ジョージ・オーウェル「パリ・ロンドン放浪記」 1930年代に劣る今の日本の有り様が浮かび上がる 

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ジョージ・オーウェルの作品を読め!

この数ヶ月ジョージ・オーウェルの作品を続けて読んでいる。彼は「1984年」の作者としてあまりにも有名だけれども、それ以外にも非常に良い作品を書いている。もちろんどれも古い作品ばかりなのだが、彼の作品はどれも正に今現在の問題をえぐっているのではと思わせられるものばかりだ。

動物農場」はソビエトの非人間的な官僚体制、全体主義を風刺しているが、読んでいてとてもじゃないが昔の寓話とは思えなくなってくる。この作品世界は、今オレ達が生きている世界そのままじゃないか。支配者は常に自分に都合の良いように、国民を欺き、そして従わない者には暴力を使って支配する。支配層が目標とするのは、国民の奴隷化だ。吾を崇めよ、だ。共産主義・全体主義の恐怖は過去のものじゃない。姿を変えて、名前を変えて(グローバリズムと)、今もこの世界を覆い尽くしている。より悪質になって、より力をつけて。

動物農場で彼が批判しているのは、ソビエトの全体主義だけじゃない。左翼だからと(ジョージ・オーウェルもいわゆる左寄りだ)盲目的に社会主義を、ソビエトを支持する、脳みそレスの奴隷どもたちも同様に断罪している。その批評の鋭さがジョージ・オーウェルの素晴らしいところなのだ。

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パリ、ロンドンの貧困の世界を描く為、自らを貧困におとしめるジョージ・オーウェル

さて、つい先日読み終えたのは、「パリ・ロンドン放浪記」だ。この作品は1933年に発行された、ジョージ・オーウェルの最初の作品だ。ジョージ・オーウェルと云うと小説家としてのイメージが強いだろうが、彼はジャーナリストでもある。彼は自らを社会の底辺に置き、そこで見聞きした事、体験した事を、ルポルタージュ作品としてまとめたのがこの作品だ。

この作品の舞台は、1928年から1931年にかけてのパリとロンドンだ。彼が見た社会の底辺とは、いったいどんな世界だったのか? 彼はただ社会の底辺を見るだけじゃなく、自らその世界に身を投じて、そこに暮らす人々の生活を味わい尽くす。自らを底辺に落としたからこそ分かる、悲惨な世界がそこに描かれている。ジョージ・オーウェルとは菩薩その者じゃないか。

彼は社会の底辺で見た。そして体験した。人が人として扱われないような、底辺に住むもの以外には全く知る事の出来ない悲惨な生活と人生を。

この作品の前半はパリが舞台だ。パリで彼はホテルの皿洗いとして日々を過ごす。皿洗い・雑用係はホテルのヒエラルキーの最下層に値する。職場は世間では高級ホテルとして知られている場所だが、その厨房の中の様相は正に悲惨。最底辺の労働者は、その日暮らしてゆくのが精いっぱいの安い給料で、こき使われる。これは20世紀の奴隷の姿だ。

きらびやかなホテルの地下には、まるで地獄のような世界が隠されている。常に鍋にかけた蒸気が立ち込め、灼熱のサウナのような劣悪な環境。そのような職場で、寝る以外の時間をひたすらこき使われる。表向きはキレイに飾られた高級レストランの料理だが、その調理現場は恐ろしいほど不潔だ。通路は食料のクズが掃除される事なく放置され、踏みつけられ、その上を忙しく現代の奴隷が動き回る。

一見華麗に見える世界ほど、その裏側に隠れた部分は恐ろしく暗く、ドロドロと淀んでいるのだ。一般人はその足の下にヘドロのような、汚穢な底辺の世界が有る事を知らずに日々を生活している。だがもし何かあれば、そんなキレイな世界から、汚く暗い世界に我々は落ちてしまうと云う事を知らずに生きている。地獄は常に足下にあるのだ。

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ロンドンでは放浪者として国を彷徨い歩く

そんなパリでの悲惨な生活から逃れようと、ジョージ・オーウェルはイギリスの知人を頼る。運良くロンドンに職を見つけた彼はパリを後にする。ところがロンドンに着いてみると、その仕事はキャンセルされてしまう。あてが外れた彼は食べて行くために、今度は浮浪者の群れに身を投ずる羽目になってしまう。その当時のイギリスでは、そうした浮浪者にはわずかな金、もしくは無料で食事が出たり、宿泊出来る教会や救貧院といった場所が存在していた。

ジョージ・オーウェルは今度は、そうした浮浪者として、イギリスの最底辺の人々の生活を経験する。もちろん浮浪者を対象にしたそんな施設が快適なわけがない。どこも不潔で、狭い空間にびっしりと詰め込まれる不快な場所ばかりだ。暖房もろくになく、寝るに寝られない。路上で寝ないだけまだましと云う場所ばかりだ。とてもまともな施設じゃない。だけれども浮浪者は、そんな施設に頼るしかないのだ。

浮浪者はイギリス中をひたすら放浪して日々を過ごす。それは救貧院の制度に問題があるからだ。同じ収容施設は月に一度しか利用してはいけないと云う決まりが当時には有ったからだ。2度目の利用には、辛い罰が与えられる。だから浮浪者は次から次へと、救貧院を渡り歩き、国中を移動しなければならない。1ヶ所に定住する訳には行かないのだ。


ジョージ・オーウェルはそうした浮浪者の群れに加わり、彼らの生活をつぶさに観察する。この作品はルポルタージュなので、この様に彼の見聞きした事、体験談が綴られてゆく。

20世紀の初頭で既に貧困者対策が制度化されていたイギリス

放浪者の生活は、オレにはとても耐えられそうもない悲惨な世界だ。だが一寸考えてみた。1920年ごろのイングランドには、こうした食うや食わずの人達が、少なくとも死なずにすむような福祉政策が存在していたのだ。たとえ粗末であれ、食事や宿泊施設を国が整備していたのだ。快適なんて言葉はまったく当てはまらないが、それでも路上で飢えながら震えて眠るよりずっとましだ。

同じ時代の日本はいったいどうだろうと考えてみる。未だに日本には救貧院の様な制度は無い。だからこの当時もそんなものは無かったろうと思う。だが昔の日本には、こういった福祉は無くても、親族が、地域がこういった人達を助けると云う習慣があった。だから日本ではこの様な福祉が発達しなかったのだろう。今は失われてしまった大家族主義と云う奴だ。国にちゃんとした制度が無くとも、それに変わる習慣が日本には存在していたのだ。

一方イギリスはというと近代の始まりには既に、核家族が社会の基本になっていた。子どもは成人すると必ず家を出なければならない。そしてやがて老いる親の面倒を見る事は無いと言う社会に。だからそういう福祉制度がイギリスでは必要とされ、作られてきたのだ。

日本では親族が面倒を見る。地域が面倒を見る習慣が存在していた。逆にイギリスでは早くに核家族社会になってしまった為、政府がそういった人達の面倒を見ると云う訳だ。それらの事情は、たまたま偶然「イギリス近代史講義 (講談社現代新書)」を読んでいたので、容易に理解する事が出来た。

古き良き日本では、家族が地域が困窮者にてを差し延べる社会が出来上がっていた。だがそんな「社会」を破壊してしまったこの国は、その代わりにイギリスのように救貧院のようなものを作り上げたのか? 事態は真逆だ。今この国では貧困は自己責任として切り捨てられ、弱者の救済の措置がどんどんとおろそかにされてゆく。

日本もイギリスに劣らない核家族社会になってしまった。なのに貧困者救済の仕組みは昔のまま。核家族社会になったと云うのに、そういう部分だけ昔の大家族主義を期待される。だから救貧院のような制度なんか何も無く、貧困は放置されている。それどころか、路上生活者が寝泊まり出来ないように、ベンチは寝られない様な異様なものに置き換えられている。路上には奇妙なブロックが埋め込まれ、寝られないようにされている。じゃあ、彼らはどこに寝泊まりすればいいと云うのか?

セーフティー・ネットもなしに、辛自由主義の自由放任社会が実現 ジョージ・オーウェルもびっくりだろう

新自由主義(辛自由主義だ!)が席捲し、国民は全て自己責任の名のもとに冷たく切り捨てられる。生き延びるのは成功したものだけの弱肉強食の世の中にされてしまった。セーフティー・ネット無しの自由放任社会。全ては自己責任。もうこの国は国の体を為していないと思う。税金を払う意味を、国自らが放棄している。国がアナーキズムを推奨しているのだ。自分の身を守る事が出来るのは自分だけ。そんな社会になってしまった。
ジョージ・オーウェルが生きていたら、今の日本の有り様をどう描くのだろう?

「財布には100円もなかった」ウリ専で食いつなぎ、通院もできなくなったバーテンの男性が初めて頼れた「大人食堂」 20世紀初頭のイギリスより劣る21世紀の日本の有り様。まったくもって美しい国です。

今の日本の現状を憂うと、この「パリ・ロンドン放浪記」に描かれている世界が、それでもまだ暖かい社会に思えてくるのだ。

何時から日本はこんなに冷たい国になってしまったのだろうか? 竹中、お前だ!

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