郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

教育の退廃

2019年10月09日 | 日記

会員の日下部信雄さんが、9/11ブログ「新聞記事から考えるー7(子どもの遺書)」

https://blog.goo.ne.jp/2017kyodozenkyo/e/c791959f4f8335250104692b483cae32

をFacebookでシェアして詳細なコメントをしてくれました。

昨今の教育状況を考える上で、重要な視点を含んでいるように思います。

あらためてここに紹介します。


「教育の退廃」という言葉をつい想起してしまう。

 

 かつて1970年代から80年代にかけて「学校が荒れ」ていた。いわゆる「管理教育」が日本中に広がっていた。

教師たちは子どもたちに向かって暴力を振るい、怪我も負わせていた。

建前としての「体罰禁止規定」は有名無実であった。

 

教育法の専門家の間では常識だろうが、いわゆる「体罰禁止」は戦後の学校教育法(第11条)に始まると思っている人は多いように思う。実は私もそうだった。

しかし、日本では、明治12年(1879929日に出された「教育令第46条 凡ソ学校二於テハ生徒二体罰(殴チ又ハ縛スル類)ヲ加フヘカラス」)に一応建前としての「体罰禁止」はあったのである。

「軍国主義」はこの条項などを忘れさせてしまったことも否定できないが。

 

 もちろん、アジア・太平洋戦争に負けた後、「教育基本法」(1947年制定。安倍政権になってから改悪された改悪「教育基本法」(2006年制定)とは別物)と「学校教育法」が制定されてからは、より徹底されるようになった。とはいっても残念ながら、学校現場では決してなくなってはいなかった(今も同じ)。

 

 私の手元に『教師の懲戒と体罰』という本がある(牧柾名・今橋盛勝編著/1982116日初版発行)。

版元がなくなったために古本でしか手に入らないが、アマゾンを覗くと結構の値段がついている。

 

 私は1975年末に東京から流山市に転居したのだが、そこがいわゆる「管理教育」の発信地だなどと言われていることに驚いた(東の千葉、西の愛知」などともいわれていたが、全国どこも同じような状況だった)。

学生時代には「教師」になろうと考えていたこともあって、私はこの問題に入り込んでいくこととなった。

 

 この本の「はしがき」から少し引用する。

 《教師の懲戒のうち、高校・大学に認められている停学処分・退学処分等の「法的行為としての懲戒」については、戦後の早い時期から裁判でも争われ、判決にも教育法研究にも一定の集積がみられる。

しかし、この領域においても、高校進学率の増大・多様化・「格差」の下で新たな教育法上の問題が生じているし、高校における学校・教師と生徒・父母の関係を教育法関係として把握し、生徒の憲法上の自由、人権、法的地位を法的にとらえ、学校処分を法的処分としてとらえることのできる高校教師が生まれてきたことによって、新たな教育法上のテーマの設定・分析がなしうるようになってきている。》

これが「はしがき」の冒頭である。

1980年頃になってようやく教育現場に「教育法」の視点で考えるようになってきたらしいのだ。

しかし、「格差」という言葉がすでに使われていることにも注意したい。

 

 「はしがき」は続く。

《しかし、学校における体罰は、戦後においてすら教育上の重要問題として位置づけられてきたことは一度もない。これまでは、数少ない体罰裁判として例外的に争われてきたにすぎない。教育法が、体罰問題を一つの重要な教育問題、子どもの人権侵害問題として注目するようになったのは、ここ数年のことである。》

 

 この「はしがき」には、私も赤鉛筆で傍線を何か所か引いている。

 

 改めて思い出すのだが、「教育の荒廃」はこのころにも学校現場に広がっていたのであった。

 

 この本の中でも強調されていることに、学校での教師に対する管理強化が進んでいる状態への批判である。

 

 「学校管理のゆがみと子どもの人格権」という小見出しの部分は次のように始まる。

《ところで、教師の体罰が横行する背景は、このような父母の社会的意識の動向(日下部注:親が体罰などを含む厳しい「教育」を求める、つまり、「しつけ」という言葉を理由として教師の暴力を許容する状況などをさす)や、子どもの非行の増加などだけにあるのではない。むしろ、教育上の管理体制が強化され、教師の自発性、自主的研究心、多様性が奪われてきたことに起因するところ多大であるといわねばならない。》

 

 「しつけ」という言葉で行われた子どもへの虐待に、児童相談所などがたじろいでいる最近の実態も意外に歴史が長いようなのだ。

 

 そして続ける。

《教師にたいする管理体制の強化が持つ教育論としての誤りを、子ども「管理主義教育」はもっている》

《それは子どもの内発性・自主性、子どもの人格形成・学習過程の多様性・内実をふまえた教育指導・評価ではなく、権力的・画一的・形式的で拙速な教育指導・評価を内容としている。それゆえ、成績評価権の誇示と懲戒権の行使は『管理主義教育』を遂行するための不可欠な装置であり、『管理』からの逸脱行為に対する体罰もこの教育論からは容認されるし、必要である。》

 

つまり、教師への管理の強化(かつては、学校は、校長・教頭という管理職、そして普通の教師というだけの区分しかなかったのに、今は何やらやたらに階層分けがなされている。給料も細かく分けられ、教師の分断が進められている)が教師たちの心の荒廃の重要な原因ではないか、という指摘である。

 

 この32年前の指摘は、見事に的中しているのではないか。

最近起こった神戸市の教師による教師へのいじめなども「荒廃」の表れである。

 

 そして、最近報道される「体罰」事件、教師が絡むいじめ事件などを見ると、教師たちの心の荒廃が見えてくるように思えるのだ。

 

ー管理人ー

 

 


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