「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

モーツァルト・エロティシズム

2019年12月08日 | 音楽談義

およそ7年ほど前に投稿した「モーツァルト・エロティシズム」だが、いまだに途切れることなくちらほらアクセスが続いている。

そこで久しぶりに読み返してみたところ、気になる箇所がいろいろあったので今風に改変してみた。それでは以下のとおり。

のっけから妙なことを言うようだが、自分には「3つの顔」があると思っている。

ひとつは自分が考えている自分、次に他人の目に映っている自分、そしてほんとうの自分。「自分という人間はいったい何者なのか」を探し求めていくのが人生の最終目的だと思っている。

というわけで、ときどき自分はこのブログの読者の目からどう映っているんだろうかと自問自答することがある。

「オーディオ狂い」は、もちろんのこととして「独善的な書きっぷり」など「マイナス・イメージ」が相当あるような気がしているが、本来は「大のモーツァルト研究家ですよ!」と声を大にして叫ばせてもらおう(笑)。

もちろん、研究のレベルは別にして費やした時間の方は人後に落ちないと思っているし、それにモーツァルト愛好家の必須要件とされる「オペラ愛好度」もこれまた人後に落ちない。

モーツァルトのオペラ「魔笛」に血道をあげてから、およそ40年あまり。

その間、せっせとCD、DVD(46セット)を収集するとともにモーツァルトに関する本はひととおり目を通してきたが、このところ中味の方はほとんどが知っていることばかりでいささか食傷気味になっているが、それでも本の題名にモーツァルトとあれば無視するわけにはいかない悲しい習性の持ち主である。

最近読んだ中では「モーツァルト、遊びの空間」(中堂高志著、新泉社刊)がユニークでなかなか面白かった。

                          

 本書の中で「モーツァルト・エロティシズム」(110~134頁)という一章がある。

「もしミュンヘンに来てくれないとウンコするよ。・・・来てくれたら、みずからあなたにご挨拶をし、あなたのお尻に封印し、両手にキッスをし、下の小銃で発砲し、抱きしめ、前後から浣腸し、あなたからの借りをすっかり返し、でかいオナラを鳴り響かせ、そしてきっとなにかを落とすでしょう。さよなら、ぼくの天使、ぼくのハート」(110頁)

これは世に名高い「ベースレ書簡」とされるもので、モーツァルトが従妹のベースレにあてた手紙の一節である。当時モーツァルトが21歳、ベースレが17歳とされている。

何とも要領を得ない、こんな汚らしい表現をする人間が、あの美しい旋律に満ちた至高の名曲を数多(あまた)作ったモーツァルトと、どう結びつくのかと首を傾げる向きが多いのではあるまいか。

そこで、「創作した本人の人間性と作品はまったくの別物である、芸術とは奥深いものだ。」というような陳腐な結論に持っていこうという腹積もりは毛頭ないことを先に申し上げておこう(笑)。

むしろ、その逆で「これはモーツァルト独特の”おふざけ”です。こういう思ったことを天真爛漫に素直に表現できる人間だからこそ、あのような天衣無縫ともいえる作品をいっぱい作ることができたんですよ」と、モーツァルトの一研究家として大いに納得できるのである。

モーツァルトの実像については彼の死後230年ほど経った今となっては、せいぜい残された手紙などから推し測るほかはないが、それでも映画「アマデウス」(ミロス・フォアマン監督)によって、生身の人間像が相当暴かれた感がある。

三大オペラのひとつ「フィガロの結婚」は、召使いに対する領主の初夜権を風刺した内容で当時の貴族社会で物議をかもしたが「貴族とか平民とかの生まれついた身分で人間は差別されるべきではない」と反権力的意識を持っていたモーツァルトならではの作品だった。 

少なくともモーツァルトは言いたいことを言う、したいことをする、伸び伸びと生きた人間であったことは間違いない。

それにひきかえ現代は・・・・。

文明の発達も考え物で、思ったことを率直に表現すればすぐに広く知れ渡って袋叩きに合うのが関の山である。

マスメディアが始終不気味な目を光らせていて、テレビカメラがまるで銃口みたいだと洩らした人がいるが、行き過ぎた”人間狩り、言葉狩り”は考え物である。

「貧乏人は麦飯を食え」「中小企業の一つや二つ、どうなってもいい」と言い放った池田勇人(元首相)の時代がある意味で懐かしい。

先日亡くなられた「大勲位」の中曽根氏が「現代の政治家はスケールが小さくなった。昔はよく大風呂敷を広げる政治家がいたものだが」と、テレビの回顧番組で仰っていたが現代の政治家は本音と建前を使い分けるのに汲々としている感がある。

当たり障りのないことを言っておかないとマスメディアから総攻撃を受けるのだから致し方ないことなのだろう。


一事が万事で、現代は総じて思ったことが言えない、言わない人間が増えたせいで何かにつけ閉塞感が漂い、内へ、内へと悩みを秘めていって、その挙句が自殺者、うつ病が増加の一途を辿っている。こういう世相は何とかならないものか。

そういう点からするとモーツァルトの”天真爛漫”はほんとうに時宜に合っている。こういうときこそ彼の作品に大いに親しんで悩みを吹き飛ばそうではありませんか!

最後に、1789年(33歳:亡くなる2年前)5月23日付けで妻「コンスタンツェ」に送った手紙を紹介しておこう。(133頁)

「・・ぼくのいとしい妻と一緒になれる!君の気持のいい”ねぐら”をきれいにととのえておいてくれ。この”小僧っ子”にはそれだけの値打ちが充分あるからね。

こいつは本当にとてもお行儀がよくて、君の一番きれいな〇〇しか欲しがらなかった。この”いたずらっ子”のことをちょっと想像してみたまえ。僕が書いている間、テーブルの上に顔を出して、ぼくの方をどうするんだとばかり眺めている。

ぼくは爪先で思いきりはじいてやった。ところがこの茶目は、ただ〇〇をして、このわんぱく者はいっそう燃え上がるばかりで抑えきれない。何百万回きみにキスする。きみの一番忠実な夫より。・・
・ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト」

あまりにも有名な手紙なのでご存知の方も多いことだろう。

最後にある「きみの一番忠実な夫」という言葉もどうやら信用が置けないそうですよ。 

やれやれ・・(笑)。

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