自分が本当に自立したと言えるのはいつなんだろうか
美味いね牛肉は…ホントに…(噛み締めつつ
どうもだっぺーです。
さてなんか真面目そうななタイトルですが、特に書きたいネタもなかったので今週の特別お題「わたしの自立」というものに参加してみようというそんな試みです。深い意味はないので、本日も徒然と思ったことを書いております。
…3万円の体験ギフトが欲しいとかそんなんじゃないぞ!!!ほんとだぞ!!!
そろそろオタ活の話も書かなきゃ…タイトル詐欺になってしまう…
ではまず、「自立」とは何ぞやというところから。
自立(読み)ジリツ
[名](スル)
1 他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。「精神的に自立
2 支えるものがなく、そのものだけで立っていること。「自立式
デジタル大辞泉より抜粋
調べてみましたが、まぁ想像通りのことが書いてありました。
そりゃそうですね。
よく親なんかに「早く自立して大人になれ」的な事を言われるもんなんだと思います。
私は両親からは特に言われたことはないんですが…
思えばあんまり口喧しく言われることはありませんでした。
心配はされますがね未だに。
果たして自分が今自立しているのか、と言われると、「いやぁ…ンフフ…どうでしょうねェ…」と返す他ありません(曖昧)。
自分で金を稼いで生活しているので一応経済的には自立しているし、一人暮らしなので生活面も自立していると言えます。仕送りなんぞも当然ありません。
しかしながら精神的な自立は未だ出来ていないんだろうな、というのが正直なところです。
「30目前のいい歳こいた男が何を甘えたことを」と言われるかもですが、やはり両親が存命であることが結構大きな精神的支えになっているのは事実です。
たとえ金が尽きたところで別に助けを求めるわけではありませんが(そもそもウチはその辺結構シビアなので多分「死なないなら自分で何とかしろ」と言われると思う)、知識・経験面であったり、相談役であったりと、やはり何かと頼っているなぁと、振り返ってみて改めて思うわけです。
自分にとって両親は「おそらく死ぬまで超えることのできない何か大きな存在」という認識があります。富士山ですね。規模がデカすぎる。
生きているだけで精神的な支えというか、壁というか、そういうものになっている気がするのです。
少し話は変わりますが、私の両親はどちらも1度ずつ、大病を患ったことがあります。
どちらも自分が大学院生の時のことで、現在は両親とも完治してピンピンしているのですが、それ以降「親の死」について考えることが多くなりました。
「この人たちが死んでしまったらどうしたらいいんだろう」という漠然とした不安が今でも圧し掛かっています。
祖父母が亡くなった後、遺産相続の話など色々あったようですが、我々孫の代にはあまり関係のない話であったためか、その話についてはほとんど知りません。
ウチの両親がその件で精力的に動き、親族内に問題や不和が起こらないように適切に処理したと叔父からこっそり聞きました。
「ああ、子供である自分は何にも知らないんだな」という無力感と「やっぱりこなしてしまうんだなぁ」というちょっとした誇らしさとがない交ぜになり、「ほーん…」という何とも言えないリアクションを返して笑われたのを覚えています。
では自分がその立場になった時に、適切に対処ができるのかと立ち返ってみると、全くもって"NO"です。
適切にどころか何からすれば良いかも全然わかっていません。ちんぷんかんぷんです。
葬儀の手配に始まり土地の相続やら遺産配分やら色々あるのでしょうが、まだ20代のペーペーにはワケわかめであり、まだその段になっていないにもかかわらず既に焦っています。いずれはやらなければならないわけですし。
多分ウチの両親とも、2人で全てこなしたわけでは当然ないのでしょうがね。誰かに助けてもらいながら四苦八苦しながらやったんだと思います。
それでも我が子たちに無駄な心配をさせず、当人たちは何も知らずボケーっと暮らしていける程度にはスマートにこなしていました。
自分もまた親となったとき、我が子に胸を張って「俺を頼れ」と言える存在になれるのだろうかと、この歳になってやっと考え始めています。遅いですね…
同級生たちがどんどん子を産み親になっていくのを傍目に見つつ、私も親になれるのだろうか、その資格がないのではと考え、子を持つ友人に訪ねてみたところ、
「俺も覚悟とか資格とかがあったかどうかは疑問だけど、子供が生まれた瞬間、その人は”親に成る”んだよ。将棋の駒みたいにガラッとが変わる。気持ち的なもんだけどね。少なくとも俺はそうだった」
と笑っておりました。
「親に成る」という表現は将棋好きの彼らしいなと思いつつ、子供という存在がいない自分にとってはまだ実感の薄い話ではあります。漠然と「そうなのかー」くらいにしか思っていません。こればっかりは経験してみるしかないですね。
両親の他にも彼女であったり、姉であったり、友人であったりと、精神的な支えになっている人たちはたくさんいます。
別に相談に乗ってもらうとかそういうことではなく(むしろ私が乗ることの方が多い)、デートしたりバカみたいな話をしたりゲームしたり、「これが無かったらつまんねーだろうな」という部分を支えてくれているのだろうな、と勝手に思っています。
娯楽人である私にとってはこの比率は非常にデカいものです。感謝感謝。
自立の話からだいぶ逸れましたね。すんません。
そも、精神的な支えと自立の件をくくってしまうのは些か暴論じみていますが、少なくとも自分にとってはニアリーイコールなところもあるな、と思った所存です。
辞書的な自立の意味に立ち返ってみると、
他からの支配や助力を受けずに、存在すること。
とあります。
この点で、いろんな人から助力を受けながら生きている自分は全然自立できていないなと思いますし、みんなそうなんじゃないかな、とも思います。
たとえ世界が滅んで自分一人になってしまっても、いろんな人の顔や言葉を思い出したりして精神的な助けにしながらボチボチ生きていくんだろうなと考え、「一生辞書的な意味での自立は無理やなガハハ」という結論に至りました。
まぁでもそれでいいんじゃなかろうかと。
周りに誰かがいる、支えられていると思うからこそ私の精神は強いのだと思いますし、今後も私の心がヘシ折れることはそうそう無いと思います。多分ね。
ただ"誰かへの依存"だけはしないように気を付けています。
依存は一方通行的なもので、人間関係というものは常にギブアンドテイクでなければならないと思うからです。
かつて生活丸ごと依存された挙句、唐突に捨てられたことがある身としては、「依存はしてもされても全く益が無い」と実感しております。
まぁその話はまた今度。先に行っておきますが笑い話です。笑
「わたしの自立」というテーマに「自立なんかせんでもええワイ!!!」と真っ向から反対していくこの感じ、実に天邪鬼な私らしいですね。
まさに反骨精神の具現。
…漢字が並んでるとカッコいいと思ってしまうこの厨二心、なかなか無くなりませんね…一生付き合っていくしかないんだろうな…
愛してるぜ相棒。
というわけで、今日のテーマは「わたしは自立できない」でした。笑
読み返すと月並みな事しか書いてないな…まぁしゃーなし。
ほなまた。
ちなみにウチの母、先日人間ドック後に医者から「100歳余裕で超えそうなくらい健康ですね」と言われ、「いえ結構です」と謎の返しをしたそうな。
お医者さんに言ってもなぁ。