1989年1月 冬。
私は大きな壁の前で、立ちすくみ...
私の頭の中は、マーブル状になっていた。
悩ませていたのは・・・3つ
■勉強が大変だった
大学1年生の勉強だが、一般教養が多いとはいえ専門科目もほどよくあって、文系から来た私には、さっぱり分からなかった。
関数電卓なんかは...
速攻地面に叩きつけてやりたかった
関数電卓
■地元の友人がうらやましかった
地元に帰って進学しなかった友人と遊ぶと、
生活スタイルが違いすぎた。
いい車に乗って。
週末は”遊びに/飲みに”出かけて。
車をいじったりして。
(この頃はソアラに乗ってるやつが多かった)
友人たちは給料を遊びに使い、
私は生活費に使う。。。
18歳の私には、
うらやましくてしょうがなかった。。。。
■大阪に馴染めてなかった
学校では、健治を含め3.4人程度の友達しかいなく、バイト先でも同年代や学生に出会えず・・・ 2軒のバイトも長続きしていない状態だった。
”大阪に住んでいる”
ではなく
”大阪に来ている” 感があった。
※この辺のニュアンスは地方出身者だとわかりますかね?
頭の中はこうだった。
早朝から働き、夜は学校
休みの日は、疲れて寝てばかり。
地元に帰れば
ツレは、いい車に乗り
自由な金があり
遊んでいる。
俺は生活するのに精一杯で
遊ぶ金なんてない
バイトも続かないし・・・
俺って
何のために
大阪にいるんだ?
この生活がしたくて
こんな苦労を選んだのか?
正直言って、身寄りのない慣れない大都会で、働きながら大学に行くということは、想像以上に過酷だった。
朝は、5時に起きてバイトに行き、
夕方5時半から10時半ごろまで大学。
部屋に戻って晩飯を作り、風呂に入って寝るのは12時過ぎ。
それが、月曜から土曜までみっちり。
日曜もバイトなら、その週は休みなしだ。
似た境遇の友人でもいればいいんだけど、好き好んでこんな生活をする奴は、誰もいなかった。
その中でも、一番きついのは、勉強だった。
文系から来た私には、「○○力学」とか、マジさっぱりだった。
学校辞めて
地元に帰るか...
18歳の私は、誰にも相談できず
毎日、悩みまくった。
言うまでもないが
親には
絶対相談できなかった。
大阪で苦労している姿を
見せるわけにはいかなかった。
そして 2月。
私はある決断した。
1)ダブったら退学し、地元へ帰る。
2)進級できたら、経済学部に編入する。
※2年生への進級時のみ、学部変更が可能だった
そう考えたら
気持ちが楽になったことを思い出す。(笑)
そして、運命の成績発表だが・・・
なんと....
1科目以外
全てパスし
余裕で進級した(笑)
予想以上に簡単に進級できてしまった私。
学部を変更せず
そのまま工学部に在籍することに(笑)
そして、この時に落ちた科目(○○力学)は
2年生の時も....
3年生の時も落とされ・・・
4年かけて”4単位”
を取得することになるとは....
この時の私は知らなかった(爆)
※必修だったため、取らないと卒業できなかった。
そして私は
2年目の大阪を迎えるのだった。
つづく....
是非!