§4.「記紀」の脊椎、下つ道を下る。
「記紀」の編纂にあたって、安万呂はまず何をしたのでしょうか。幸いなことに、彼はその手掛かりを後世のために残しております。序文には、彼が『古事記』を撰録するとき、稗田阿礼をその道案内としたと書いております。その稗田阿礼が手がかりなのです。
稗田阿礼については性別やその他様々の見解があるようですが、一致していることは阿礼が猿女の君の一族で大和の稗田にいたのではないかとする説です。猿女の君の先祖は、天の岩戸で有名な天の宇受売の命です。彼女は天孫の降臨の際、先頭に立って道案内をしています。
つまり、安万呂時代の過去と今との道案内をしたのが稗田阿礼、神代時代の高天原と地上との道案内をしたのが天の宇受売の命、そういう関係になります。
天の宇受売のように高天原と地上との道案内をすることは私にはできかねますが、稗田阿礼を手がかりに過去と現在の道案内ならできそうです。ところで稗田阿礼の性別はどちらだったのでしょうか。無論、女性です。古代において女性は道案内にうってつけだったのです。女性は陰陽五行説でいう「火行」と「水行」の二つを持つ存在なのです。だだ、稗田阿礼が存在したかどうかは私にはわかりません。それでは始めてみましょう。
記紀神話と陰陽五行
平城宮朱雀門に立って目を閉じると、朱雀大路の向こうに羅城門、そして、その門をとおしてはるか南に延びる下ツ道が見えてまいります。この下ツ道をさらに南に下ったところに、阿礼が生まれ育った稗田の地があります。先ずは、そこへ行って見ましょう。
1975年から1980年にかけて、ここ稗田遺跡の発掘調査が何度か行われています。それによりますと、ここ稗田の地を通る下ツ道には橋が架かり、その下には川が流れていたそうです。また祭祀関係の遺物がこの川跡から大量に出土しており、何らかの祭祀がこの橋の近辺でされていたと考えられております。また、この橋は位置的に平城京域と京外との境にあたり、京を遠く去る人、遠く京外から戻る人が何らかの祭祀を行ったのではないかとも考えられています。
もしかしたら、当時の人にとってこの川はあの世とこの世とを隔てる川だったのかもしれません。もし、そうだとするならば、この橋はあの世とこの世とを繋ぐ橋、あるいは高天原と下界を結ぶ橋、あるいは過去と現在を結ぶ橋だったのかもしれません。
この橋の上で安万呂と稗田阿礼は過去と現在を結び、天の宇受売はこの橋を渡って下界に下りた。安万呂が振り返れば、平城宮の大極殿の中に元明天皇と皇孫聖武天皇の姿が見え、天の宇受売が振り返れば、高天原の天の石位(いわくら)の上に天照大神と皇孫邇邇芸の命が見えた。安万呂がこの橋を天の浮き橋としていたことは確かであります。その証拠に、この道をさらに南に下ると天の八街に出ます。
猿田彦と陰陽五行
下ツ道は大和郡山市横田町あたりで竜田道と交差します。天の宇受売は、ここ天の八街で猿田彦に出会っています。『古事記』は猿田彦を、高天原と葦原の中つ国を同時に照らすことのできる神だとしています。また『日本書紀』では八十万の神がこの神を恐れて名前を聞くことができなかったとしています。
ところで、なぜ天の宇受売はこの大神に対峙できたのでしょうか。それは女神である天の宇受売には陰(ほと)があるからです。「ほと」は火戸とも火処とも表記でき、これは陰陽五行思想の「火」にあたります。一方、猿田彦は申田彦とも書け、「申」は五行の「金」に当たります。五行思想では「金」は「火」に負けるのであります。また、神といえども陰陽五行の法則に従うほかはなかったということでもあります
猿田彦は庚申の神とも言われています。本来、庚申信仰では、庚申の神には人間の悪業を最高神である太一に告げる役目があるとされています。無論、陰陽五行の法則に従う神もこの範疇にあります。したがって、氏神すなわち人の祖先である日本の神々は厳密にはいわゆる神というわけではないのですから、八十万の神がこの神を恐れたのもそういう理由からなのです。しかし、庚申の神にも弱点があります。それは火です。庚申の庚は五行では「金」、申は前述したように「金」、どちらも金行です。庚申の日に火を絶やしてはならないというのも、このことと関係があります。なお、前述した事と今日残っている庚申信仰とでは違いがあるとは思いますが、庚申信仰の元来の主体は竈神信仰であって、竈の火や竈の煙が庚申にかかわっているのです。
さて、庚申信仰の本尊に青面金剛があります。この青面の青は五行の「木」に当たります。「木」からは「火」が生まれます。これも五行の考え方の一つです。実際、青面金剛の頭髪は竪に聳え、火焔の色の如しと言われています。正に木に火がついている形相です。猿田彦はこの本尊様にも負けるのでございます。猿田彦は「金行」の神、水に溺れる金槌の神でもあります。
ところで、これまで何とはなく下ツ道を南に下るとしてきましたが、「記紀」神話でもやはり皇孫は南に下っております。実は、南に下るというのは五行では「火行」を行うことでもあるのです。「火行」を行うと「土」が生まれます。「土」には国土の意味もあり、南に下ることにより国が得られるのです。百済の建国神話でもやはり南下をして国を得たという話になっています。しかし、これは建国神話というよりも正確には五行の教えなのです。
百済の神話では、高句麗を逃れて南下した兄弟が登場します。それぞれ国を造るのですが、兄は海岸に行って失敗し、弟は内陸に行って成功するという話です。
これは「火行」を行うに「水行」を用いてはならないという教えです。つまり、「火」は「水」に負けます。したがって、せっかく「火行」を行った兄ですが、海岸に行くことで「水行」を用いたことになり、その結果「土」が生まれず国が得られなかったということです。
また、「記紀」神話の海幸・山幸の話などもこの百済神話の流れを引き継いだものと思われますが、日本の兄弟は仲が悪かったのでしょうか、ついには兄弟が互いに争うという話にまで発展させております。「記紀」には五行思想にかかわる話が多く見受けられます。下ツ道より話はそれますが、少し寄り道をいたしましょう。
大国主神話と陰陽五行
『記』神話に大国主の話があります。この話は、「海幸山幸」の話よりも五行の教えについて分かりやすく作っています。それは、この話は本来「あとなしごと」の問題だったと思えるからです。「あとなしごと」というのは天武天皇が好んで催した、今日のクイズのようなものです。おそらく、この「あとなしごと」は次のように出題されたろうと思います。
- 昔、兄たちと弟の大国主は、因幡の八上姫と結婚するため競って因幡に向けて旅立ちました。
- 因幡に至ると白兎が赤裸にされて泣いていました。兄たちは塩を振りかければいいと嘘を教え、赤裸をさらにひどくしました。
- 弟は兄達とは違って、先ず赤裸を真水で洗うことを教えました。
- また、蒲の花の黄色い花粉を振りかければいいことをも教え、元通りの白兎にしてあげました。
- そこで兄たちは弟を苦しめる相談をし、火で大きな石を焼き、それを赤猪だと偽って坂から転がし、弟に受け止めさせて大火傷をさせようとしました。しかし、弟はそれにも屈せず、ついに八上姫と結婚しました。
さて、それは何故でしょう。
答えは、1.は「金生水」、2.は「火剋金」、3.は「水剋火」、4.は「土生金」、5.は「金行を行うに火行を以ってするな」となります。以下それぞれについて説明しますと、
- 天武の宮から見れば、因幡は西の方向にあります。西に向かうことは「金行」を行うということで、「金行」を行えば「金生水」となり、「水行」つまり女性が得られることになります。
- 白兎が赤裸になっているのは、「金」が「火」に侵されている「火剋金」の状態だということです。白は「金行」、赤は「火行」であります。従って、この場合まずしなければならないことは「火」を取り除くことです。しかし、兄たちはそうはしなかった。
- しかし、弟は「水行」を用いて「火行」を取り除いて「水剋火」とし、
- さらに「土行」を用いて「土生金」とし、「金行」の白を復活させました。黄色い花粉の黄色は「土行」で、黄色い花粉を振りかけるとは「土行」を用いるということなのです。
ただし、ここまでは単に五行相剋と五行相生との関係とそれぞれの効能を示しているだけです。実はこの物語で肝心なことは次の一点、兄たちが規則を破ったということです。規則や約束を破って大切なものを失ったり元の木阿弥になったという話が神話や昔話にはよく出てきますが、兄たちもまたそうなったのです。
- つまり、火で石を焼くという行為は「火行」にあたります。「金行」を目指していた兄たちはその行為で「火剋金」となり、元も子もなくしてしまったというわけです。
この問題を天武が考え出したとしたら彼はなかなかの知恵者だったと思われます。天武は仏教を奨励していますから、出題された者は、悪を行った兄たちが負け、善を行った弟が勝つという因果応報説を必ず持ち出すだろうと天武は読んでいたのかもしれません。
なお、赤い猪は五行では成立しません。それは、猪は「水行」だからです。話を要約しますと、「火行」を行った兄たちは失敗し、それをしなかった弟は宝を得たということです。つまりここでの教えは、西へ向かうには「火行」を用いてはならないということです。
なお、五行の「金」には宝の意味もあります。『日本書紀』は、新羅を西に偏した卑しい国と言いながら、他方で宝の国とも栲衾新羅の国とも言っています。栲衾とは白い布のことで西の意味があります。しかも、西は陰陽では陰になり、人に置き換えれば女性となります。大国主命は嫁さんと宝を得たということであります。
神武東征と陰陽五行
寄り道ついでにもう少し述べておきましょう。神武天皇は最初の東征に失敗して、兄を失っています。「記紀」共にこの原因を日に向かって戦ったからだとしていますが、これも本来は五行の教えだったと思われます。
その教えとは、「木行」を行うに「金行」を以ってするな、というものです。東に向かうことは「木行」、征服や争いは「金行」なのです。東征は最初から規則違反なのです。これと同じことが倭建の東征にも言えます。この東征で倭建は后の弟橘姫を失い、最後は自分も病死しています。彼の行為で五行にかなっていることは焼津で「木生火」の「火行」を行ったことだけです。
なお、倭建は征西もしておりますので、これも分析してみましょう。征西は「金行」ですのでこれは五行にかなっています。しかし、西の熊襲は「金」となります。このままでは相打ちとなってしまいます。それで彼は女装をします。女性は「水」と「火」を持ちます。「火剋金」、これで倭建は熊襲に勝てます。
じゃんけんのような、とんち問答のような不思議な感じがすると思いますが、当時の人にとって五行は神(多くは自然現象や物の怪、あるいは気や霊)を祭る上で大事なことだったのです。古代人にとって、神は必ずしも不可解な存在ではなく、神の行為もまた陰陽五行に基づいていると信じていたのです。したがって古代人にとって、陰陽五行に基づいて行動することが、神のご利益も得られ災いからも逃れられる唯一の方法だったのです。
五行相生は益をもたらし、災いを防ぐもの。
たとえば、倭建のように東に行くとしましょう。東に行けば「木生火」で火が生じます。倭建は焼津で野火に遭っていますが、彼はここでは「水剋火」の「水行」は用いず、叔母から貰った火打石で「火行」を用いてこの災難から逃れています。なぜかといえば、「水行」を用いれば、「水生木」となり「木行」が生じます。「木行」が生じれば、「木生火」と再び「火行」が生じ堂々巡りとなり、災いを避けることができません。しかし、「火行」を行えば「火生土」となり「土行」が生じます。大国主命は須佐ノ男の火攻めに対し土中に潜って難を逃れています。つまり東に行く場合、「火行」の行える火打石を携帯することが陰陽五行に基づく行動なのです。
では、西へ行く場合はどうでしょう。西に行けば「金生水」で水が生じます。倭建は西への帰途、醒ヶ井で清水に出会っています。ところで、これが洪水だったとしたらどうしますか。「土剋水」だから「土行」を用いますか。しかし、「土行」を用いれば「土生金」となり、さらに「金生水」となって洪水から逃れられません。この場合は「水行」を用います。「水行」を用いれば、「水生木」で水に浮く木が生じます。これで助かります。倭建は醒ヶ井の清水を飲むことで「水行」を用いたということになるのです。
それなら南はどうでしょう。南にいけば「火生土」で土が生じます。ここでは国造り、つまり「土行」を用います。ところで、「土行」を用いますと「金行」が生じます。「金行」は五色では白です。倭建を御陵に葬ると白鳥が飛び出しています。埋葬も「土行」になります。
最後は北です。北に行くと「水生木」で「木行」が生じます。この場合、宮作りが最適となります。ただし、宮殿作りであって都城造りではありません。五行に従えば北には宮があるのです。大津宮はあくまで宮であって京(都)ではありません。大津宮が過大評価され始めたのは平城京(北京)への遷都以降と思われます。
なお、五行の方位は四方ではなく五方となります。中(央)が加わります。これは「土行」に当たり、これに向かうと「金行」が生じます。「金行」には武器の意味もあり、争いを意味する場合があります。中央に向かえば、争いが生じるのです。争いには武器、「金行」を用います。
五方に関して述べますと、ある方位に向かった場合その方位から生じた五行を用いるのが陰陽五行に基づく行動ということになります。つまり「五行相生」を用いよということです。これは物事を「相剋」で収めてはならない、いや収まらないという教えなのかもしれません。
…和をもって貴しとなし、逆らうことなきを宗とす。…
とあります。あるいは、このこととも係わりがあるのかもしれません。また、冠位十二階は五行相生の順序になっているとも言われています。
ところで倭建の物語、これも天武の「あとなしごと」だったとしたらどうでしょう。また、なぜ倭建は息吹の神に敗れたのでしょう。
§5.投馬國を取り除け。
周知のように、倭人伝は魏志の東夷伝の中では意外とも言えるほど字数の多い記事内容となっています。このことは陳寿が倭を特別視していることの表れと見えます。従って、前回で述べたような陳寿の意図があるとしたとしても、強ち見当外れとはならないはずです。しかし、それはそれとして、後漢に朝貢した倭の二つの国が同じであるということを別の観点からもう少しだけ補足をしておきましょう。
その前に、例えば野生動物の場合ですが、彼らは、早く大きく、早く強くなったものが生き残る確率が高く、しかも長い間優位性を保つことが出来るといわれています。そしてこれは、人の世界、特に古代においては人にも国家にも当てはまることだと思います。
さて、倭奴國が漢委奴國王の印綬を得た背景にあるのは、倭奴國が倭国内において一番最初に覇権の掌握と後漢王朝への道の確保という偉業を成し遂げるだけの実力を持ったということです。つまり、先ほどの野生動物の例というのではありませんが、倭奴國はどこよりも早く大きく強くなったということで、従って、どのような国も倭奴國を差し置いて覇権を得ることは難しいということなのです。
またそうではなかったとしても、(漢)倭奴國の朝貢も倭國王帥升(等)の朝貢も同じ後漢代のことです。もしこの二つの国が互いに異なる別系統の国家だとしたら、後漢王朝はそれなりの対応をするでしょうし、『後漢書』にも当然そうした記載があるはずです。しかし、そうした記載が『後漢書』に見られない以上、やはりこの二つの国は同一の国と見做すのが順当ということになります。これは前章の最後でも述べたことですが、おそらく倭國王帥升という表記は、倭奴國王帥升というのが本来の表記ではなかったろうか。
戸数に聞く
我田引水という悪い喩えがあります。しかし、古い倭田であれば、たとえそれに水を引いたとて、どこからも文句は出ますまい。
とまあ、そうこうするうちに倭奴國から帥升等の倭國へ、さらには女王國へと国家の流れが繋がったようにも見えます。思うに、「魏志倭人伝」はその読み方をほんの少し変えるだけで思わぬ方向への展開が起こります。ここでいう読み方を変えるとは、丁度パズルのピースの一つを動かすというようなものです。そして、それによってその動いたピースに繋がってくるピースが次から次へと動き出すのです。
たとえば、福岡県福岡市東区の志賀島で発見されたとされる金印に彫られている印文には「漢委奴國王」とあります。またこの印文の読みは、「漢(かん)の 委(わ)の 奴(な)の 國王(こくおう)」というのが通説となっています。ただこう読みますと、漢委奴国は「魏志倭人伝」に載る5番目の国の奴國と同じではないかという事になります。またそうなりますと、これまで述べてきたことから奴國が邪馬台國ということにもなります。
無論、これはこれまでに述べている仮説の結末としては間違ってはいないのですが、これだけですと「魏志倭人伝」の中では情報量の少ない奴國を邪馬壹國に結びつけるという無意味な展開がおこります。つまり、つながって動くピースが殆ど無いということになります。
しかし、これをそのものずばり、読み方を「漢(かん)の 委奴(いと) 國王(こくおう)」と変えれば、今度は「魏志倭人伝」に載る4番目の国の伊都國が漢委奴國ということになります。伊都國も邪馬壹國も「倭人伝」のなかでは情報の多い国ですからこの二つを結びつけることは非常に意味があるということになります。つまり、つながって動くピースが多いというわけです。
しかし、この二つの国を結びつけるに当たっては、問題が一つあります。それは官制です。奴國の場合は、奴國の官制を末盧國へ移しかえることができたのですが、この二つの国の場合はそれができないのです。
投馬國の官制と戸数との矛盾
さて、「魏志倭人伝」によれば、投馬國は戸数五万余を擁する大国です。人口は普通に見積もっても、かるく二十万を越します。人口二十万というのは、今日の大都市制度の一つである特例市の条件にかなう数字です。これほどの国勢を彌彌と彌彌那利の二官制度で維持できたのか、陳寿の「倭人伝」は大丈夫なのかと少々考えさせられます。
しかし、どうやらここに先ほどの官制の問題を解く糸口があるようです。そこで、先ずは投馬國の官制の問題点を掘り起こすことから始めてみましょう。
戸数が導く新たな仮説
下の図と表は1~3章での結果を受けてのものです。表は、戸数の少ない国の順に上か下へと書き並べたものです。なお、奴國の2官は末盧國に移しています。また、図、表共に奴國の戸数二萬餘を大伊都國二萬餘戸と書き改め、奴國という表記は止めています。
對馬 一千余 2官 不彌 一千余 2官 一大 三千余 2官 末盧 四千余 2官 大伊都 二万余 3官 投馬 五万余 2官 邪馬 七万余 4官 |
上の表.5aを見て誰もが先ず気づくことは、戸数が一万に満たない国の官は2官に統一されていたのではないのかということではないでしょうか。そこで、新たな仮説を立ててみましょう。
● つまり、戸数が一万に満たない国の官は2官、それ以上は3、4官であると。
仮にそうだとしますと、戸数五万余の投馬國は2官ではなく、3官もしくは4官でなくてはならないことになります。そうするとこれは矛盾ということになりますし、投馬國は不都合な存在ということにもなります。では、どうするか。
1章では奴國が不都合でした。それでこれを取り除くこととしました。その結果は読んでの如く完璧といえませんが大きな進展は得られたようです。そこで、今度は投馬國を取り除くことにしましょう。手順は奴國と同じ、つまりパズル邪馬壹國のピースに適うように整形することです。それで、そのように整形したのが上のtable図.5aです。
読み手側のミス
さて、仮説に従えば投馬國の官には矛盾があります。また仮説を離れても、5万の戸数の大国に官2名は少なすぎます。この矛盾、仮説が悪いのか、それとも「倭人伝」の誤記載等か。実際、「倭人伝」には景初2年と景初3年の問題が示すように後世の誤写等があります。しかし、1章での卑奴毋離の例が示すように、今問題としているものについては後世の誤りと見るよりも「倭人伝」の編集時での不手際とする方がいいでしょう。と言うのも、1章では陳寿のミスとすることで進展が得られたのですから。それに、仮説が悪いかどうかということも、偏に進展が得られるか如何かということにかかっているのですから。
思うに不手際は、誰もがしていることだからこそ、誰もが感じていることだと思いますが、不手際というものは書くほうの側にだけではなく読むほうの側にも存在します。例えば、「倭人伝」の戸数に関しての一般的な読み方は、下の左表.5bのようにすべてを加えると15万をも超える数になるというものです。
對馬國 一大國 末盧國 伊都國 奴國 不彌國 投馬國 邪馬國 |
千餘戸 三千許家 四千餘戸 千餘戸 二萬餘戸 千餘家 五萬餘戸 七萬餘戸 |
合計 | 15万余戸 |
01.斯馬國 02.巳百支國 03.伊邪國 04.都支國 05.彌奴國 06.好古都國 07.不呼國 08.姐奴國 09.對蘇國 10.蘇奴國 11.呼邑國 12.華奴蘇奴國 13.鬼國 14.爲吾國 15.鬼奴國 16.邪馬國 17.躬臣國 18.巴利國 19.支惟國 20.烏奴國 21.奴國 |
22.對馬國 23.一大國 24.末盧國 25.伊都國 26.奴國 27.不彌國 28.投馬國 29.邪馬壹國 |
30.狗奴國 31.侏儒國 32.裸國 33.黒歯國 |
戸数15万というのは「韓伝」によれば三韓の総戸数に匹敵するほどの数です。「倭人伝」には、これ以外にも狗奴國や海を渡った東にも国があるとしていますから、このままですと倭の総戸数は20万あるいは30万を優に超えてしまうことになります。この数が、当時の倭の戸数として多すぎるのであれば、これは読み手側の不手際と言えなくもありません。
無論、読み手側の不手際は同時に書き手側の不手際でもある。これもまた確かなことです。例えば、書き手側の不手際、つまり「倭人伝」の著者陳寿の最大のそれは、邪馬壹國を会稽東冶の東に位置づけたことです。しかし、これとても善く善く考えてみれば、実は読み手側の不手際と言えなくもないのです。
そもそも陳寿は、「倭人伝」の前では書き手側ではありますが、倭に関する文献資料等の前では読み手側に回ることになります。文献資料等がどのくらい正確であったかはわかりませんが、3章の最後でも述べたように倭に関しての情報はかなり正確であったと思われます。
ただ陳寿は、そうした資料の中から倭の風俗が南方系である事に注目し過ぎたため、また倭をそう評価する必要があったため、里程記事部品や国別記事部品をことさら南に向くように、また大きな国らしくなるように積み上げていった。その結果が、かつその証が、今日我々が「倭人伝」を読むと邪馬壹國が九州の南の海上に在ったり、その戸数が十五万を超える大国に見えたりもすることになる、ということなのです。少しばかり皮肉った言い方をすれば、我々はすこぶる正確に陳寿の「倭人伝」を読んでいるとも言えます。
そもそも陳寿や当時の中国人にとって、倭は東夷のなかでも格別な存在であり、且つ伝説的な存在であったと思われます。その証拠に、「倭人伝」は女王國(邪馬壹國)を郡より萬二千餘里の距離にあるとしています。郡より萬二千餘里という距離は、当時の彼らにとって『山海経』の世界の入り口に当たるほど遠い場所です。実際、「倭人伝」は『山海経』の国の一つ黒歯国へ女王國より到達できるとしています。
『広志』逸文と其餘旁國
思うに、古代中国に伝説の倭人の国を現実のものとして示した陳寿の功績は大きいといわねばなりませんが、我々に伝説の邪馬台国、判じ物の「倭人伝」を残した不手際もまた大きいといわねばなりません。なお、この件については陳寿が参考にしたとされる『魏略』の魚豢による可能性もあるのですが、ここでは話の都合上陳寿としています。
普通、不手際というものは何事においてもそうだと思いますが、その多くは原史料等の利用時に生じるものです。幸い、先人の研究のおかげで『魏略』が「倭人伝」の原史料の一つであると突き止められています。前章ではその逸文から進展の糸口をつかむことができました。原史料が完全に失われない限り、今回も、この章に必要な矛盾を解く何らかの糸口が残されているはずです。
倭国東南陸行五百里、到伊都国、又南到邪馬臺国、自女(王)国以北、其戸数道里、可得略載、次斯馬国、次巳百支国次伊邪国、案倭西南海行一日、有伊邪分国、無布帛、以革為衣、蓋伊耶国也。
上記は『翰苑』に残されている『広志』の逸文といわれているものです。ここには、「倭人伝」が其餘旁國としている伊邪國についての記述があります。内容は、「伊邪国というのは、確か倭の文献にあった海を西南に一日行ったところにある布の代わりに革を衣服にしている伊邪分国のことではないのか」というものです。
『広志』逸文はそれ自体が価値のある原史料でもあるのですが、その価値を更に高めているのがこの逸文の中にある、少なくとも二つ以上の『広志』にとっての原史料の存在です。一つは、次伊邪国までの文。これは普通『魏略』によったとされています。もう一つは、それより後の文。これはX史料によったという他はありませんが、今回の重要史料です。なお、この逸文には誤字や脱字が多く、背景色のあるところと()内は岩波文庫の訂正と補筆のあるものです。また、伊耶国が伊邪国の誤写でない場合は、さらにX史料がもう一つ増える事になりますが、これはここではそれほど重要ではなく省きます。
「広志逸文」の伊邪国が「倭人伝」が略載もできない傍余の国とした21ヵ国のうちの一つ、表.5cの3番目の国である事に間違いはないと思いますが、こうした内容のX史料があることは「倭人伝」の
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
の記述といささか抵触があるように感じられます。なぜなら、その余の傍国と女王国以北の国との違いとされる戸数と道里の略載の可不可が、文面通りの遠絶によるものとは言い切れなくなってきたからです。
そもそも遠絶ではない国の戸数にしても、百戸程度ならともかく、千ましてや投馬國の五万もの戸数を一郡使が数えたとは思えません。また、道里の南へ水行二十日、これとても現実に体験した結果とは思えません。これは明らかに倭人からの情報収集によるものです。そうなりますと、「倭人伝」には「今使譯所通三十國」とする記事がその書き始めの最後の一節にあるのですから、必要ならば、それら交流が可能な30ヵ国の情報を集めることは簡単であったろうし、あるいは集めていたかもしれません。
ところで、もし其餘旁國の情報がすべて魏にもたらされていたとしたら如何でしょうか。しかも、それが『広志』逸文のX史料のような形であったとしたら。
§48.斑鳩文化圏と法隆寺の創建。
さてお気付きのように、図.47bでは定説に違えて法隆寺の瓦を一番最初に掲げました。それは、もし法隆寺が川原寺の後に出来た寺ならば、おそらく法隆寺式の瓦と言うよりも斑鳩文化圏そのものが存在しなかったと思われるからです。なぜなら、川原寺に続く薬師寺、藤原宮、紀寺、大官大寺、そして平城宮は全て川原寺式の蓮弁文様を持つ瓦が使われているからです。つまり、川原寺式にはそれほどの強い力があるのです。また、このことは、川原寺式以前とはいえ法隆寺式が広がったのは、法隆寺式にも強い力があったということを同時に教えてもいるのです。
そもそも法隆寺は官寺です。しかも大和を遠く離れた奈良の時代、法隆寺はなおもその伽藍の規模を拡大し続けています。それは、この寺が奈良の時代に於いても官寺の源流としてなおも位置づけられていたからではないだろうか。そして、なによりも川原寺式が成立する以前に斑鳩文化圏は成立していたということです。
では、それならば斑鳩文化圏が成立するにはどれほどの時間を必要としたのだろうか。思うに、川原寺造営開始以前に少なくとも10年以上の歳月の隔たりが必要ではなかったろうか。これは前章でも述べたことですが、寺がほぼ完成するのに10年以上を要します。薬師寺は天武13年(684)以降の造営で、文武2年(698)に僧衆を住まわせていますから、完成までに14年ということでしょうか。ところで法隆寺の場合、薬師如来光背銘から667年に薬師像が寺に収められたことが分かります。つまりこの時期の法隆寺には、少なくとも金堂は完成していたということになります。
当時、寺の造営は、普通金堂を先に建てています。大官大寺では、そうであったことが発掘調査の結果から確かめられています。では、金堂の完成にはどの位の時間を要するのだろうか。薬師寺では持統2年(688)に無遮大会が行われています。おそらくこの時期に金堂が完成したのだと思われます。これは造営開始より4年目という事になります。そうすると、法隆寺の造営開始は663年以前ということになりそうです。
そうなると、薬師寺が684年以降、川原寺が673年以降、そして法隆寺が663年頃ということになり、ほぼ10年の間隔で官寺が作られた事になるようです。そして、これにかかわっているのが東宮聖王と小治田大王天皇、つまり斑鳩文化圏は天武の太子時代の賜物ということになります。またそうであったからこそ、やがては廃れていることになる法隆寺式の瓦がこの時期に限って西日本に広がっていったということなのでしょう。
西海防衛と寺と山城
さて、法隆寺の造営開始が663年以前ということになるのですが、この663年という年は朝鮮半島白村江での羅唐同盟軍との最後の戦いの年、日本の百済救援策が失敗に終わった年でもあります。『日本書紀』によれば、百済滅亡の年(660)に天皇は駿河国に百済救援のための船を作らせています。そして天皇は、その翌年の正月早々九州に向けて出立しています。そして、日本はこの年から663年までの3年間に3万以上もの百済救援のための将兵を半島に送り続けたのです。思うに、この戦いは日本の古代史上最初で最後の最大規模の征戦、しかも敗退だったと見えます。そして日本は、この敗退の年の翌年から、西日本の各地に水城や山城を築き、さらには都を近江大津へ遷して羅唐同盟軍の侵入に備えています。
ところで、羅唐同盟軍の侵入に備えて西日本各地に築いたのは水城や山城だけだったのだろうか。思うに、寺もまたそうではなかったか。『日本書紀』には、天智6年(667)11月に、倭国の高安城、讃岐国山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築くとあります。この天智6年、つまり667年というのは法隆寺金堂薬師如来像の出来た年でもあります。そして法隆寺は、平群谷を挟んで高安城の東に位置し、大和の西の要の地にあります。思うに、西日本に築かれた法隆寺式の創建瓦を持つ寺の多くはこの時期に創建されたものではないだろうか。
白村江での敗退後、日本は国土防衛に心血を注いだ。おそらくは、神仏にも頼ったことでしょう。伊勢神宮、そして出雲大社、それらはこうした緊迫した状況のなかで生まれたのではないだろうか。おそらく、こうした緊迫した状況は、690年の武周王朝の成立、あるいは大宝2年(702)の遣唐使の派遣まで続いたのではないだろうか。都を遠く離れた東国に立つ那須国造碑に永昌元年(689)という唐の元号が刻まれています。これは、当時の日本がいかに唐の動向に気を遣っていたかの表れと見えます。つまり、こうしたなかで法隆寺を手始めとして西日本の寺が出来ていったということです。
それにつけても、また国を護るためとはいえ、山城の築造に寺院の建立、西日本の民の苦労は如何ばかりであったろうか。天武はその5年(676)に西国にある封戸の税を東国に替えさせています。おそらく、民の負担の軽減と山城や寺院の管理運営に当てたのだと思います。
さて、本来なら吉備池廃寺並みの伽藍規模を誇ったであろう法隆寺。また、本来なら大官大寺並みの伽藍規模を誇ったであろう川原寺。しかし、普通規模の伽藍となった法隆寺と川原寺。思うに、それも以上述べたことによるものだとすれば、当然の結果と言えるのではないだろうか。また、壬申の乱で東国の民を動かしたのも、あるいはそうしたことと関係があるのではないだろうか。また、「古事記序」や『日本書紀』は天武の偉業を大きく伝えるが、天武の営んだ飛鳥浄御原宮は難波長柄豊碕宮に比べて規模も小さく朝堂も揃ってはいない。まるで時代が逆行したかのようにも見えるが、これも又そうしたことによるものだとすれば、やはり当然の結果というものなのかもしれません。
ところで、飛鳥浄御原宮という呼び名は天武の末年につけられた名前です。それ以前は如何呼んでいたのだろうか。後の岡本宮か、それとも高市宮か。また、天武は如何呼ばれていたのだろう。後の岡本天皇か、それとも武市天皇か。
うやむやの関。
私が生まれた時代、飛鳥に都があった時代ですが、その当時関と言えば、不破関(美濃)、鈴鹿関(伊勢)、愛発関(越前)の三つを指しました。それがテレビの当世風時代劇の見すぎなのでしょうか、いつのまにか、関と言えば先ず箱根の関所を思い浮かべるようになってしまいました。
それにつけても、箱根の関所の代官、時代劇では悪い奴が多いようでございます。
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ところで、出羽と陸奥の国境の笹谷峠に うやむやの関 があると聞きます。また、太平洋を挟んでの東と西とのどちらにも うやむやの国 があると言います。
さて、その太平洋の東の うやむやの国 でございますが、聞くところに拠りますればロシア疑惑と選挙公約の万里の長城フェンスが うやむや になってしまっているとか。
何でもその国には万里のフェンスを目指す新大陸の始皇帝が居るとか。
なーんもなんも巷の噂でございます。
さてさて、問題の太平洋の西の うやむやの国 でございますが、私の知るところに拠りますと、森加計蕎麦の勘定が うやむや にされているとか。
また、昨今巷で囁かれておりますのは、何でも外国人労働者の入国管理に関する規則があやふやなものへと変更されたとか。
どうやら、この うやむやの国 では入国管理の関もとうとう うやむやの関 になってしまったようでございます。
なんもナーんも、巷の噂でございます。
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それにしても、共にうやむやの国同士とはいえ、
片や外国人労働者を必要としない国、片や外国人労働者を必要とする国。
ロン康以来の仲とはいえ、阿吽の呼吸とは言い難し。
さてもこれをお読みの皆様方、うやむや音頭と参りましょう。
色即是空 空即是色
因果は巡る風車 チンチンポイポイ ポイ捨て
要らないのいらないの 飛んでけー
結構でございました。
敗戦国日本。(どこ吹く風 d12 社会と意識)
勝てば官軍、負ければ賊軍。この言葉ほど明治維新と直結した言葉はない。言葉の意味は、たとえ道理に合わなくとも、戦いに勝った者は正義となり、負けた者は不義になるということ。そして、明治維新で薩長土肥軍に負けた幕府軍が噛み締めた言葉でもある。
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あれは二十代そこそこ、そう今から50年近くも前1970年頃のことです。私は会津生まれの男と東京の片隅でふと知り合ったことがありました。男は私の出身地を聞くと、何故か握手の手を差し伸べ私の手を強く握り締めました。
また、それから十数年ほど経った頃ですが、私は郡山出身の老人と知り合ったことがあります。老人は私の出身地を聞くと、会津生まれの男と同じように、私に握手の手を差し伸べ私の手を強く握り締めました。
私が生まれ育ったのは四国の愛媛です。明治維新の折、西日本で唯一賊軍とされた県です。しかし、私は彼らに会うまではそのことは知りませんでした。それどころか、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』等から、愛媛を明治維新に貢献した県とまでも思っていたくらいです。
それにしても、明治維新より百数十年を経て尚且つ「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉を噛み締めていた男と老人の無念と郷土への愛の強さ、思うにこれこそが人の歴史というものかもしれません。
思うに、男も老人も私にとっては見ず知らずのうちに酒を酌み交わした仲でしかありません。しかし、彼らが無言のうちに私の目を見つめ、私の手を強く握り締めたことを私は今でもはっきりと覚えています。そして、このことを思い出す度に、なぜか三波春夫のチャンチキおけさを口ずさんでしまいます。
月がわびしい 露地裏の 屋台の酒の ほろ苦さ
知らぬ同士が 小皿叩いて チャンチキおけさ おけさ切なや やるせなや
ところで、最近再び韓国との関係が悪化しているということらしいのですが、沖縄の基地問題と同様に時が解決してくれるというものではないようです。思うに、そこには加害者と被害者という立場の違いと、そして歴史認識の違いがあるようです。
立場が変われば、考えも変わる。刑事ドラマでは、窮地に追い込まれ犯罪に走った犯人の常套句です。また、被害者が加害者となったり加害者が被害者となったりすることも刑事ドラマではよく見かける筋書きです。しかし、韓国と沖縄の場合、立場が変わることは先ずあり得ません。それが歴史というもです。
歴史が変わらない限り、日本と日本政府のおかれた立場は変わりません。しかし、日本の場合、歴史認識は変えられるのではないだろうか。私の歴史認識が変わったように。
私の歴史認識は会津の男や郡山の老人と会うことで大きく変わりました。私がこのブログで通説とは違った歴史を述べるのも、このことがきっかけの一つとなっているのです。思うに、歴史を変えることはできないが、歴史認識は変えられる。歴史認識が変われば歴史の矛盾が見えてきます。そして、矛盾を見つけ出せば、あるいは歴史が変わるのかも知れません。
さて、1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国側に通告をしました。そして同年9月2日には、日本政府は東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で降伏文書に調印をしました。ここに、明治維新より80年近く続いた東京幕府は瓦解した。
この時、日本人が噛み締めた言葉は「国破れて山河あり」だったという。しかし、極東軍事裁判からも分かるように、この時の日本が噛み締めなければならなかったのは、嘗てこの政府が旧幕府軍になめさせた「勝てば官軍、負ければ賊軍」ではなかったか。
朝鮮が日本より解放されて70年余り。また、朝鮮動乱後の韓国からだと70年に少し足りません。まして、沖縄に至っては本土復帰より50年にも満ちません。
白河以北一山百文の罵声の中で、薩長土肥の官軍に蹂躙された賊軍奥羽越列藩同盟。思うに、この勝てば官軍負ければ賊軍という明治維新より百数十年を経て、なお無念を噛み締めていた男や老人がこの日本に居たことを日本は知っているのだろうか。…
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なぁーんも なぁーんも
寛容 寛容
へば 寛容
何事も寛容寛容へば寛容、誠惶誠恐、頓首頓首。