前回も書きましたが「イデア」とは物事の本質を言うのです。本質とは「それ」があるから「それ」であり、「それ」が無ければ「それ」とは言えないものです。

例えば善のイデアとは、「それ」があるからこそ善であり、「それ」が無ければ善と言えないもの、です。つまりすべての善に共通して絶対的に内包しているものです。ゆえにイデア、本質とは絶対的なものなのです。それが善のイデアであり、善の本質なのです。またそれを善の概念、善の意味とも言います。これを言葉で説明することを「善を定義する」と言います。

 

善を検索すれば「道徳的に正しい事、またはそのような行為」と書いてあります。つまり善には“事”と“行為”の二通りがあるのです。ですから善なる“事”のイデアと、善なる“行為”のイデアがあることになります。

善は行為ですから「善なる“行為”」が本来は善と言えます。ですから私は多くの善なる行為を考えて「それらすべてに絶対的に内包しているもの」を考え続けて、やっと見つけたのが「私より公を優先すること」なのです。これはあらゆる善なる行為に絶対的に内包していますので、善なる行為の本質であり、善のイデアと言えるのです。

 

それではもう一方の「善なる“事”」のイデア、本質とは何でしょうか。それは「あらゆる善なる事に絶対的に内包しているもの」です。

善とは以前も説明したように問題と切っても切れない関係にあります。善い、悪いが必要なのは何か選択すべき問題があるからなのです。何も問題が無いならば善い、悪い、正しい、正しくない、なんて必要ありません。ですから善と言うときには必ず問題に関するものと言うことなのです。また善ですから問題とは人の心や行いに関する社会的な問題と言えます。

何か問題が起きた時に、みんなの為になる答えが見つかれば「これが善い」となるのです。つまり「善い事」とはある問題が起きた時に「みんなの為になる事」と言うことなのです。

 

そしてよくよく考えてみれば、あらゆる社会的問題の善い答えはすべて「みんなの為になる答え」なのです。そうでしょう? あらゆる社会的問題はみんなの為になる答えでなければ善い答えとは言えません。みんなの為にならない答えなど、そもそも答えとは言えません。民主主義国家において、みんなに関する問題の善い、正しい答えはすべて「みんなの為になる」答えなのです。

つまりあらゆる社会的問題の善い答えに絶対的に内包しているのが「みんなの為になる事」なんですね。つまり善い事の本質は「みんなの為になる事」と言うことです。

あらゆる善い、正しい事に絶対的に内包するもの、本質は「みんなの為になる事」です。もっと略して「みんなの為」です。ですからあらゆる問題において正しい事、善い事のイデア、本質は「みんなの為」となります。

 

上記の説明から「善い事のイデア、本質」は「みんなの為」です。そしてまた「善なる行為のイデア、本質」は「私より公を優先すること」ですが、これを略すれば「公の為、みんなの為」と言えます。つまり善い事、善い行為のどちらも「公(みんな)の為」ですから、これらを一つにすれば「善とは公(みんな)の為である」と簡易に表すことができます。

つまり善には「善い事」と「善い行為」の二つのイデアがありますが、同じ「みんなの為」ですから善のイデアは「みんなの為」と言うことが出来るのです。そして本質、イデアとは絶対です。ですから「絶対善は公(みんな)の為」と言えます。

 

今回は少し分かりにくかったと思いますが、あらゆる○○に共通して絶対的に内包するものこそ「本質、イデア」であり、それは絶対○○であると言う事、そして「あらゆる○○に共通して絶対的に内包するもの」、つまり本質を考えることは物事を考える上で非常に大切な事なのです。この本質、イデアこそ真理であり絶対なのです。