謙遜な方でした。マリアが、地上で燃やしておられた最大の、絶えまない
情熱は、自身からも全被造物からも、まったくかくれることでした。神にだけ知られるためです。


3.マリアは、神に、できるだけ自分をかくしてくださるように、できるだけ自分を、貧しく卑しくしてくださるようにと、熱心に祈っておられました。だから、神も喜んで、ほとんど全ての人の目から、マリアをおかくしになったのです。マリアが、母の胎にやどされたときもそうです。
誕生のときも、毎日の暮らしの中でも、マリアにかかわりのあるキリストの奥義においても、復活のときも、被昇天のときもそうです。両親にしてさえも、自分らの娘なのに、マリアのことが、全然わからなかったのです。天使たちは天使たちで、マリアをつらつらながめては、しばしば互にささやき合ったものです。
「あの女は、どんなかたですか」(雅歌3・6)
それほど神が、マリアを、全被造物の目から、おおいかくしておいでになったからです。むろん、神はときたま、マリアの御姿を被造物に、ホンのすこしばかり、かいま見せることもありました。しかしそれとても、マリアを、ますますかくしたいご意向から、そうなさったに過ぎないのです。


4.全被造物の目から、自分をかくしたい、とのマリアのねがいにこたえて、神なる御父も彼女に、一生のあいだ一度も、すくなくとも人目をひくような奇跡はおこなわれませんでした。マリアが、奇跡を行なうカリスマを、じゅうぶん持ち合わせていたにもかかわらず神なる御子も、マリアには、人前でほとんど、お話しをさせませんでした。彼女には、ご自分の神的知恵を、あふれるほど、与えておられたにもかかわらず。
神なる聖霊も、使徒や福音記者に、マリアにかんしては、ホンのわずかしか、記録させませんでした。しかも、人びとにイエズス・キリストを知らせるため、マリアのご登場がどうしても必要な場合に限り、そうさせたのです。マリアが、ご自分のいたって誠実な妻であったにもかかわらず。


5.マリアは、芸術作品でいえば、神の傑作です。神だけが、マリアを知り、マリアを独占しておいでになるのです。マリアは、神の御子の感嘆すべき母です。神の御子は御母マリアのけんそんを、ますます、助成するため、生涯にわたって彼女を低くし、かくすことを喜ばれたのです。彼女を実名ではなく“女の方”という、まるで赤の他人みたいな呼び方で、あしらわれました。
にもかかわらず、心の中では、すべての天使、すべての人にもまして、マリアを尊敬し、マリアを愛しておいでになるのです。

マリアは、聖霊の『閉じた園』(雅歌4・12)です。マリアは、聖霊のいとも忠実な妻です。聖霊だけが、この閉じた園に、はいることがおできになるのです。


マリアは、聖なる三位一体が、お住まいになる聖所です。マリアは、聖なる三位一体のいこいの場所です。マリアという名のこの聖所、このいこいの場でこそ、神は宇宙の他のいかなる場においてよりも、もっと神らしく、もっと素晴らしいのです。ケルビムセラフィムの上におけるお住まいなど、マリアのそれにくらべたら、テンで問題になりません。異例な特権でも与えられない限り、どんな被造物も、マリアという名の聖所にはいることは許されません―どんなに純潔な被造物であっても。


6.わたしも、聖人たちとともに言います。マリアは、新しいアダムであるイエズスが、お住まいになる地上楽園であると。マリアという名のこの地上楽園で、神の御子イエズスは、聖霊のみわざによって、人となられました。そこで、人間の知恵ではわからない、さまざまな霊妙神秘なことをおこなうためです。マリアは、神の偉大な御国、神国である。神はご自分のこの国に、いい尽くせない美と宝を貯蔵しておいでになります。

マリアは、神の無限の富の所蔵者です。神は、マリアのうちに、御ひとり子をかくしておかれました。ちょうどご自分のふところにかれを、かくしておいでになるように、また神は、御ひとり子のうちに、もっともすぐれたもの、もっとも貴重なものを秘蔵しておいでになります。
 ああ、全能の神は、どれほど偉大なこと、どれほどかくれたことを、この賛嘆すべきマリアのうちにおこなわれたのでしょう。マリア自身、そのふかい謙遜にもかかわらず、そのことを正直に告白せねばならなかったのです。「全能の神が、わたしに偉大なことをしてくださいました」(ルカ1・49)。世界は、マリアのこの“偉大なこと”を、ちっともわかっていません。それを理解することもできねば、それにふさわしくもないからです。


7.聖人たちは、神の聖なる都であるマリアについて、たいそうりっぱなことを言っております。みずからそう白状していますように、聖人たちはマリアについて話す時が一番心が燃え、うれしくもあり、雄弁でもあったのです。(聖ベルナルド「聖母の被昇天についての説教」4)聖人たちは、そう白状したのち、異口同音に次のように絶叫するのです。
 神の王座までとどくマリアのクドク(功徳)の高さは、だれも見きわめることはできません。広大無辺の宇宙よりも広いマリアの愛は、だれもはかり知ることができません。神ごじしんにまで圧力をかけるマリアの勢力の偉大さは、だれも理解することはできません。さいごに、マリアの謙虚さ、マリアのすべての美徳、マリアのすべての恩寵の深さはだれもおしはかることができません。
 ああ、人間の理解をこえる高さよ。
 ああ、人間のことばではいい尽せない長よ。
 ああ、はかり知れない偉大さよ。
 ああ、底知れぬ深いふちよ。


8.くる日もくる日も、地球のあらゆる地点で、天のいと高き処で、大海原の深みで、全被造物はマリアをたたえ、マリアをのべ伝えています。天においては、天使の九つの歌隊が、地においては、あらゆる年齢・あらゆる身分・あらゆる宗教の人びとが、善人も悪人も、地獄の悪魔にいたるまで、いやが応でも、マリアを“しあわせな者”と呼ばねばなりません。真理だからです。



聖ボナベントラ教会博士が言っているように、天国では、すべての天使が絶えまなく、聖母に向って、「聖なるかな、聖なるかな、神の御母にして永遠のおとめマリアよ」と熱烈に叫んでいます。そして、毎日、何千回も、何万回も、「天使祝詞」の前半“めでたし、聖寵満ちみてるマリア”をくり返しています。また、天使たちはマリアに、どうぞ何なりと、ご用事をいいつけてくださいと、ひれ伏しておねがいしています。また、これは聖アウグスチヌスが言っていることですが、聖なる三位一体の宮廷の侍従長―という要職にある聖ミカエル大天使までがマリアに、あらゆる讃辞、あらゆる栄誉を自らもささげ、またひとにもささげさすことに、最大の情熱をそそいでいます。
 聖ミカエル大天使は、マリアのご命令一下、すぐに、どこへでも、お使いしようと、また部下のだれかにお使いさせようと、いつも待機の姿勢をとっているのです。(申命記10・13/ヘブライ1・14参照)。


   聖母マリアと天使たち

9.全地は、マリアの栄光で満ちています。とりわけ、キリスト教諸国においてそうなのです。キリスト教の国々、地方、教区、都会などでは、マリアを自分らの保護者というタイトルで尊敬し、あがめています。そこでは、たくさんのカテドラルが、マリアの名のもとに、神に献堂されています。マリアをたたえる祭壇のない教会は一つもありません。マリアの不思議なメダイやご絵のおかげで、あらゆる種類の悪が影をひそめ、あらゆる種類の善が得られたということは、どんな町、どんな村でも耳にします。
マリアの栄誉をたたえるために、信心会や使徒職が、数えきれないほど組織されています。マリアのお名前を冠し、マリアのご保護のもとにたてられた男女の修道会が、どれほど多いことでしょう。どれほどたくさんの聖母信心会や、修道会のかたがたが、聖母への讃美を、聖母から頂いたお恵みを、あまねく世にのべ伝えていることでしょう。ちいちゃな幼な子までが、口ごもりながら“めでたし”をとなえているではありませんか。回心を拒否している頑固な罪びとさえ、心のそこでは、聖母への信頼の火ダネを保ち続けているではありませんか。地獄の業火にくるしみもだえている悪魔さえ、マリアを恐れながら、それでも尊敬しているのです。


   聖マリア教会(ポーランド)

10.そんなわけで、だれもが、聖人たちとともに、次の事実を正直に認めないわけにはまいりません。<マリアをどんなにほめたたえても、もうこれで十分だとはいえません>マリアへの賛美、称賛、尊敬、愛、奉仕は、それでもまだ、十分だとはいえません。マリアは、もっと賛美され、ほめたたえられ、尊敬され、愛され、奉仕されねばならないのです。


11.そんなわけで、聖霊とともに、「王の娘の栄光のすべては内面にある」(詩篇45・13)と言わないわけにはまいりません。別のことばで申せば、天と地がきそってマリアにささげる、あらゆる外面的栄光も、それをマリアが、ご自分の内面において、造物主からいただいている栄光にくらべたら、取るに足らないものです。また、マリアは、王の秘密中の秘密に立ち入ることができないすべの被造物からは、適正に認識され評価されないほど偉大なのです。


12.こうした中で、わたしたちは使徒パウロとともに呼ばざるをえません。神の恩恵と、自然と、栄光とが共同でおこなった、奇跡の中の奇跡ともいうべきマリアの美しさ偉大さは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」(1コリント2・9)なのです。子がそうであれば、母もそうである、とある人が言いました。マリアが、どんなに偉大なかたであるかを理解したいのなら、その子イエズスが、どんな方であるかを理解したいのなら、その子イエズスが、どんなかたであるかを理解したらいいのです。ところで、その子イエズスは、“神”です。だから、マリアは“神の母”なのです。だとすると、絶句・合掌あるのみです


13.わたしの心は、これまでわたしが書いてきたことを反芻しながら、かってない歓びです。激しく鼓動しています。じっさい、マリアは、今日まで、まだよく知られていません。そのことが、イエズス・キリストがまだ、知られるはずなのに知られていない原因の一つともなっているのです。
マリアが、世の人に知られ、マリアの支配が地上に来た後にこそ、はじめてキリストも、世の人に知られ、キリストの御国もこの世に来るのです。
これはたしかな論理です。キリストを、地上に降誕させたのはマリアです。だから、キリストを、世にかがやかすのも当然、このおなじマリアでなければなりません。





第二節 神は御子の受肉の神秘において、マリアを使おうと望まれた

14.わたしは、全教会とともに、告白します。マリアは、神のみ手から出た、純然たる被造物ですから、神の無限の稜威(みいず)にくらべたら、一個の原子よりも、もっともちいさいのです。いや、むしろ、無にひとしいのです。神だけが「有って有る者」(出エジプト記3・14)だからです。したがって、神だけが永遠に、だれにも依存しない完全自立、自己充足の存在だからです。そんなわけで、神はご自分の意思を達成し、ご自分の栄光をあらわすためには、マリアを絶対に必要とはしなかったし、また現在でもそうなのです。すべてのことをなさるためには、神はただ“望む”だけで、たくさんなのです。


15.だが、わたしは急いで、つけ加えねばならぬと思うのです。神が、ご自分のお造りになったマリアをとおして、ご自分のもっとも偉大なみわざを始め、完成しようと望まれたからには、このやりかたを神は、永久に変えないでしょう。そう信じなければなりません。なぜなら、神は永遠不動の実在ですから、ご自分の意識を変えたり、やりかたを変えたりすることは絶対にありえないからです。(ヘブル1・12参照)


16.父なる神は、マリアをとおしてでなければ、その御ひとり子を、世にお与えになりませんでした。
旧約時代の聖なる太祖・預言者・聖者たちが、四千年もの間、どんなにタメ息まじりに神におねがいしても、この地上最高のタカラである神の御ひとり子を、地上に降誕させることはできませんでした。
 ただ、マリアだけが、マリアひとりだけが、その力づよい祈りと、そのたかい聖徳とによって、神のみまえに恵みをえて、神の御ひとり子を地上に降誕させることに成功したのです。聖アウグスチノが言っていますように、この世は、神の御子を、御父のみ手から、じかにお受けするにふさわしいものではありませんでした。だから、御父は、この世が、マリアをとおして、御子をお受けすることができるようにとのご配慮から、まずマリアに、御子をお与えになったのです。
神の御子は、わたくしたちの救いのために、人となられました。だがしかし、マリアにおいて、マリアをとおしてこそ、人となられた事実を、ゆめにも忘れてはなりません。
聖霊は、マリアのご胎の中で、イエズス・キリストを形造られました。だが、それはあらかじめ天使を代理に使って、マリアの同意をえてはじめて、そうなさったのです。



17.神である御父は、マリアに、被造物として可能な限りの産み育てる力を、お与えになりました。ご自分の御子とその神秘体のすべての成員を産み出すちからを、マリアにお与えになるためです。


18.神である御子は、マリアの処女の胎に、天からおくだりになりました。新しいアダムとして、ご自分の地上楽園に、おくだりになったのです。そこで、おもうぞんぶん楽しむため、また恩寵界の霊妙ふしぎなわざを、人目にかくれておこなうためなのです。
 人となられたこの神は、マリアのご胎に閉じ込められることによって、ご自分の自由を見いだしました。おとめマリアから、あちこち持ち運ばれることによって、ご自分の全能を最大に発揮されました。ご自分のかがやきをただ、マリアにだけ示すため、それを地上では他のすべての被造物の目からかくすことにおいて、ご自分の栄光も、御父の栄光も、ともに見いだしました。

人となられたこの神は、ご自分の降誕のときも、神殿奉献のときも、三十年間のかくれた私生活のときも、ご受難・ご死去のときにいたるまで、いとも愛すべきおとめマリアに、ご自分を従属させることによって、神としての自立独立性と無限の稜威(みいず)の栄光を、最高に現されました。人類救済のこれらの神秘に、マリアは、どうしても参加せねばならなかったのです。キリストがマリアとともに、同一単一のイケニエを御父にささげることができるため、またキリストが、マリアの同意によって、イケニエとしてほふられることができるためなのです。

ちょうど昔、イザアクが、父アブラハムの、神のみこころへの同意によってほふられたように。マリアこそ、幼な子イエズスに、乳房をふくませ、養い育て、成長させ、おとなにし、ついにわたしたちのために、十字架のイケニエにしてくださったのです。

ああ、感嘆すべきも、人知に理解しがたい神の従属よ。さすがに聖霊もこの事実だけは、沈黙のやみに葬り去ることができなかったのです。(ルカ2・51)人となられた永遠の知恵が、人目にかくれた三十年の私生活のあいだになさった、賛嘆すべきことを、ことごとく、やみに葬り去った聖霊も、この一事だけは、明るみに出されたのです。マリアへのイエズスの従属が、人類救済の歴史において、どれほど価値があり、どれほど価値があり、どれほど栄光があるかを、わたしたちに示すためなのです。

救世主イエズス・キリストは、人目を見はらせるような奇跡によって、全世界を回心させ、それによって、神なる御父の栄光を現わすこともできたでしょう。しかし、三十年のあいだ、ひたすらマリアに従い、マリアに孝養をはげむことによって、それよりもはるかに大きな栄光を、御父にあたえたのです。わたしたちも、唯一の模範であるイエズス・キリストにならって、神を喜ばすため、マリアに従いマリアに自分を従属させるとき、ああ、どれほど偉大な栄光を、神にきすのでしょう。


19.イエズスのご生涯の事跡を、たんねんにしらべていくと、イエズスが、マリアをとおして、かずかずの奇跡をおこない始めるのを望まれたことがよく分かります。イエズスは、マリアのことばをとおして、先駆者ヨハネを、その母エリザベトの胎内で聖化されました。マリアが、ごあいさつをとおして、先駆者ヨハネを、その母エリザベトの胎内で聖化されました。マリアが、ごあいさつのことばを述べられるとすぐ、ヨハネはまったく聖化されたのです。これは、恩寵界の最初にして最大の奇跡です。(ルカ1・41)

イエズスは、カナの結婚披露宴で、マリアのつつましいねがいによって、水を、ぶどう酒に変えてくださいました。これは、自然界での最初の奇跡です。(ヨハネ2・1~12)イエズスは、マリアをとおしてこそ、ご自分の奇跡をおこない始め、おこない続けられたのです。イエズスは世界終末の夕べにいたるまで、マリアをとおして、奇跡をおこない続けていかれるのです。



20.神である聖霊は、神の生命のいとなみにおいては不妊です。すなわち、いかなる神的ペルソナをも、生み出すことができません。ところが、そのきよき妻マリアのおかげで、たくさんの子供を生むようになりました。聖霊は、マリアとともに、マリアにおいてマリアからこそ、その傑作の中の傑作ともいうべき、人となられた神を生み出したのです。そのうえ聖霊は、くる日もくる日も、世紀のとばりがおりるまで、天国の予定された人びとを、キリストの神秘体の成員を生み続けていかれるのです。
そんなわけで、聖霊は、ご自分のいとしい妻、不解消のキズナで結ばれている妻マリアを、ある人のたましいの中に見いだせば見いだすほど、ますますこの人の中に、イエズス・キリストを生み出すように、またこの人を、イエズス・キリストの中に生み出すようにと、さかんに、おはたらきになるのです。


21.だからといって、おとめマリアが、聖霊に、聖霊が以前に持たなかった産み育てる力を、はじめて与えた、という意味にとってもらってはこまります。
聖霊は、全能の神なのですから、御父や御子のように、産み育てる力、つまり子を生む能力は、潜在的にもっておいでになるのです。たとえそれまでは、この産み育てる力を現実には行使せず、いかなる神的ペルソナをも、生み出さなかったにしても。
わたしがいいたいのは、聖霊は、おとめマリアの仲だちによって、ご自分が潜在的に持っているこの産み育てる力をはじめて現実に行使して、イエズス・キリストとその神秘体の成員を、マリアにおいて、マリアをとおして生み出した、ということなのです。この仕事のため、聖霊には、マリアが絶対に必要だったわけではありません。ただマリアを使いたかったのです。このことは、キリスト者の大学者にも、霊性の大家にも、なかなか理解しがたい、恩寵界のミステリーなのです。



(第二巻につづく)

注1.聖ベルナルド(1090~1153年)

クレルヴォーのベルナルドゥスあるいは聖ベルナルドは、12世紀のフランス出身の神学者。すぐれた説教家としても有名である。フランス語読みでクレルヴォーのベルナールとも呼ばれる。 聖公会とカトリック教会の聖人であり、35人の教会博士のうちの一人でもある。「蜜の流れる博士」と呼ばれ聖母マリアへの崇敬がことのほか厚かった。


注2.聖ボナヴェントゥラ(1221~1274年)

ボナヴェントゥラは、13世紀イタリアの神学者、枢機卿、フランシスコ会総長。本名ジョヴァンニ・デ・フィデンツァ。トマス・アクィナスと同時代の人物で、当代の二大神学者と並び称された。フランシスコ会学派を代表する人物の一人で、当時の流行だったアリストテレス思想の受容には批判的であった。

注3.聖アウグスティヌス(354~430年)

アウグスティヌスは古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者。ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。初期キリスト教の西方教会最大の教父で、正統的信仰教義の礎石を築いた。


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