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戦前の母島農家話【レジェンド・ストーリー①】

2020年06月04日 | 小笠原 昔話
■小笠原で暮らすに当たり、先人たちの話を幾つも聞いてきました。

それは戦前の話だったり、
戦争中の話だったり、
内地に強制疎開の話だったり、
返還直後の話だったり。

僕は物忘れが激しいので(笑)、
そろそろシリーズものとして書き記して行こうと思います。

沢山思い違いや間違いがあるかもしれませんが、ご了承ください。


■今回は戦前に母島の南部地域、中ノ平に住んでいたお方の話です。
いつもレジェンドの話を伺って思うことですが、
昔の日本人はほんと勤勉で、
今の自分自身から比べると休む、遊ぶなんて選択肢を感じさせません。
「どんな遊びをしていましたか?」
と聞くと、その多くは「遊ぶ暇なんかないよ。親の手伝い、家の仕事、色々やらされた」
と言います。

そんな話を聞いて、今の自分の暮しを改めようと思ったりします。
本当にその誠実な様は尊敬に値します。

当時は男性は昼間労働し、夜に学校に通う暮らし。
女性は午前は家事や労働に従事し、昼以降に学校に通う暮らしだったようです。
なんて勤勉だったのでしょう。

今の様に舗装された道路があるわけでもないし、
車やバイクで通えない時代。

当たり前に徒歩ですし、その多くは裸足と聞きます。

中ノ平の家から沖村の学校まで、当たり前ですが毎日徒歩で通います。
今の私達の足腰から考えると、全然違う運動量。

雨の日はマニラ坂で裸足で赤土を滑って降りて、遊んでいたというのです。

父島の西海岸に住んでいた人は、
扇浦の尋常小学校まで毎日山を徒歩で通っていたので、
運動会の駆けっこでは絶対に負けなかったそうです。

中ノ平から通う農民もかなり足腰は強かったようです。


■マニラ坂にはマニラ麻と呼ばれる繊維の植物があり、どうやら今のサイザルアサの様です。
(今はあまりマニラ坂には生えていません)
葉っぱの先端の棘で、葉っぱに書く(削る)と、あとからしっかりと文字が浮かび上がって来ます。
後から来る人にメッセージを伝えたいときは、
このマニラ麻を使っていたといいます。

きっと、業務連絡以外にも、沢山のユーモアもあったと想像します♡

集落から中ノ平に帰るとき、
運よく沖港からのカヌーに乗せてもらえる場合があり、
その時は便乗していたようです。

それで南京浜や雄さん海岸まで乗せてもらっていたようです。
その頃は帆で進むカヌーの時代です。


■中ノ平のシュロ葉葺きの家には、井戸があり、その井戸で炊事・洗濯をするそうですが、
渇水の時もあり、その時は南京浜の井戸を使いに行っていたそうです。

南京浜の井戸は、中ノ平の井戸よりはいくらか塩分を含んでいた感じだったそうです。

それでも渇水が続いて、どうしようもない時は、沖村の集落に一時的に身を寄せることもあったとのことです。

水道の蛇口をひねれば水が出るだけの時代とは、全然違いますね。


■台所は釜戸があり、だいたい3つが主流だったようです。
ひとつはご飯炊き用、
ひとつはみそ汁用、
ひとつは焼き、炒めなど多用途用。

煙の上には魚や肉がぶら下がっていて、
常に燻製状態。

冷蔵庫のない時代に、タンパク質を保存する為の有効な手段ですね。

正月には大きな塩漬けの鮭がぶら下がっていて、
ちょっとずつ使って味わっていたそうです。


■家畜は沢山養っていたようです。
牛にヤギ、豚にニワトリ、犬にネコ。
馬はいなかったようです。

牛は畑を耕したり、石臼でサトウキビを挽かせたり。
ヤギと豚は食肉と堆肥用。
犬は番犬。
ネコはネズミから食料と作物を守るため。

大きな家畜は海の近くの場でさばいていたようです。
今の前浜の端、評議平になる部分です。


■作物は本当に様々なものを作っていたそうです。
当時は内地にビニールハウスがない時代。

島の冬野菜は内地で高く売れたそうです。
当時の総理大臣並みの収入があった農家もあったとか。
「かぼちゃで家が建ったんだよ」と言われる所以です。

カボチャやトウガン、大玉トマトがその主流の作物だったようです。

昔の方に聞くと、コウモリは沢山いたけど、
作物の被害はあまり聞かないのです。

棲み分けできていたのでしょうか?

時々畑では赤子が泣いたように聞こえる事があったそうです。
「あれ?赤ちゃん?」というと、
「違うよ。ハトだよ」と。

当時はウシバトとも呼ばれたアカガシラカラスバトが、あまり見かけはしないけど、
時々、鳴き声でその存在を伝えていたようです。


■サトウキビを大量に製糖していた時代なので、
様々な副産物がありました。

サトウキビの搾りかすは釜戸の焚き付けに、
絞っている時は甘くておいしい源糖を子供たちが貰いに群がる、
サトウキビのお酒を作る。

どこもキビ酒(いわゆるラム酒?)が大量にあり、
家の瓶(かめ)の中には焼酎がいっぱいだったそうです。

昼間頑張って労働した大人たちは、夕暮れ時にはもう1杯ひっかけていたようで、
目の前に人が通ると「おおい、寄ってけよ~」声をかけ、至る所で酒場が発生していたようです。

なので居酒屋は沖村で1件しかなかったようです。


■学校の帰りには今のB線の下ら辺に「菓子金(かしきん)」というお店があり、
名物女将さんの「ぱんこばーやん」がいて、
きな粉鉄砲やきんつばを食べさせてくれたそうです。

当時の沖村は本当に豊かで、
和菓子屋さん、呉服屋さん、商店、居酒屋(1件だけ)、
共同風呂、豆腐屋、鰹節工場、裁判所など色々あったそうです。

内地からの物資は今ほどの頻度ではないようですが、
月に2~3回は来ていたようです。

当時は船は硫黄島まで行っていたようです。


■今の北港には北村という集落があり、
運動会の時にはそれぞれ出向いて行っていたそうです。

もちろん全て歩きです。
しかも日帰り。
今の様にトンネルもなく、舗装道路もありません。

個人的には行って、帰って来るだけで運動会です(笑)。

乳房山でサトウキビの仕事をしていた親や兄弟に、
毎日お弁当を届けていたというのですから、尋常ではない足腰です。

こんな話を聞いていると、
いつもバイクや車に甘んじてしまう自分のスタイルを改めなければと思ってしまいます(笑)。

そんな島のレジェンドのお話でした(#^.^#)


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