世の中は、苦しみや悲しみに満ち溢れています。生きること自体が苦悩といえるほどですが、なぜ、そのようなことになってしまったのでしょうか?

神体』によりますと、人類は、もともとはこの地上の世界、つまり、物質の世界の住人ではなく、幽質の世界、つまり、我々が死後に行く世界が本来の住処であったということです。

とにかく、そこは食べることも、働くことも必要ない、まことに自由な世界、まさに楽園であったが、その自由さに飽き、不自由な物質の世界での生活を欲して、高貴な霊魂の忠告に耳を傾けることなく、地上に降りてしまったために、時間に縛られ、食物を食べ、労働し、眠らなければならない存在になってしまったのであり、そこからすべての不幸、苦しみが始まったと記されています。

もし、そのとき、高貴な霊魂の忠告にしたがい、物質の世界に降りることを思いとどまっていたら、今日のような様々な苦しみは生まれなかったと思われます。

ただ、それにしても、物質の世界はあまりにも過酷な世界に思えます。

人類が自由意思で物質の世界に降りることを欲したとしても、人がそこで生存できるように環境を整えられたのは、神霊や高貴な霊魂方であるはずですが、もう少し住みやすい世界にならなかったのだろうかと誰しも思うのではないでしょうか?

しかし、それも人類にすべての責任があるようです。さらに大きな苦悩を背負うことになるような過ちを犯しているようなのです。人類の身勝手な、早まった行動によって、そうならざるを得なくなったようです。

龍―霊魂の世界から舞い降りた霊力』にあるように、地上に降りることまではやめられないとしても、人間がもう少し地上に降りる時期を遅くしていれば、つまり、高級霊魂のアドバイスに従い条件が整うまで待って地上に移行していれば、身体は、さらに進化し、より動物的でなくなっていたかもしれないということです。たとえば、食や生殖の問題、とりわけ、他の生命体を食べなければ生きられないという問題が解決していれば、幽体の意識が表現されやすくなっていたかもしれないということです。

そして、もう少し霊的に進歩した人類であれば、新しく物質界に生まれる動物たちの幽体の性質も今とは違っていたかもしれないのです。

物質界の人間如何によって、幽気の性質が変わってくるのであり、そうなると、動物の幽体も変化するかもしれず、物質界に入ってくる新しい動物の幽体が、もっと人間に好意的であったかもしれないということです。

なお、もう少し待つということは、途方もなく大きな違いをもたらすことだったのです。何しろ、物質界と時間と幽質界の時間の流れは大きく異なっていて、幽質の世界で霊魂たちが議論している程度の間に、物質の世界では計るのが大変なほど長い時間が経過したと言われていますから。

もう少しの辛抱ができなかったために、人間は、楽園を追放されたも同然の状態になってしまい、苦悩を背負って生きなければならなくなりました。それも、何の罪もない他の生命体を巻き込むような形で。

一度ならず、二度も、大きな罪、過ちを犯してしまった人間、いくら悔やんでも悔やみきれないという思いがします。


風と岩
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