2020年02月19日
130.趣味のこと~119体の使い方のちょっとした違い・自分基準について~
ここのところ自分のやっていることと言えば、まず
聴覚的にはわかりにくいことをいかに"視覚化"する
か、いや体感化するか?ということに結果的には
なってきているようですが、今日の話題もそれで
す。
それで、いくら体が使えるといっても、実際に使っ
ているところは、一流であろうと並みであろうとそ
んなに違っているわけではないでしょう。同じ人間
で、似た体つき、同じ器官、同じ構造を持った存在
のやっていることなので---。
たとえば、どんなにお腹に力を入れろと言ってみて
も、お腹の中にエイリアンがいるわけでもあるまい
し、お腹に力を入れたところで、お腹がいつもより
30cmも前に盛り上がってくる"体質"の人なんていな
いでしょう。
歌の場合、結局は他分野でも同じなんでしょうけど、
むしろほんのちょっとした体の使い方の違いで(30
cmどころか何ミリとか)、出てくる声という結果が
全然違ってしまうことのほうが興味深いです。
これを分かりやくイメージするには、料理に譬える
のが分かりやすいでしょう。
それも料理の基本(以前?)に。ただイメージできれば
良いので、何も小難しい項目でなくともよいわけで
す。
で、包丁の使い方の基本中の基本は、誰でも最初に
教わる、食材を切るときにー利き手が右手なら、左
手で食材を押さえて、右手で切ることになります
がーそのとき、左手の指を内側に折り曲げておかな
いと、食材を切るついでに自分の指も切ってしまう
おそれがあります。あまりにも当たり前のことです
が---。
でも、それが当たり前に思えるのは、それが我々の
体の外側にあって視覚で捉えられるものなので、簡
単手、かつ迷いを持たなくて済むわけで、これは習
得できない人のほうがむしろ少ないでしょう。
そして、この事実において大切なポイントは、以下
のことだけです。
極端に言えば、どう美しく折れ曲がっているかでは
なく、1mmでも内側にさえ曲がっていれば切ること
については問題はなく、反対に、たった1mmでも外
に指が関節の外側に出ていれば、指を切る可能性が
誰にとっても高くある、ということにつきるでしょ
う。
つまり、一流の料理人だろうと、料理を昨日今日始
めた素人だろうと、少なくとも指は、そこは同じよ
うに折り曲げているはずだということが、実際に調
理風景を見なくともわかるわけです。一流でも並み
でも共通点があるわけです。
そして、重要なことは最初から"完璧に"指を曲げる
ことではなく、まず指が必ず内側にほんの少しでも
曲がっている状態を作り出すことで、それがこれに
関して"基礎"ができたということでしょう。危険が
もはや存在しないという意味で---。
基礎さえできればあとは各自で、試行錯誤の結果、
最も楽なところへ、すなわち最良に思える指の曲げ
方に調節することさえできるでしょう。
もう一つ違う例を出してみましょう。たとえば柔道。
柔道ならこれに当たるのは受け身練習でしょう。こ
れも危険性がすぐわかるので、誰も初心者で受け身
をやれと言われて、それにあえて理屈で逆らう人は
いないでしょう。また熟練者になったからもう受け
身練習は必要ない、なんてこともないでしょう。
それを十分にやってから、そのあと実際に投げて、
投げられる練習でしょう。決して順番が逆になるこ
とはないかと---。
だったら、歌の場合も同じで、初心者にとって重要
なのは、歌うことや、ある程度歌える、ましてやき
れいに歌うことなどではなく、どう歌っても、喉が
上がってこないように体を躾けることで、つまり歌
唱が失敗するにしろ、危険じゃない方に失敗できる
ように体が反応できてしまうように、まず体を躾け
ておくことでしょう。
柔道であれば、決して生涯一度も自分は投げられな
いと言い切れる人はいないでしょうし、その投げら
れた場合に、どう投げられても、たとえば頭だけは
絶対打たないような落ち方ができるようにしておく
わけでしょう。
それが包丁でいう指を内側に曲げることを決して忘
れなくなった段階ということです。
そして当然、このことは包丁の場合なら、料理を今
日始めた人でも大抵の人が今日中にできてしまいま
すが、歌の場合は自分の体内の動きが視覚化できな
いことと、自分の声がお客さんが聴くようには聞け
ないこともあって、そこまでに時間がかかるという
だけで、
でも時間がかかろうがかかるまいが、それをクリア
しないことには危険があるというばかりです。手を
絶えず切る恐れがあるわけですからね、包丁の場合
なら。
だから大げさに言っているように思われるかもしれ
ませんが、いきなり高音練習するなんて、私に言わ
せれば、まだ左手の指が内側に曲がっていない段階
で、高速の千切りを見せつけようとしているのにも
似て、危険だと思われます。
包丁だったら、指先が曲げられない人に包丁は使わ
せないでしょう、たぶん。そのことの方が重要なわ
けです。あるいは柔道で十分に受け身練習をしない
人には試合をさせるわけにはいかない、とかですね。
ただ、これらの分野ではそれが分からない人がそう
はいないから問題になることが少ないというだけで。
で、どう歌っても、どう失敗しても喉だけは上がら
ないとなってから、歌唱すればいいわけです。典型
的な怪我が少なくなるでしょうし---。
もちろんその段階になっても、次第に使える力が大
きくなっていくので、上下(前後も絡めた意味での)
に分担させる力の配分には細心の注意がいるでしょ
うが、初心者にとって一番の問題はまず喉に来ない
ようにすることでしょう。
で、その喉に来ないように体をしつける練習という
のが自分の考えでは、低音練習、もしくはストロー
練習、もしくは強いハミング練習、もしくは指に
そっと息を吹きかける練習で、ーちなみに私の目に
はどれも同趣旨の練習と映っていますがーそのどれ
も練習に組み込んでいないとなると、はてどうやっ
て喉の危険を回避するのかな、とは思います。
ところがそこには低音素質説というものがあって、
練習自体を阻む構造が出来上がっています。
また風潮が高音を賛美しているので、誰もやりた
がらないということもあるのでしょう。
それに非常に地味な練習で、最初からよく聞こえ
る低音なんて出せるわけがないので、時間もかか
りますし、「大きな声(散漫な声)で歌いましょう」
という"基礎"にも反するからでしょうね。
最後に他分野との大きな違いは、バッティングな
ら、素振りの重要性は野球をやっている人ならだ
れでもわかっていて、それでも例えばプロになっ
た人ほどは時間もかけられなかったし、回数も振
れなかったしということで、
またマラソンなら,毎日何十キロも走らないとい
けない、それはわかっていてもできないから自分
は走れないんだと自分が上達できない原因がわか
るわけですが、
さて歌の場合はどうなんでしょう。低音練習の重
要性もわかっていないのだから、その人たちのよ
うには謙虚にはなりようがありません。
いや、さきの4つの練習が同趣旨なら、どれか一
つやっていればいいんだろう、「俺は、低音は
やってないけど、ハミングならやってる」とくる
かもしれませんが、もちろんある程度発声の段階
が進めばそうも言えるでしょう。
でも、最初は実際に声を出す自然な練習としては、
低音練習に勝るものはないと思います。それでな
いと声の変化が捉えられないでしょう。
言い方を変えれば、初心者でいきなりストロー練
習を教えられて、「ああ、なるほど、これは発声
延いては歌唱にとって本質的だ」と心底からわか
るほどの天才なら、そう言えるかもしれませんが、
先生に教わったから、とりあえずやっておこうぐ
らいのことでは、「素振りの重要性は分かってな
いけど、先生が言ってたからとりあえずやってお
こう」と同じで、身が入った練習にはならないの
で上達は見込めないでしょう。
さて、そういう基礎をやっていないと、自分には
これこれのは当然やるべき基礎練習が足りなかっ
たから、あまり上達しないんだということさえも
わからない、言えないんですよ。低音素質説があ
る限りは。
その説によれば、(低音は)やらなくていいことなん
だから、やらなくていいことをやらなかっただけ
なのに、だから俺はダメなんだ、とはならないわけ
です、当然のことながら。それどころか、俺は高音
が出せないからダメなんだと思っているのかもしれ
ません。
はっきり言って自分に何が足りなかったのかが他
分野ほど分かっていなかった、それが基礎がまだ
確立されていないという意味です。
しかもその基礎がまだ発見されていなかったから
わからなかったというよりも、一流のオペラ歌手
たち、しかも大勢の一流たちが、何十年も前から、
「発声ができるようになってから歌唱しろ」、と
わざわざ残しておいたのに、その通りやってみな
かったというだけのことなのかもしれません。
その通りやってみて初めて素質とか才能という話
にもなってくるでしょう。「(低音練習を)やってみ
ようと思ったけど、やりきれなかった、とか、こ
れほど時間をかけたのにさして良くならなかった」
とかですね。そこで初めて、「俺には素質、才能
がなかった」という話にもなるわけですが、まあ
その辺は今になってやっとごく一部の専門家が復
元しつつある段階なのかもしれません。
結局歌の場合ももちろん最終的には実力は応用力
であるところの歌唱力で判断する、それには違い
ないわけですが、音楽だからということであまり
聴力ばかりに頼っていると、
低音練習が→やってみてもすぐに大きな音が出な
い→歌唱にすぐに役立たない→やる必要がない、
と速断されてしまうことになりかねません。
低音練習の本質だと私が思うのは、そういうところ
ではなく、音を下げていけば行くほど、"自然と"息
が細く(弱くではない)絞り込まれて、あるいは閉じ
られていき、その結果声の圧力、圧縮度が高まって、
強い声になると同時に、歌うポジションが自動的に
高くなっていくことで、ある程度そうなると、それ
まで息のことをうるさく言ったことのなかったピア
ニストさんが、ある日急に「じゃあ、(1,2,
3、)4、で息、思いっきり吸ってみましょうか」と
指示を出されます。
その時指示通りにしてみると、歌うのに使う体内部
の"輪郭"が一挙につかめ、更にそれを調整していく
と、
実際に歌うとき使っているはずの口が、あたかも背
中との関係を保ったまま、上方頭上までビヨーンと
引き延ばされ、拡大されたような感じが出てきます。
その”大きな口””を使って呼吸する(イメージの話です
が)と、実際の口では歌唱し、声を出しているので、
息を吐いているわけで、したがって、その同じ口か
ら息を吸うことは即歌唱の邪魔になってしまうので、
同時にはできかねるわけですが、
口がイメージにせよ引き延ばされれば、息をその口
の上方部分、すなわち頭上近辺からあたかも背中に
入れるような感覚になってくるので、
そうなれば実際の口を歌唱に使っていても、つまり
息を吐いていても、その頭上部分から歌唱を妨げず
に息を補給できるようになるので、息に関する不安
が払しょくできますし、そうなると譜面を見たとき
にどこで息継ぎをするなどと考えずに譜面通りに歌
えるようになるはずです。
また人間とは不思議なもので、そうなって、いつで
も息を補給できるとなってくれば、その安心感があ
ると、実際にはそんなに息を吸わなくてもいいやと
いう気持ちにもなれ、そうなると余裕も出てきて、
息関係のことで緊張せずに済むようになる、つまり
リラックスして声を出せるようになるでしょう。
そうなれば譜面の息継ぎの指示以外のところに勝手
に息継ぎを設定する必要もなくなります。
そんな勝手に息継ぎすれば、共演する楽器奏者から
の評判は当然芳しくないと思いますが、その時逆切
れして、「楽器の人は歌のことが理解できていない。
ここで息を吸わないと歌えるはずがない。」などと
いうことがないようにしていきましょう。
というのもなるほど陸上の場合なら、100メートル走
なら、自分がもし走って、そのあとストップウォッ
チを見たら、タイムが(絶対あり得ませんけど)9秒60
も出ていたということになれば、それは、「これ以上
速くは走れないよ」と言っても間違いじゃないでしょ
うけど、
歌の場合、どうして自分基準でモノが言えるでしょう
か。自分が息継ぎが苦しいからといって、他の人もそ
こで息継ぎをしないと苦しいだろうなんてことが。
タイムに当たる客観的な物差しがないので、そんなこ
と言えないわけです。だから、歌唱だけしてても、そ
れは結局自分の最初の楽な息遣いで慣れていくだけで、
特に意識的に鍛えている部分もないため、息がそんな
に自然に長く(深く)なることもないわけで、-子供の
天才でもなければーいくら歌唱に時間をかけても、そ
の部分が改良されないと次のステップには行けないで
しょう。
他人の歌唱については実は誰でもわかることですが
たとえばカラオケへ行って、隣の部屋で歌っている人
が大抵高音部へ行くと、弱々しい、あるいは薄い声に
なってしまいますが、そのとき、それを聴いて「あれ
じゃ、ダメなんだ」じゃないんですよ。
そうじゃなくて、低音部からの発声があの程度の強
さだから、むしろ体を壊さないレベルの高音は、そ
の程度が限界で、それを体、すなわち体感が危険・
不安を察知して、本能的に抑えて薄く出しているだけ
で、その発声なら、それで正解なわけで、それを低音
を鍛えもせずに、「高音がちゃんと出てないね」って
ことで、高音を同じ厚みにしようなどと考えれば喉を
壊すでしょう。
歌でも基礎・基礎とは一応言ってますが、果たしてそ
れはバッティングにおける素振りと同じ重みをもった
基礎でしょうかということが問われないといけないわ
けで、
まさか形だけ、発声入門とか、基礎練習と銘打ったテ
キストを全部やった、通したから、基礎ができたとい
うことにはならないわけです。テキストの表題に基礎
とか入門とさえ書いてあれば、それが本当の意味での
基礎だと保証されるわけではないからです。
聴覚的にはわかりにくいことをいかに"視覚化"する
か、いや体感化するか?ということに結果的には
なってきているようですが、今日の話題もそれで
す。
それで、いくら体が使えるといっても、実際に使っ
ているところは、一流であろうと並みであろうとそ
んなに違っているわけではないでしょう。同じ人間
で、似た体つき、同じ器官、同じ構造を持った存在
のやっていることなので---。
たとえば、どんなにお腹に力を入れろと言ってみて
も、お腹の中にエイリアンがいるわけでもあるまい
し、お腹に力を入れたところで、お腹がいつもより
30cmも前に盛り上がってくる"体質"の人なんていな
いでしょう。
歌の場合、結局は他分野でも同じなんでしょうけど、
むしろほんのちょっとした体の使い方の違いで(30
cmどころか何ミリとか)、出てくる声という結果が
全然違ってしまうことのほうが興味深いです。
これを分かりやくイメージするには、料理に譬える
のが分かりやすいでしょう。
それも料理の基本(以前?)に。ただイメージできれば
良いので、何も小難しい項目でなくともよいわけで
す。
で、包丁の使い方の基本中の基本は、誰でも最初に
教わる、食材を切るときにー利き手が右手なら、左
手で食材を押さえて、右手で切ることになります
がーそのとき、左手の指を内側に折り曲げておかな
いと、食材を切るついでに自分の指も切ってしまう
おそれがあります。あまりにも当たり前のことです
が---。
でも、それが当たり前に思えるのは、それが我々の
体の外側にあって視覚で捉えられるものなので、簡
単手、かつ迷いを持たなくて済むわけで、これは習
得できない人のほうがむしろ少ないでしょう。
そして、この事実において大切なポイントは、以下
のことだけです。
極端に言えば、どう美しく折れ曲がっているかでは
なく、1mmでも内側にさえ曲がっていれば切ること
については問題はなく、反対に、たった1mmでも外
に指が関節の外側に出ていれば、指を切る可能性が
誰にとっても高くある、ということにつきるでしょ
う。
つまり、一流の料理人だろうと、料理を昨日今日始
めた素人だろうと、少なくとも指は、そこは同じよ
うに折り曲げているはずだということが、実際に調
理風景を見なくともわかるわけです。一流でも並み
でも共通点があるわけです。
そして、重要なことは最初から"完璧に"指を曲げる
ことではなく、まず指が必ず内側にほんの少しでも
曲がっている状態を作り出すことで、それがこれに
関して"基礎"ができたということでしょう。危険が
もはや存在しないという意味で---。
基礎さえできればあとは各自で、試行錯誤の結果、
最も楽なところへ、すなわち最良に思える指の曲げ
方に調節することさえできるでしょう。
もう一つ違う例を出してみましょう。たとえば柔道。
柔道ならこれに当たるのは受け身練習でしょう。こ
れも危険性がすぐわかるので、誰も初心者で受け身
をやれと言われて、それにあえて理屈で逆らう人は
いないでしょう。また熟練者になったからもう受け
身練習は必要ない、なんてこともないでしょう。
それを十分にやってから、そのあと実際に投げて、
投げられる練習でしょう。決して順番が逆になるこ
とはないかと---。
だったら、歌の場合も同じで、初心者にとって重要
なのは、歌うことや、ある程度歌える、ましてやき
れいに歌うことなどではなく、どう歌っても、喉が
上がってこないように体を躾けることで、つまり歌
唱が失敗するにしろ、危険じゃない方に失敗できる
ように体が反応できてしまうように、まず体を躾け
ておくことでしょう。
柔道であれば、決して生涯一度も自分は投げられな
いと言い切れる人はいないでしょうし、その投げら
れた場合に、どう投げられても、たとえば頭だけは
絶対打たないような落ち方ができるようにしておく
わけでしょう。
それが包丁でいう指を内側に曲げることを決して忘
れなくなった段階ということです。
そして当然、このことは包丁の場合なら、料理を今
日始めた人でも大抵の人が今日中にできてしまいま
すが、歌の場合は自分の体内の動きが視覚化できな
いことと、自分の声がお客さんが聴くようには聞け
ないこともあって、そこまでに時間がかかるという
だけで、
でも時間がかかろうがかかるまいが、それをクリア
しないことには危険があるというばかりです。手を
絶えず切る恐れがあるわけですからね、包丁の場合
なら。
だから大げさに言っているように思われるかもしれ
ませんが、いきなり高音練習するなんて、私に言わ
せれば、まだ左手の指が内側に曲がっていない段階
で、高速の千切りを見せつけようとしているのにも
似て、危険だと思われます。
包丁だったら、指先が曲げられない人に包丁は使わ
せないでしょう、たぶん。そのことの方が重要なわ
けです。あるいは柔道で十分に受け身練習をしない
人には試合をさせるわけにはいかない、とかですね。
ただ、これらの分野ではそれが分からない人がそう
はいないから問題になることが少ないというだけで。
で、どう歌っても、どう失敗しても喉だけは上がら
ないとなってから、歌唱すればいいわけです。典型
的な怪我が少なくなるでしょうし---。
もちろんその段階になっても、次第に使える力が大
きくなっていくので、上下(前後も絡めた意味での)
に分担させる力の配分には細心の注意がいるでしょ
うが、初心者にとって一番の問題はまず喉に来ない
ようにすることでしょう。
で、その喉に来ないように体をしつける練習という
のが自分の考えでは、低音練習、もしくはストロー
練習、もしくは強いハミング練習、もしくは指に
そっと息を吹きかける練習で、ーちなみに私の目に
はどれも同趣旨の練習と映っていますがーそのどれ
も練習に組み込んでいないとなると、はてどうやっ
て喉の危険を回避するのかな、とは思います。
ところがそこには低音素質説というものがあって、
練習自体を阻む構造が出来上がっています。
また風潮が高音を賛美しているので、誰もやりた
がらないということもあるのでしょう。
それに非常に地味な練習で、最初からよく聞こえ
る低音なんて出せるわけがないので、時間もかか
りますし、「大きな声(散漫な声)で歌いましょう」
という"基礎"にも反するからでしょうね。
最後に他分野との大きな違いは、バッティングな
ら、素振りの重要性は野球をやっている人ならだ
れでもわかっていて、それでも例えばプロになっ
た人ほどは時間もかけられなかったし、回数も振
れなかったしということで、
またマラソンなら,毎日何十キロも走らないとい
けない、それはわかっていてもできないから自分
は走れないんだと自分が上達できない原因がわか
るわけですが、
さて歌の場合はどうなんでしょう。低音練習の重
要性もわかっていないのだから、その人たちのよ
うには謙虚にはなりようがありません。
いや、さきの4つの練習が同趣旨なら、どれか一
つやっていればいいんだろう、「俺は、低音は
やってないけど、ハミングならやってる」とくる
かもしれませんが、もちろんある程度発声の段階
が進めばそうも言えるでしょう。
でも、最初は実際に声を出す自然な練習としては、
低音練習に勝るものはないと思います。それでな
いと声の変化が捉えられないでしょう。
言い方を変えれば、初心者でいきなりストロー練
習を教えられて、「ああ、なるほど、これは発声
延いては歌唱にとって本質的だ」と心底からわか
るほどの天才なら、そう言えるかもしれませんが、
先生に教わったから、とりあえずやっておこうぐ
らいのことでは、「素振りの重要性は分かってな
いけど、先生が言ってたからとりあえずやってお
こう」と同じで、身が入った練習にはならないの
で上達は見込めないでしょう。
さて、そういう基礎をやっていないと、自分には
これこれのは当然やるべき基礎練習が足りなかっ
たから、あまり上達しないんだということさえも
わからない、言えないんですよ。低音素質説があ
る限りは。
その説によれば、(低音は)やらなくていいことなん
だから、やらなくていいことをやらなかっただけ
なのに、だから俺はダメなんだ、とはならないわけ
です、当然のことながら。それどころか、俺は高音
が出せないからダメなんだと思っているのかもしれ
ません。
はっきり言って自分に何が足りなかったのかが他
分野ほど分かっていなかった、それが基礎がまだ
確立されていないという意味です。
しかもその基礎がまだ発見されていなかったから
わからなかったというよりも、一流のオペラ歌手
たち、しかも大勢の一流たちが、何十年も前から、
「発声ができるようになってから歌唱しろ」、と
わざわざ残しておいたのに、その通りやってみな
かったというだけのことなのかもしれません。
その通りやってみて初めて素質とか才能という話
にもなってくるでしょう。「(低音練習を)やってみ
ようと思ったけど、やりきれなかった、とか、こ
れほど時間をかけたのにさして良くならなかった」
とかですね。そこで初めて、「俺には素質、才能
がなかった」という話にもなるわけですが、まあ
その辺は今になってやっとごく一部の専門家が復
元しつつある段階なのかもしれません。
結局歌の場合ももちろん最終的には実力は応用力
であるところの歌唱力で判断する、それには違い
ないわけですが、音楽だからということであまり
聴力ばかりに頼っていると、
低音練習が→やってみてもすぐに大きな音が出な
い→歌唱にすぐに役立たない→やる必要がない、
と速断されてしまうことになりかねません。
低音練習の本質だと私が思うのは、そういうところ
ではなく、音を下げていけば行くほど、"自然と"息
が細く(弱くではない)絞り込まれて、あるいは閉じ
られていき、その結果声の圧力、圧縮度が高まって、
強い声になると同時に、歌うポジションが自動的に
高くなっていくことで、ある程度そうなると、それ
まで息のことをうるさく言ったことのなかったピア
ニストさんが、ある日急に「じゃあ、(1,2,
3、)4、で息、思いっきり吸ってみましょうか」と
指示を出されます。
その時指示通りにしてみると、歌うのに使う体内部
の"輪郭"が一挙につかめ、更にそれを調整していく
と、
実際に歌うとき使っているはずの口が、あたかも背
中との関係を保ったまま、上方頭上までビヨーンと
引き延ばされ、拡大されたような感じが出てきます。
その”大きな口””を使って呼吸する(イメージの話です
が)と、実際の口では歌唱し、声を出しているので、
息を吐いているわけで、したがって、その同じ口か
ら息を吸うことは即歌唱の邪魔になってしまうので、
同時にはできかねるわけですが、
口がイメージにせよ引き延ばされれば、息をその口
の上方部分、すなわち頭上近辺からあたかも背中に
入れるような感覚になってくるので、
そうなれば実際の口を歌唱に使っていても、つまり
息を吐いていても、その頭上部分から歌唱を妨げず
に息を補給できるようになるので、息に関する不安
が払しょくできますし、そうなると譜面を見たとき
にどこで息継ぎをするなどと考えずに譜面通りに歌
えるようになるはずです。
また人間とは不思議なもので、そうなって、いつで
も息を補給できるとなってくれば、その安心感があ
ると、実際にはそんなに息を吸わなくてもいいやと
いう気持ちにもなれ、そうなると余裕も出てきて、
息関係のことで緊張せずに済むようになる、つまり
リラックスして声を出せるようになるでしょう。
そうなれば譜面の息継ぎの指示以外のところに勝手
に息継ぎを設定する必要もなくなります。
そんな勝手に息継ぎすれば、共演する楽器奏者から
の評判は当然芳しくないと思いますが、その時逆切
れして、「楽器の人は歌のことが理解できていない。
ここで息を吸わないと歌えるはずがない。」などと
いうことがないようにしていきましょう。
というのもなるほど陸上の場合なら、100メートル走
なら、自分がもし走って、そのあとストップウォッ
チを見たら、タイムが(絶対あり得ませんけど)9秒60
も出ていたということになれば、それは、「これ以上
速くは走れないよ」と言っても間違いじゃないでしょ
うけど、
歌の場合、どうして自分基準でモノが言えるでしょう
か。自分が息継ぎが苦しいからといって、他の人もそ
こで息継ぎをしないと苦しいだろうなんてことが。
タイムに当たる客観的な物差しがないので、そんなこ
と言えないわけです。だから、歌唱だけしてても、そ
れは結局自分の最初の楽な息遣いで慣れていくだけで、
特に意識的に鍛えている部分もないため、息がそんな
に自然に長く(深く)なることもないわけで、-子供の
天才でもなければーいくら歌唱に時間をかけても、そ
の部分が改良されないと次のステップには行けないで
しょう。
他人の歌唱については実は誰でもわかることですが
たとえばカラオケへ行って、隣の部屋で歌っている人
が大抵高音部へ行くと、弱々しい、あるいは薄い声に
なってしまいますが、そのとき、それを聴いて「あれ
じゃ、ダメなんだ」じゃないんですよ。
そうじゃなくて、低音部からの発声があの程度の強
さだから、むしろ体を壊さないレベルの高音は、そ
の程度が限界で、それを体、すなわち体感が危険・
不安を察知して、本能的に抑えて薄く出しているだけ
で、その発声なら、それで正解なわけで、それを低音
を鍛えもせずに、「高音がちゃんと出てないね」って
ことで、高音を同じ厚みにしようなどと考えれば喉を
壊すでしょう。
歌でも基礎・基礎とは一応言ってますが、果たしてそ
れはバッティングにおける素振りと同じ重みをもった
基礎でしょうかということが問われないといけないわ
けで、
まさか形だけ、発声入門とか、基礎練習と銘打ったテ
キストを全部やった、通したから、基礎ができたとい
うことにはならないわけです。テキストの表題に基礎
とか入門とさえ書いてあれば、それが本当の意味での
基礎だと保証されるわけではないからです。
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