みなさん、こんばんは。
子どもたちの夏休みが終わったかと思ったら、あっという間に2週間がたち、朝晩の涼しさに秋の気配を感じるようになってきました。
しかし、そんな季節感を感じる余裕などなくなるほど、日本中が大変なことになっています。
豪雨、台風、そして大地震、あらゆる災害が各地を襲い、甚大な被害が出ています。
生きる気力を根こそぎ奪われそうな状況にいる人、大切な人を失い悲しみのどん底に叩き落されている人、そんな方々がたくさんいらっしゃると思います。
それでも、今生きていられる方は、命あることだけを希望にしてでも、なんとかご自身の心と体を守っていただきたいと思います。
被災されたみなさまの心が、少しでも早く救われますように、心よりお祈り申し上げます。
自衛隊の方々やボランティアの方々には本当に頭が下がりますが、私も自分のできる支援をしっかり考え、行動していきたいと思います。
さて、前回のブログで、「お金がなくてもすぐに幸せになることはできる」と書きました。
私のその思いを確信に変えたのが、あの「東日本大震災」でした。
私は宮城県の内陸に住んでおり、震度6強でした。
ライフラインは寸断され、食料が尽きそうにもなりました。
それでも間違いなく幸せでした。
私なんかよりもはるかに大変な、地獄のような状況に置かれている沿岸部の方々がいたからです。
そして、私は生きていました。
だから、間違いなく幸せでした。
2万人近くの方が、尊い命を失ったのですから。
私は当時、自分が被災したと思ったことすらありませんでした。
そんなことを言うのは恥ずかしいほど、沿岸部の状況がひどかったからです。
人は、自分よりも厳しい状況にいる人たちと比べれば、いかに自分が恵まれているかが分かります。
そして、「自分は間違いなく幸せだ!」と思えば、その人は周りが何と言おうと幸せなんです。
そういう価値観で生きるようになると、人生は劇的に変わります。
心の底から感謝がわきあがり、自分の人生をかけて世の中や人に貢献しようと思えるようになります。
私は、家族を最優先に考えながら、人生をかけて教育界に貢献していくことをミッションとしています。
思えば、この家族最優先という考え方は、東日本大震災を経験したからこそ、常に心にとめてきたことかもしれません。
災害は、もちろん経験しないに越したことはありません。
しかし、志半ばで尊い命を奪われた方や、大切な人を失ってしまった遺族の方々をのぞけば、震災の経験から得たものは、その後の人生にとって計り知れないほど大きなものだったのではないでしょうか。
改めて自戒の意味も込めて、東日本大震災発生から1ヵ月半後の2011年4月28日に私が書いたブログを載せておきたいと思います。
原文は、別ブログ、
「塾長パパの子育て&教育研究所」
(http://katekyopapa-diary.seesaa.net/)
に載っています。
2011年4月28日
『あれから1ヵ月半・・・』
皆さん、こんにちは。
大変ご無沙汰してしまいました。
ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、私は宮城県に住んでいます。
前回のブログ更新が3月11日。
その45分後にあの巨大地震に見舞われました。
私の住んでいる地域は震度6強。
経験したことのない恐ろしい揺れが約2分間続きました。
電気、ガス、水道などのライフラインは瞬時に寸断され、我が家にはラジオも常備していなかったため情報が全て途絶えてしまいました。
私の家は内陸にあるため津波への心配はなかったのですが、父の会社が石巻の海から20メートル程のところにあり、気が気ではありませんでした。
しかし、地震から1時間半後に父がうちに現れ無事が確認できました。
偶然仙台に出張だったとのこと。
会社は間違いなくダメだろうということで、社員の方々の無事だけを祈っていました。
近くの実家も無事で母とも連絡が取れました。
夜になると町は真っ暗になり、鳴り響くのは緊急車両のサイレンだけ。
そんな中、生後3ヵ月の子供を抱える弟夫婦が、アパートでは怖いからと私の家に避難してきました。
数分おきに起こる大きな余震におびえながら、不安な夜を過ごしました。
一夜明け、弟が持ってきたラジオをつけると、状況が把握できず混乱していることと、とにかく津波の被害が甚大だということだけが伝えられていました。
携帯電話も使えなくなり、親戚、友人、生徒さんとそのご家族などの安否確認ができません。
ただただラジオを聞きながら時間だけが過ぎていきました。
そして、その日の夕方にラジオから流れてきたニュースに声を失ったのです。
「仙台市宮城野区の海岸に200~300人の遺体が打ち上げられています。」
信じられないニュースでした。
出てくる言葉は、「どうして・・・。」だけ。
このニュースを聞いて初めて、今回の震災がこれまでのものとは一線を画した異常なものだと知らされたのです。
それからは、停電が1週間、断水が2週間続きました。
初めの2、3日はすぐに復旧するだろうと思っていましたが、そうではありませんでした。
全ての店は閉まっており、食料もままならないこともありました。
なけなしのガソリンを使って隣県に買い出しにも行きました。
お風呂は10日間以上入りませんでした。
それでも、自分たちが被災したと思うことは一度もありませんでした。
沿岸部のニュースを見聞きするたびに、本当の被災地は地獄なんだ、と思っていたからです。
いや、悲劇、地獄という言葉ですら言い表せない惨状だったと思います。
それから数日が過ぎ、ようやく携帯電話が使えるようになりました。
メールが数十件入っており、ほとんどは他県にいる友人からの安否を心配してくれているメールでした。
その友人たちに無事を知らせるメールを送りながら、沿岸部に住んでいる友人たちに安否を確認するメールを送りました。
奇跡的に、私の友人たちは全員無事でした。
家を流された、同僚を失った、生徒が流され行方不明、それぞれ大変な状況でしたが、とにかく無事でした。
みんな一様に、「命を失った人、家族を失った人に比べれば何でもない。」と言っていました。
この震災では、日本人の強さが世界中から称賛をあびました。
私も被災地の方々の精神力、秩序には本当に強い尊敬の念を抱きました。
あれから1ヵ月半が過ぎ、世の中は復興ムードに変化してきています。
それでも被災地の方々は何も前に進んでいません。
これまでは、とにかく生きるためにがむしゃらに体を動かしてきたのだと思います。
おそらくそこに心はついてきていないでしょう。
悲しみを抱えた心は置き去りのままだと思います。
そして、ふと振り返ってその心に気がついたとき、一気に悲しみや喪失感がおそってくるのだと思います。
復興に向けて大切なことは、常に被災地の方々の立場に立って考えることではないでしょうか。
復興ムードが高まり、世の中が普通になっていけばいくほど被災地の方々は焦りと孤独感にさいなまれるでしょう。
「頑張って!!」
ではなく、
「私たちが頑張りますから、皆さんは焦らずゆっくり、少しづつ歩いて進んで下さい。ずっと寄り添いながら支えますから。」
そんな気持ちで復興していくことが大切なのではないでしょうか。
みんなが被災地のことを常に考えていると伝わることが、被災地の方々の何よりのエネルギーになるのだと思います。
いろいろなことを自粛するのではなく、あらゆる行事を活用して日本人みんなが被災地に思いを馳せる機会を増やして欲しいと思います。
最後に、私も他県の友人から多くの支援物資を送ってもらいましたし、日本中、世界中から多くの義援金や支援物資が被災地へ送られました。
本当に感謝、感謝です。
人間の「絆」のすごさを感じさせられました。
復興は、何年かかるか分からない長い道のりですが、被災地の方々に少しずつでも笑顔が増えていくことを心から祈り、自分に出来ることを考えながら生活していこうと思います。
以上
ブログにもありましたが、少し落ち着いてきたころこそが、周りの支援が本当に必要な時です。
たくさんの被災地がありますが、周辺地域はもちろん、日本全体で支えていくという国民の強い思いが必要だと思います。
長文になってしまいましたが、最後まで読んでくださったみなさん、ありがとうございます。
それでは、今日はこのへんで。
みなさん、お休みなさい。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
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