The Buried Giant

 

著:カズオ・イシグロ

訳:土屋 正雄

 

2015年4月 初版発行

株式会社早川書房

東大阪市図書館より貸出

 

読了しました。

以前途中まで読んでおり、

そこから数年空きましたがようやく読了しました。

カズオ・イシグロは大好きな作家です。

だからその作品の素晴らしさが認められ

ノーベル文学賞を受賞した時、とても嬉しかったです。

ちょうど留学中に受賞しましたが、

うちのコースメイトの間では話題に上がりませんでした。

ノーベル賞をきっかけに今までイシグロの作品を

読まれたことがない人が読んでくれるのが嬉しいです。

でも、同時に彼が日系英国人ということで

「日本人の受賞」にばかり喜ぶ印象があるのは残念でした。

 

さて、この「忘れられた巨人」を読んだ印象ですが、

作家性を保ちつつ、それを世界文学のスケールで描き

そりゃノーベル文学賞取れるわ、と思いました。

イシグロの作品のテーマは初期から一貫して「記憶」です。

その記憶の描き方として「信頼ならざる語り手」が

イシグロ文学の特徴です。

この「忘れられた巨人」では今まで描いてきた

「個人の記憶」の問題が「国家と民族の記憶」と

結びつくことでより大きな問題提起を示しています。

このスケールの大きさとテーマ性で

ノーベル文学賞を取るに相応しい

世界文学としての作品になっています。

 

作品の舞台はアーサー王伝説を下地にした

ファンタジーです。

かつてこの地ではブリトン人とサクソン人の間に

戦争がありました。

現在はクエリグという竜の息により

皆が記憶の一部を失っています。

ブリトン人の老夫婦、アクセルとベアトリスは

離れた村にいる息子の元にいくため、旅にでます。

旅の途中で、アーサー王の甥である騎士ガウェイン卿、

サクソン人のウィスタン戦士、

エドウィン少年などに出会い、

皆が記憶をなくしているのは

クエリグの息の仕業と分かります。

中盤の修道院での展開はスリリングでした。

 

一度は皆、バラバラになりますが

最後にまた再会します。

そこでクエリグを退治することが使命と言っていた

ガウェインが実は

クエリグの守護者であることが判明します。

かつての戦争と憎しみの記憶が失われたことで

今の平穏な暮らしがあります。

それこそが息で記憶を忘れさせる魔法をかけられクエリグを

ガウェインが守ってきた理由でした。

 

サクソン人の戦士ウィスタンは良い人で

アクセルとベアトリス夫妻にも親切で

ガウェインにも礼儀をわきまえています。

しかし後継者と考えているエドウィンには

ブリトン人への憎しみを決して失わないように伝えます。

エドウィンの目的はクエリグを倒し

ブリトン人への復讐を果たすことです。

しかしブリトン人のガウェインは

かってサクソン人がこの島に攻め入り、

自分たちブリトン人が争った後の

今の暮らしを守ろうとします。

たとえそれクエリグによる偽りの平和でも。

 

そして主人公アクセルがかってアーサー王に仕え

サクソン人とブリトン人との間に

友好条約を結ぶことに尽力した人物であることが

明らかになります。

ガウェインを破ったウィスタンはクエリグを滅ぼします。

そしてアクセルとベアトリスに今後、この国が

サクソン人による復讐の戦いが起こるので

逃げるように伝えます。

 

ウィスタンとエドウィンと別れたアクセルとベアトリスは

とうとう最終目的地の島へ行く

船渡しの場所にたどり着きます。

そこで二人は今まで忘れていた記憶を思い出しました。

かってベアトリスが不倫をし、

そのせいで息子が家を出たこと。

ベアトリスにも自分自身にもアクセルは

息子の墓参りを許さなかったこと。

それでも二人は物語当初からの変わらない

お互いへの愛情と思いやりを示します。

そしてアクセルは船渡しの男に告げます。

長い時間が二人の間のわだかまりを消し

再び愛情を持てるようにしてくれたと。

船渡しは妻であるベアトリスを島に運びます。

その島とは死者の国です。

ただアクセルはベアトリスと別れ立ち去ります。

 

ここで唐突に終わるので、びっくりしました。

クエリグの息のせいで皆の記憶が曖昧なため

「信頼ならざる語り手」の装置が

前提条件となっています。

忘却の是非をこの小説で問いています。

ベアトリスもアクセルも恐れを感じながらも

失われた記憶があることを残念に思い、

記憶を取り戻すことを願います。

しかしガウェインが言うように

戦争の悲しい記憶と憎しみの感情を忘れることで

皆が平和に暮らしています。

個人においても忘れることでベアトリスとアクセルは

不義と息子の死という苦しみから回復しました。

ただし忘れていることはただのごまかしであるという

ウィスタンの主張も分かります。

 

暗い記憶とどのように向き合うのかが

この作品のテーマです。

タイトルの忘れられた巨人は

忘れられた記憶のメタファーです。

戦争などの記憶を風化させてはならないと思います。

ただいつまでも恨みや憎しみを

覚えていることはどうでしょうか。

例えば日本の戦争被害などを

語り継ぐことは大切といいながら

韓国や中国からの戦争被害などの追及を

しつこいと言う人もいます。

イシグロは二度の世界大戦があり、民族紛争などがあった

これまでの歴史に文学の立場から

問題提起していると思います。

だからこそ、

その舞台をあえてファンタジーにしたのでしょう。

特定の事件ではなく、現実の様々な時代に該当する

普遍的な問題としてあてはめられるように。

イシグロが示した一つの解決策は

アクセルとベアトリスのように

長い時間をかけてお互いの傷を癒すことです。

 

記憶とどのように向き合うか、忘却の是非を問う中に

夫婦の変わらぬ愛情が描かれます。

イシグロ作品の記憶というテーマを歴史の文脈で捉えた

設定だけでなく、ストーリーにも

最後まで惹き付けられました。

カズオ・イシグロの次の新作も楽しみです。