こんばんは。Aokiです。
私事で恐縮ですが、これまでに飲んだ量が最も多いのは、日本酒です。
日本酒ですが・・・嫌いなわけではありません。
ただし、ひとり酒であれば、ほとんど選ぶことはなかったと思います。
当時は、ジンとバーボンが特に好きでしたので。
にもかかわらず日本酒の量が一番多いのは、日本酒メインの飲み会が多かったからです。
齢四十前の方々には想像できないと思われる世界が、当時はありました。
例えば・・・
一次会:日本酒。チェイサーはビール。量の記載は自粛いたしましょう。
二次会:日本酒。
三次会:まさかの日本酒のお店。
翌日?
もちろん、お仕事です。
以前の記事でも申し上げましたが、私、医学的にはお酒があまり飲めません。
「一滴も」ということではありませんが、せいぜいビール1~2杯くらいが適量ではないかと思います。
しかし、先輩諸氏に勧められて断るのは無礼、後輩に勧められて断るのは無粋・・・
ということで、“勧められる前に自ら飲む”を心がけておりました。
ビール1杯で顔が真っ赤。
2杯で全身も真っ赤。
それでも日本酒1升、ウイスキーボトル1本をひとりで空けるほどは飲めた・・・
というよりも、飲んだ経験から、わかることがあります。
例外はあるものの、“不可能”ということは、世の中にあまり無いということです。
また、お酒とは無関係ですが、医師から告げられる「この状態では無理」は、挨拶みたいなものということも理解しております。
なお、あまり飲めない体質でも飲める(限度はございますよ)秘訣がございます。
これは、究極のダイエット法にも通じるものです。
誤解無きように申し上げますが、汚いお話ではありません。
「そんな都合のいい方法なんて、あるか!」
あるのです。
・・・が、お勧めはできません。
というよりも、ある種のDNAが必要かと思います。
ここまでお読みいただいた皆さまは、
「何が言いたい?」
「酒量自慢?」
「根性自慢?」
等々思われるかもしれませんね。
どのように感じられるかはお任せ致しますが、お伝えしたいことは二つです。
ひとつは、繰り返しになりますが、
“不可能”ということは、世の中にあまり無いということ。
多くの場合、自分自身で限界を設定してしまうのが、生物としての性(さが)であるようです。
これは生存の観点から、正しい習性です。
ふたつ目は、“無理”はしない方が良いということ。
世の中は、一見、矛盾に満ちているように思います。
“無理”をしなければ、わからないことがあります。
それは、とても大切なことで、できることなら知っておいた方が良いことです。
しかし、“無理”は、その対価を求める悪魔との契約のようなものです。
平穏無事な人生を送ることが許される環境であれば、やはり“無理”はしない方がよろしいかと思います。
ただ、困ったことに、その人生では“ウイスキーの刻”に辿り着くことは難しいようです。
本当に美味しいウイスキーに出逢うことは、背中合わせの真実のようなものです。
振り返ればそこに在る・・・
しかし、敢えて前に歩き続ければ、長い道のりの先にそれが在る。
後ろを向いて簡単に手に入れたウイスキー。
自ら歩き続けて出逢ったウイスキー。
必要なときに、そのウイスキーがそこに在る。
最初からそこに在ったウイスキー。
“銘酒”とは、必ずしも銘柄ではなく、そこに至る道のりなのかもしれません。
そして、出逢いは、出逢うべきときに訪れるものです。
出逢ったときに、ボトルが空だったら?
よいではないですか。
誰かがその幸せなときを、過ごせたのかもしれません。
空のボトルには価値が無い?
そんなことはありません。
ウイスキーを飲み終えたグラス。
5~10分後にその香りを確かめてください。
終わっていなかったことに気づきます。
同様に、空のボトルは、祭りの後の静けさに似ています。
そこに満ちていた味わい。
それと向き合った心。
賑わい、静けさ・・・刻・・・
誰かが飲んでいるウイスキー。
同じウイスキーを飲める人はいません。
同じボトルであっても・・・です。
真実を知ることで、“ウイスキーの刻”は、そのベールを脱ぐように思います。
“究極の心地良さ”が激痛からの解放であるとすれば、“究極の静けさ”は、闘いの先にあるのかもしれません。
“ウイスキーの刻”は、そこに在る・・・
ここまで綴り、多分、皆さま、かなり引いていらっしゃるのが感じられます。
それほど大袈裟に語ることでもないですね。
ウイスキー・・・“美味い”と感じたそのときが、“ウイスキーの刻”。
この方がスマートです。
今さらですが。
Z.Aoki
私事で恐縮ですが、これまでに飲んだ量が最も多いのは、日本酒です。
日本酒ですが・・・嫌いなわけではありません。
ただし、ひとり酒であれば、ほとんど選ぶことはなかったと思います。
当時は、ジンとバーボンが特に好きでしたので。
にもかかわらず日本酒の量が一番多いのは、日本酒メインの飲み会が多かったからです。
齢四十前の方々には想像できないと思われる世界が、当時はありました。
例えば・・・
一次会:日本酒。チェイサーはビール。量の記載は自粛いたしましょう。
二次会:日本酒。
三次会:まさかの日本酒のお店。
翌日?
もちろん、お仕事です。
以前の記事でも申し上げましたが、私、医学的にはお酒があまり飲めません。
「一滴も」ということではありませんが、せいぜいビール1~2杯くらいが適量ではないかと思います。
しかし、先輩諸氏に勧められて断るのは無礼、後輩に勧められて断るのは無粋・・・
ということで、“勧められる前に自ら飲む”を心がけておりました。
ビール1杯で顔が真っ赤。
2杯で全身も真っ赤。
それでも日本酒1升、ウイスキーボトル1本をひとりで空けるほどは飲めた・・・
というよりも、飲んだ経験から、わかることがあります。
例外はあるものの、“不可能”ということは、世の中にあまり無いということです。
また、お酒とは無関係ですが、医師から告げられる「この状態では無理」は、挨拶みたいなものということも理解しております。
なお、あまり飲めない体質でも飲める(限度はございますよ)秘訣がございます。
これは、究極のダイエット法にも通じるものです。
誤解無きように申し上げますが、汚いお話ではありません。
「そんな都合のいい方法なんて、あるか!」
あるのです。
・・・が、お勧めはできません。
というよりも、ある種のDNAが必要かと思います。
ここまでお読みいただいた皆さまは、
「何が言いたい?」
「酒量自慢?」
「根性自慢?」
等々思われるかもしれませんね。
どのように感じられるかはお任せ致しますが、お伝えしたいことは二つです。
ひとつは、繰り返しになりますが、
“不可能”ということは、世の中にあまり無いということ。
多くの場合、自分自身で限界を設定してしまうのが、生物としての性(さが)であるようです。
これは生存の観点から、正しい習性です。
ふたつ目は、“無理”はしない方が良いということ。
世の中は、一見、矛盾に満ちているように思います。
“無理”をしなければ、わからないことがあります。
それは、とても大切なことで、できることなら知っておいた方が良いことです。
しかし、“無理”は、その対価を求める悪魔との契約のようなものです。
平穏無事な人生を送ることが許される環境であれば、やはり“無理”はしない方がよろしいかと思います。
ただ、困ったことに、その人生では“ウイスキーの刻”に辿り着くことは難しいようです。
本当に美味しいウイスキーに出逢うことは、背中合わせの真実のようなものです。
振り返ればそこに在る・・・
しかし、敢えて前に歩き続ければ、長い道のりの先にそれが在る。
後ろを向いて簡単に手に入れたウイスキー。
自ら歩き続けて出逢ったウイスキー。
必要なときに、そのウイスキーがそこに在る。
最初からそこに在ったウイスキー。
“銘酒”とは、必ずしも銘柄ではなく、そこに至る道のりなのかもしれません。
そして、出逢いは、出逢うべきときに訪れるものです。
出逢ったときに、ボトルが空だったら?
よいではないですか。
誰かがその幸せなときを、過ごせたのかもしれません。
空のボトルには価値が無い?
そんなことはありません。
ウイスキーを飲み終えたグラス。
5~10分後にその香りを確かめてください。
終わっていなかったことに気づきます。
同様に、空のボトルは、祭りの後の静けさに似ています。
そこに満ちていた味わい。
それと向き合った心。
賑わい、静けさ・・・刻・・・
誰かが飲んでいるウイスキー。
同じウイスキーを飲める人はいません。
同じボトルであっても・・・です。
真実を知ることで、“ウイスキーの刻”は、そのベールを脱ぐように思います。
“究極の心地良さ”が激痛からの解放であるとすれば、“究極の静けさ”は、闘いの先にあるのかもしれません。
“ウイスキーの刻”は、そこに在る・・・
ここまで綴り、多分、皆さま、かなり引いていらっしゃるのが感じられます。
それほど大袈裟に語ることでもないですね。
ウイスキー・・・“美味い”と感じたそのときが、“ウイスキーの刻”。
この方がスマートです。
今さらですが。
Z.Aoki