飛鳥坐神社の参道⑦弘計皇子神社( 高市郡・明日香村・八釣)に関する記事です。

弘計皇子神社(をけ)は近鉄橿原駅の東3.5km
飛鳥坐神社の北側、八釣川のそばの道を東に遡った、
多武峰の西麓・八釣の里にあります。

大原マイマップ

八釣マイマップ

♪八釣川 水底絶へず行く水の つきてぞ恋ふるこの年ごろを♪ (柿本人麻呂)


八釣の里
八釣の里(左が弘計皇子神社)

八釣は日本書紀に顕宗天皇の八釣宮が営まれたと記載される場所です。

♪公卿百寮を近飛鳥八釣宮に召して、天皇の位につく♪   日本書紀

顕宗天皇家系図


弘計皇子神社(をけ)は、近飛鳥八釣宮の伝承地で、

曲水の宴が初めて開かれた場所でもあります。

祭神:顕宗天皇

雄略天皇が皇族を片っ端から殺めたので、皇統断絶の危機が訪れます。

播磨で牛飼いをしていた億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)が
発見され二人を大和に迎え天皇としました。


弘計皇子神社の拝殿
弘計皇子神社の拝殿

二人は履中天皇の孫で、市辺押磐皇子の子供です。
父の市辺押磐皇子(おしは)は押歯で八重歯ですが、時期天皇の有力な候補者でした。

それを妬んだ雄略天皇は市辺押磐皇子を蚊屋野(近江)へ狩猟に誘い出し射殺しました。
その為、億計王と弘計王は丹波を経て播磨明石に逃れました。


弘計皇子神社の本殿
弘計皇子神社の本殿1

雄略が死んだ3年後の清寧天皇三年(482)二人の皇子は名乗り出て大和へ戻りました。

清寧天皇の死後兄弟で皇位を譲り合ったので姉の飯豊青皇女が政務を執りましたが、
結局、先に名乗り出た弟の弘計王が即位して顕宗天皇となりました。

次の兄の仁賢天皇とともに長く地方で苦労したため、
民衆を大切にする政治が続いたと伝わります。


弘計皇子神社の本殿
弘計皇子神社の本殿2

雄略天皇には実の兄の八釣白彦皇子がおり、
八釣に関係した皇子と思われますが、これも雄略に斬り殺されています。

安康天皇、八釣白彦皇子、雄略天皇は
3人とも允恭天皇と忍坂大中姫の子です。

兄の安康天皇が眉輪王に殺されたとき,
八釣白彦皇子は殺害の疑いをうけ,弟の雄略天皇にきり殺されました。

小治田で生き埋めにされましたが、埋められる途中で、
両目が飛び出して死んだと書かれます。

大和棟造り民家
大和棟造り民家