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④湖底に消えた二式大艇。 総集編 ~海没処分の全容~

 はじめに

 終戦後の昭和20年8月22日、島根県の中海にて海没処分されたといわれる日本海軍の飛行艇二式大艇」について調査を行い、当時行われた処分の様子やその後の真相を追った。

 

 

二式大艇とは。

 二式大艇大日本帝国海軍所属の飛行艇である。レシプロエンジン搭載の飛行艇としては当時世界最高の性能を誇る傑作機とされる。

 本稿では機体の詳細なスペックや戦歴等は省略するが、大まかな機体の大きさは把握しておいてもらいたい。

全幅 38.00m
全長 28.13m
全高 9.15m

 

↓詳しくはwikiでも・・・

二式飛行艇 - Wikipedia

二式大艇―精鋭、海軍飛行艇 (第二次世界大戦ブックス (94))

二式大艇―精鋭、海軍飛行艇 (第二次世界大戦ブックス (94))

 

 

 

 

全タイプ合わせて合計で168機が製造された二式大艇だが、今現在現存しているのは鹿児島県の鹿屋航空基地資料館に野外展示されている一機のみである

 ↓これ。

 これは後述の終戦詫間に向かった作戦機3機のうちの1機である。

米軍に引き渡された後、1979年に日本に帰ってきた。

 

 

 

・海没処分の概要

この海没処分の話は飛行艇隊を率いた日辻常雄少佐(当時)が戦後に執筆した手記「最後の飛行艇」に登場する。

最後の飛行艇―海軍飛行艇栄光の記録 (光人社NF文庫)

最後の飛行艇―海軍飛行艇栄光の記録 (光人社NF文庫)

 

 

 ここからは手記を一部抜粋しながら、この中海にやってきた二式大艇が処分されるまでの行動履歴を追っていきたいと思う。

 

 

 前述の通り、二式大艇は合計で168機が生産された。しかし終戦後、連合国軍から機体の引き渡しが通達された段階作戦行動(飛行)が可能であった機体は石川県の七尾基地に残っていた3機のみであったという。

 

 

昭和20年8月21日、その3機に詫間基地(香川県)への集結指示が下り同日、3機は詫間へ向かう。

 

 

 3機のうち2機は無事に詫間へとたどり着くことができたが、後始末で出発の遅れた1機(森中尉)は天候悪化と燃料の欠乏、エンジン不調のため中国山地が越えられず、やむなく当時飛行艇基地があった島根県宍道湖に着水を試みた。

 しかし、戦後の混乱状態と視界不良からか、宍道湖だと思って間違えて中海に着水してしまったのである。

※手記の著者である日辻少佐の機は無事に詫間へ到着しており、中海に着水した機の現場の様子についての記述等は筆者の実体験ではなく、この機の機長である森中尉からの伝聞を元にしている。

 

 

 

中海に着水後から処分命令前までの様子は以下の通り。

 「中ノ海ならば美保基地がある。801空の戦闘機隊もいるはずである。ここで燃料補給をしようとして陸図をたよりに水上滑走を続けたが、この辺一帯は遠浅で座礁してしまった。悪天候の夏の日は暮れるのも早い。夕闇迫るころ、やっと離礁し、機長は漁船を見つけて一人陸へあがり、美保基地へたどりついたが、終戦後の美保基地は荒涼たる風情で人影もまばら、補給機能も資材も分散しているため、燃料補給など支援できるすべもなく、湖上にポツンと浮かぶ大艇にもどって、その日はクルー一同、非常食を食べて艇内で一夜を明かしたのである。電信員が懸命に詫間との無線連絡を保ち、22日救援機派遣の情報をとらえ、一縷の望みをかけ、極力接岸に努め、安来市西方の湖上に投錨して夜明けを待った。頼みの無線も途絶えたまま、やむなく安来の郵便局に事情を説明して詫間本部との連絡に努めた。」

{最後の飛行艇 第十章:湖底に眠る二式大艇}より引用

 

この機は着水後、補給のためにまず美保基地へ向かった。

これが現在の美保基地周辺の様子。

戦後に護岸工事や埋め立て工事が行われ、現在は地形が大きく変わっている。

 現在埋め立てられている場所の元の水深は1m程度であり、非常に浅い。当時は近くに小さな舟溜りや漁港があった。

 引用文中に基地との連絡のため周辺の漁船を利用したという記述があるが、今回その漁船を所有していた家の方に当時の話を聞くことができた。

 

・証言者:Eさん(当時10歳)

終戦当時、私は小学4年生でした。

当時、我が家は漁業を営んでおり、美保基地そばのマノメ(船だまり)に家がありました。

二式大艇は直接は見ておりません。父から後で聞きました。

飛行艇は岸のかなり近くまで来ていたのではないでしょうか。

人が翼のうえに大勢乗っていたそうです。

 合図があったのかはわかりませんが、うちの父と隣のKさんの2人でうちのポンポン船を出して、岸と飛行艇を何往復かして隊員達を運び、陸にあげました。

 その時、白い毛布や蚊帳を飛行艇から運び出し、たくさんもらって二軒で分けました。当時毛布は貴重品で、とても立派なものでした。他に運んでくるものが無かったのか、毛布や蚊帳は本当にたくさん積んでありました。

隊員達はまたすぐに飛行艇へ帰っていったと思います。

隊長が一人、後始末のためか最後まで陸に残っていました。

その隊長を家に招いて麦飯とみそ汁をご馳走しました。

夕方ごろ、学校から帰ると家に隊長が来ておられたのを覚えています。

「うまい、うまい」と言って食べておられました。

聞いた話によれば、その後飛行艇は沖のほう(安来市方面)へ持っていって焼いたそうです。

それから先はわかりませんが、数年後サルページが引き上げに来たと聞いています。

終戦時には日本に2機程度しかなかった飛行艇だと聞きました。

 

 

 その後、美保基地での補給が見込めなかったため、隊員たちは機内に戻り「安来市西方の湖上」にて一夜を過ごす。「接岸に努め」とのことなので岸からはそこまで離れていなかっただろう。

 そして「安来の郵便局」に立ち寄ったとされるが、詫間へ電報を送るためだったのではないだろうか。郵便局については昭和15年以前から現在に至るまで特に場所の変更は見られないので、手記中の郵便局とは現在の安来郵便局のことである可能性が高い。

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これが安来郵便局

 

 また、引用文中に「陸図を頼りに~座礁してしまった。」という一文がある。この記述から察するにこの機のクルーたちは中海の航海図を持っておらず、湖の正確な水深を把握できていなかったのではないだろうか。水深が分からないのであれば座礁もするだろう。これは後に若干かかってくるので覚えておいてもらいたい。

 

 

 

そして翌日の8月22日、この機は再び飛ばす手段が尽きたと判断され、詫間基地にいた日辻少佐から森中尉へ次のような命令が下った。

「その機を飛ばせる手段は尽きた。大艇の機銃をおろし、搭載兵器は破壊し、機体は銃撃により処分したうえ陸行で帰隊せよ」

{最後の飛行艇 第十章:湖底に眠る二式大艇}より引用

 

 

この処分命令を受けてからの状況を森中尉は後に次のように語ったという。

「自責の念にかられ哀惜の情に耐えかねつつ、大艇の処分にかかった。付近は市街地を遠く離れ、沿岸の水田はすでに稲穂が黄ばんでおり、一見のどかな風情を呈していた。

まず機銃をおろし、無線機類を破壊した。一同海岸に整列して、ともに戦ってくれた愛機に対し最後の挙手の礼を送って訣別した。滂沱たる涙で顔はくしゃくしゃになった。以心伝心的に事情を知った付近の住民は、搭乗員の後方に集まって涙ながらに合掌していた。

機銃を岸に据え、まさに銃撃を開始しようとしたとき、今まで岸に平行に横腹を見せていた大艇は、風もないのにその向きを変えはじめたのである。(~中略~)

胸にこみあげる熱いものをぐっと抑えながら、漁船を借りて射手を乗せ、大艇の正横に位置させた。「許せよっ」と合掌しながら発射を命じた。

中ノ海に響きわたる銃声はあまりにも悲しかった。ほとんど撃ち尽くしたが、なかなか燃えなかった。

射手は悲壮だった。弾倉を交換しながら涙の射撃を続けなければならなかった。ついにタンクから火を噴いた。やがて胴体が爆発を起こし、紅蓮の炎に包まれながら静かに沈みはじめた。あの特徴のある高い尾翼をしばらくの間湖面に浮かべていたが、やがて聖者の最期を思わせるように水面から姿を没していった。

{最後の飛行艇 第十章:湖底に眠る二式大艇}より引用

 

その後、この機のクルー達は地元の人々に暖かく迎えられ付近の民家で一泊したのち翌23日早朝、住民によって漁船で米子まで送られ、そのまま詫間まで陸路で帰還した。

 

 

 

 以上でこの海没処分についての手記の記述は全てである。これ以上の情報は手記には載っておらずまた、山陰の歴史文献等にもこれ以上の情報はおろか海没処分の事実さえ記載したものは一切存在しない。

 手記の記述によると当時、機体処分の様子は多数の地元住民が目撃していたということである。ならば、誰かこの二式大艇を知る人が今でもいるのではないかということで調査を行った。

 そして今回、幸運にもこの事を知る方から証言を得ることができた。

  本件は先ほど紹介した手記の他には一切の資料が残っていないため今現在、これらの証言が処分が行われた場所や、処分後の機体の様子を伝える唯一のものである。

 

・証言者:Aさん(当時6歳)

 「私は安来の福井という所に住んでおりました。当時六歳でしたが、飛行艇のことは覚えています。遠くからでも高く黒煙が上がるのを見て湖岸に行きますと、大勢の人が集まっており、大きな飛行艇が燃えておりました岸から五十~百メートルほどありました。半ば沈んでいる状態でしたが、よく燃えておりました。処分に使った機関銃は見ていません。大人たちが近くに行かせてくれませんでした。それでも顔が熱く、髪が燃えるような気がしました。近所の人が船で濡れた兵隊さんを助けていました。その方は、「黄色い汗が出とった。」と言っておりましたが、きっと油か何かをかぶられたのでしょう。しばらくは、飛行艇の部材でしょうか、生ゴムとスポンジのようなものがたくさん岸に上がりました。飛行艇は干潮の時には垂直尾翼を水面から出しておりました。

 同じ部落の人で、飯梨川の砂を木造船で松江に運ぶ仕事をしておられる方がおられましたが、この尾翼に当たって船底に穴が開き、急いで引き返したという騒ぎもありました。二十五歳までこの地で農業をしておりましたが、引き揚げられたという話は聞いておりません。」

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 この方の証言によって海没処分が行われた大まかな場所が判明した。

 安来市西方、吉田川の河口付近である。

 

・証言者:Bさん(当時5歳)

次の証言者はAさんの証言にもあった二式大艇に衝突したという船を所有していた家の方である。

 「飛行艇の件は知っておりますが、海没処分した時は幼くて記憶にありません。しかし、その後のことは多少覚えております。我が家は昭和の初め頃から、昭和50年頃まで生コン用の川砂を採取し、運搬、販売する仕事をしておりました。父は中国へ出征しており、戦後まもなく復員して参りました。その後家業の川砂の仕事を再開しましたが、父は二式飛行艇の事を知らず、川砂運搬中に船を機体の一部に当ててしまいました。船の肋骨が2本折れ、3本目で止まりました。砂を積んでいたため浸水が激しく、農業用の川舟2艘に挟まれて何とか船着き場に戻りました。船は修理しましたが、再びこういうことがないように、二式大艇沈んでいる部分に櫓をたてました。岸から20~30mだったと思います。

 しばらくして、二式飛行艇のフロートが打ち上げられ、岸辺に長い間放置されておりましたが、いつの間にか無くなりました。二式大艇亜鉛葺きの錨は、引き上げて我が家の船で使っておりました。これは、昭和50年頃廃業した際に、知人に譲渡してしまったため現在の所在は分かりません。その方の船も古くなり沈めてしまったそうです。櫓は朽ち果てたのか、今はありません。」

akiyuki2119067018.hatenablog.com

二式大艇にぶつかったのは戦後1~2年後であったとのこと。この方はその後お父さんの後を継ぎ、同じ船を使って昭和50年頃まで砂の運搬の仕事をしていた。

 

その船がこちら。

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 いわゆる「ポンポン船」と呼ばれる発動機付きの木造船である。

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これがそのエンジン。

 

 

・証言者:Cさん(当時16歳)

 「私は当時安来農高3年生、16歳。この出来事があったのは昭和20年8月22日でした。その日は学校が休みだったので家にいました。ふと中海を見ると、飛行艇がこちらへ向かって来ていました。台風で堤防が壊れて、家から見えたのです。4発の大きな飛行艇でした。翼の上に20人くらいの兵隊さんが立っていて「おーい」と声が聞こえました。驚いて海岸に行くと、「荷物を運びたいから船を出してくれ。」と言われました。大勢の人が集まり、近所に住んでるおじいさんがポンポン船を出しました。私もその船に乗って、飛行艇の中に入り、兵隊さんの荷物を下ろしたり、運んだりする手伝いをしました。荷物はおじいさんの家に預かってもらいました。飛行艇は堤防にある防風松にロープで係留し、錨も下ろしておりました。

 荷物が揚がると、兵隊さんが松の木のあたりから機関銃で二式大艇を「ダダダーン、ダダダーン」と撃ち始めました。しばらくすると燃料に火が付き大きく燃え上がりました。係留していたロープや、錨のロープも燃えて切れました。機体は燃えながらこちらへ近づいて来たと思うと、河口で転覆して沈みました。浅かったので尾翼をはじめフロートなど、3分の1は水面上に出ておりました。機長さんが私に「尾翼の菊の御紋章を残しているのはまずいので、頼む、消しておいてくれ。」とおっしゃいました。

 2,3日後、我が家の船を出して、鉞で尾翼を叩き壊して分からないようにしました。

 終戦後なので色んな人が来ました。フロートは私と前の家の人が外して持って帰りました。錨も集落の人が引き揚げました。後にフロートはボートにするからと安来の人が持って帰りました。錨も安来の人が持って帰りました。

 その後もしばらくは胴体と翼が水面上に出ていましたが、9月の初め頃に台風が来て全部見えなくなりました。ただ、その場所に行くと1mほど下に沈んでいるのが水面上から見えました。

 ある日、プロペラの先が水面上に出ていて、Bさんの家の土砂運搬船が引っかかりました。戦争に行っておられたので二式大艇のことを知らなかったのです。私はその場を見ておりました。「おーい、頼むわ」と声をかけられたので、我が家の農耕船を出して、他の家の船と両側から挟んで、沈まないようにロープで縛りました。そして、安来港の造船所へ向かいました。

 それから、昭和25年7月の25日の朝鮮動乱。内需拡大で鉄屑回収が盛んに行われました。25年の10月頃のある日、サルベージ船が来て全部引っかけて機体を持って帰りました。残骸も残っていません。このあたりではなく、他所から来た業者でした。

  また、あのとき船を出した隣のご夫婦の息子さんはフィリピンで戦死されています。この小さな集落で3人も戦死しました。二式大艇が沈んだときは、何ともいえない気持ちでした。」

akiyuki2119067018.hatenablog.com

 当時16歳であり、また処分場所に最も家が近かったということでこの方が最も事情に詳しい。機体の詳細な状況や、当時の住民のやり取りなども窺い知れる。

 他の2人は引き揚げなどの話は知らないとのことであったが、この方は機体の引き上げを目撃している。この目撃証言によって機体の大部分が回収され、残っていないという可能性が高くなった。

 また、処分後に水面から出ていた機体の一部について、Aさんは尾翼であったと証言しているが、Cさん曰くプロペラであったとのこと。

 

 

 

 

以上が、今回得られた証言である。

では次にこれらの情報と手記の記述、実際の地図などから処分の様子から引き揚げまでの様子を見てみよう。

 

 

 

昭和20年8月22日、島根県赤江町において二式大艇の銃撃処分が行われた。

安来市街からは車で10分程度の距離にあるが、家もまばらで市街地中心からは遠く離れているような印象を受ける。非常にのんびりとした雰囲気の、のどかな村である。

手記の記載通り、海岸沿いには現在でも水田がみられる。

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 証言によると、具体的な処分場所は海図の赤丸の部分。付近の水深は浅く、5m程度しかない。全高が9.15mもある二式大艇を沈めるためには水深が浅すぎる。

 なぜこの場所を選んだのかという話だが、手記の中でも述べられている通り隊員達は陸図を頼りに中海を移動していたため、正確な現場の水深を知らなかったことが原因なのではないか。

 

 

そしてこの場所から銃撃を行ったとされる。下の写真は昭和50年代の航空写真。

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Cさんの証言中に機体に銃撃を加える際、沿岸に生えていた松の木に二式大艇を係留したというものがあるが、この写真でも沿岸に松が並んで生えているのが確認できる。

 

 

 しばらくして機体が向きを変えたため漁船に乗り換え、そこから撃っている。その後燃料に引火し機体は爆発、炎上。「顔が熱く、髪が焼けるようだった」という証言もあるので岸からはかなり近かった様子。岸から20~50mといった具合だろう。

 その後、機体はゆっくり河口に近づいてきた後、転覆して沈んだというがここで、証言と手記に大きく差異がみられた。

 手記にはその日のうちに機体が尾翼まで完全に沈んだというように書かれている一方、Cさんの証言では水深が浅かったため尾翼やフロートなど、機体の3分の1ほどは水面から出ていたとされている。

 

 

 証言によると機体が完全に沈んだのは9月に入ってから。台風の際に壊れて沈み、完全に見えなくなったとされている。ただ、現場に行くと1mほど下に沈んでいるのが見え、また干潮の際にはプロペラが水面から出ていたという。

 

 

そして終戦の翌年、もしくは翌々年、Bさんの家の船がそのプロペラにぶつかった。

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 今でこそ、この二式大艇処分の話を知る人は少ないが当時は多くの人々に知られており、いろんな人が機体の残骸を見にきたり、その一部を持って帰ったりしていたようである。そして昭和25年10月、どこからともなく話を聞きつけてやってきたサルページ船が機体を引っ掛けて回収していった。現状として、どこまで回収していったのかという部分は不明である。

 機体は処分時に爆発炎上し、その後も台風で破壊されているので回収時に完全な状態であったとは考えにくい。もしも残骸が散らばっていたのなら、回収されなかったものがまだ湖底にあるのではないかと思っている。

 

 

以上がこの二式大艇の処分から回収までの流れである。

 

 

・まとめ

 今回、二式大艇の海没処分について調査を行い新たな事実が分かった。残念なのは我々が調べるまで、この事実は戦後70年以上山陰地域のどの歴史文献にもまとめられず、ずっと埋もれたままであったということである。

 また、この一連の調査結果は証言にあった処分現場とされる場所から機体の残骸等が出てこない限りはあくまで「仮説」の域を出られない。今後何らかの形で世間の関心が集まり、然るべき組織によって本格的な海底調査が行われることを強く望む。

 そしてこの二式大艇のエピソードが戦争に関わる歴史的事実として地域で広く知られることとなり、永く伝わっていくことを願うばかりである。

              

                   

 

    

                              ~おわり~