The Handmaid’s Tale

 

著:マーガレット・アトウッド (Margaret Atwood)

訳:斎藤 栄治

 

1990年3月 初版発行

新潮社 

 東大阪図書館より貸出

 

先月のお盆休みは専らこの侍女の物語を読んでいました。

Huluでドラマ化され近年また注目を集めています。

アトウッドの小説におけるフェミニズムの論文を

読んだことはありましたが、

作品を読むのはこれが初めてでした。

間違いなく、今年読んだ本で最も良かった本です。

 

この物語、アメリカ合衆国にできた仮想国ギレアデという

男尊女卑の軍事独裁政権を舞台としたディストピア小説です。

ここでは女性は身分ごとに分断され、

どの身分でも差別的な扱いを受けています。

例えば女中は体調不良を隠します(p.60)。

身分が低い女性は病気にすらなれません。

作者、アトウッドが作品に出てくる現象や問題は

自分が作り上げたこのではなく実際にあることを

反映している、と言う通り作品にある女性差別は

現実の、今の日本にも見られます。

 

女性差別だけでなく生殖に関わる問題も

現実とリンクしています。

ギレアデでは結婚し、子をもつことは

一部の人間の特権です(p.31)。

現代でも経済的格差による

選択的子なしの人が存在しています。

ギレアデ共和国誕生前は出産率が低下していました。

 “一部の女たちは

もはや希望はないと信じていました。

彼女たちは出産には

意味がないと言っていました。”(p.122)

現実の反出生主義を彷彿しました。

少子化対策として人工授精、妊娠促進クリニック、

代理妻などがあり、ギレアデでは代理妻が導入されています。

しかしこの代理妻は

かっての側室制度として存在していました。

今、この現実にも人工授精も代理母も不妊治療も

存在しています。

 

女性は主に妻、娘、侍女、女中、小母、

便利妻、不完全女性に分かれています。

身分によって服の色が決められています。

主人公のオブフレッドは侍女です。

侍女は所有を表すofの後ろに

所有者の名前をつけて呼ばれます。

主人公はオブフレッド(offred)と呼ばれます。

しかし前任者もこう呼ばれ、彼女の後任者も

オブフレッドと呼ばれることになります。

侍女は名前ですら持つことができません。

侍女は所有されるだけの存在です。

この本来の名前を使用できないことオブフレッドは

“名前なんてたいしたことじゃない、

とわたしは自分に言い聞かせる。

名前なんて電話番号と同じで、

他人にとって便利なだけのものだ、と。

でも、わたしが自分に言い聞かせることは

間違っている、

名前は重要なのだ。”(p.93)

と独白します。

名前が奪われることは自分を奪われること、

つまりアイデンティティを喪失することです。

これは現実でも起きています。

女性は結婚すると名字を変更することが極めて多く、

~の奥さん、~のお母さんと呼ばれます。

 

侍女は同じ侍女とペアで買い物に行きます。

ペアにするのは相互監視の目的のためです。

侍女は侍女同士でしか町の中心部に行けません(p.27)。

自由になる機会の喪失だけでなく、

異なる階層の女性と交わる機会もありません。

ゆえに、女同士が分断されています。

 

しかしそんな中でさえ女同士の連帯、

sisterhoodが存在します。

女中のマーサはオブフレッドに好意的で

もう一人の普段はオブフレッドに冷たい女中リタでさえ

オブフレッドに氷のつまみ食いを許可することで

sisterhoodを感じさせます。

オブフレッドはフェミニズム小説に相応しく、

他の女性へのsisterhoodを示します。

オブフレッドの前任の侍女は

「奴らに虐げられるな」という言葉を

書き残しています。(p.20)

これはprotest, 抗議の意思であり、

オブフレッドはその意思を受け継ぎます。

妻、セリーナにも同情心を持っています。

“わたしと彼女の

どちらの方が辛いのだろうか”(p.106)

侍女と妻、どちらが辛いのか、は難しい問題です。

侍女は妻より身分が低く、

妻は侍女たちを殺める以外は自由にできます。

それでも、妻たちが侍女のハンドローションの使用を禁止し、

侍女が綺麗でいることを望まないことから、

優位な立場である妻にとっても

この世界は辛い、ディストピアな世界です。

夫と他の女性が性交し、子を儲けることを

受け入れなければなりません。

 

侍女であるオブフレッドは

司令官の子どもを授かる為、性交の儀式を行います。

オブフレッドは司令官との性行為を、

making loveでもないがrapeでもないので

fuckと呼んでいます(p.103-104)。

rapeでないのは同意していないわけではないからです。

“今ここでは、わたしが同意していないことは

何も行われてはいないのだから。

要するに選択の余地があまりないのだ。

選択肢が少ししかなく、

これがわたしが選んだものなのだ”(p.104)

このことから感じるメッセージは

選択肢の多様さの重要性です。

結婚や仕事、服装、生き方においてたとえ同意していても、

選択肢が少なければ問題だということを表しています。

 

そして多様な選択肢を選ぶ自由が必要です。

二種類の自由としてしたいことをする自由と

されたくないことをされない自由、

猥褻な言葉を投げつけられたり、

性的に触られたりすることがない自由

があると小母は言います(p.33)

ギレアデにはしたいことをする自由はありませんが、

されたくないことをされない自由はあります。

性犯罪はなくなり、女は女の仕事、

妻や家事労働など、にだけ従事していられる世界です。

しかし自由はありません。

保護され安心、安全なだけでは幸せではありません。

 

妊娠するためにニックと性交渉を持つようになる

オブフレッドですが、

次第に彼との逢瀬に安らぎを見出していきます。

“誰かに触れられるというのは、

そして自分も貪欲な気分になるというのは、

本当に気分がいい。”(p.109)

ここからオブフレッドのセクシュアリティを感じられます。

ディストピアな世界の中ですら、

女性にも性の歓びがあることが描かれています。

フェミニズムにおける

女性のセクシュアリティの重要性を感じます。

 

しかし同時に、彼女はニックとの関係を持つようになって

反抗の意思を失っていきます。

“そんなふうに男に対して深刻になるなんて

かってのわたしには想像もできなかった。

昔はもっと理性的だった。

わたしはそういうものを愛だとは

自分に言い聞かせなかった。

わたしはこう自分に言った。

わたしは自分のための生活を

築こうとしているのよ、と”(p.291)

オブフレッドはニックに慰めを感じてはいたでしょうが

それは愛ではなく、安定を求めているだけです。

私は愛の幻想を感じました。

 

ギレアデ共和国はまず女性の地位を奪うにあたって

銀行口座を停止させることにより

経済的自由を奪うことから始めます。

“紙幣じゃなくてコンピュバンクだから

よりスムーズに”(p.187) 

成功したという描写から

現在のキャッシュレス化の危険を感じました。

 

財産を失った日、オブフレッドの夫が

“いつでも君の面倒は僕が見てあげるさ”

と言ったことに対し、

“もうこの人はわたしに対して

保護者めいた口を利き始めているわ”

と反発を覚えます(p.193)。

そして

“愛がわたしを置き去りにして

進んでいくように感じられた”(p.197)

と述べます。

対等でなくなれば愛ではなくなるのです。

 

小母は侍女たちを教育する仕事の女性で

ギレアデにおいては地位と権力のある女性です。

リディア小母は教育センターで侍女に教育に共和国誕生前の

女性がレイプされたりするポルノ映画を見せます(p.128)

ギレアデ共和国は確かに女性差別の国ですが、

元の世界にも女性差別は存在していたことが分かります。

 

リディア小母は、男はセックス・マシンであり、

侍女たちに男を操る術を学ぶように言います(p.156)。

小母は内心では男を見下しています。

そしてリディア小母は女同士のユートピアの成立を

期待しています(p.175)。

 

そんな小母でさえ読むことは禁止されています。(p.99)
読み書きは人間的知性の象徴であり、

それができないということは

人間性を奪われることになります。
つまり動物と同じ位置に貶められることになります。

 

物語の終盤、オブグレンの死後、

オブフレッドはより抵抗する意思を失います。

そのことを

“わたしは初めて

彼らの本当の権力を感じる”(p.307)

と語ります。

本当の恐ろしさとは抵抗の意思を失う事でした。

抵抗の意思を持つことの大切さと尊さが伝わります。

 

この小説を読むと、その女性差別の酷さに衝撃を受け、

その後、作中で描かれている差別が

現実にも存在していることを実感し、

二重の意味で恐ろしくなりました。

フェミニズムに興味のない方でも、

純粋にディストピア小説として優れているので

一読をお薦めします。

素晴らしい文学作品を読めて良かった。

女性が自由に書物を読み書きできる

有難味を教えてくれる作品です。