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筆者は、これまで何度か貨幣負債論(貨幣の本質は「信用=負債」である)の誤りを指摘し、貨幣負債論者の主張にも目を通してきたが、どうもピンとこない。

貨幣の本質が信用(“貨幣発行者である国家に対する信用”というのが筆者の見方)であるというのはよいが、そこから「貨幣=信用=負債」と結論づけるのは無理がありすぎる。

一般的に、金融機関が企業へ融資する行為を「与信(融資という信用枠を与える)」と呼ぶから、負債が信用の一形態なのは確かだが、その逆は必ずしも“真”ではない。
信用という言葉の意味には、契約や決済といった債権債務関係だけではなく、例えば、研究成果やモノの真贋等に対する信頼や評価といった意味合いも含まれるから、「信用=貨幣」と言い切るのは明らかに言い過ぎだ。

何よりも、貨幣負債論を証明するための説明材料が、何時までたっても「日銀の貸借対照表・古代メソポタミア文明の大福帳・ヤップ島の掛け取引」の三点セットから抜け出せないことにガッカリさせられる。

三点セットを使った貨幣負債論者の主張を順に紹介し、その矛盾点や誤りを指摘していく。

【主張①】
『日本銀行の貸借対照表を見ると、その負債の部の先頭に「発行銀行券(=日銀券=紙幣=貨幣)」が計上され、日本銀行(あるいは、統合政府)から見て、発行した「日本銀行券」は紛れもなく「負債」であるから、貨幣が負債であることは会計上正しい』

【指摘①】
・硬貨や紙幣といった法定貨幣(日銀法による強制通用力を含む)の発行元である政府や日銀は、そもそもバランスシートを作成する必要などない。仮に作成するとしても、紙幣を負債勘定に計上するのは明らかに誤りであり、紙幣発行益として資本の部に蓄積させるか、現金として資産勘定に計上すべき。日銀は発行した紙幣に対して、何の返済義務や清算義務も負っていない。現に日本政府の貸借対照表を見ると、政府が発行する硬貨(政府紙幣)は負債勘定のどこにも計上されておらず、貨幣造幣益という収入になる。貨幣負債論者は、紙幣(日銀券)と硬貨(政府紙幣)を区別せず、いずれの貨幣も負債であると言い張っているが、政府のB/Sを見れば、それが誤りであることが解る。

・日銀のB/Sの資産勘定には「現金(硬貨=政府紙幣)」や「国債」が計上されている。つまり、日銀券とほぼ同価値の硬貨や国債が「資産」として計上されている以上、日銀券(紙幣)のみを負債扱いするのは大いなる矛盾でしかなく、まったく説明がつかない。

・そもそも、会計上の資産勘定は、“貨幣に換金されるがゆえに資産性を認められている”のであり、“貨幣への換金確度が高い順”に並べられている以上、資産性の大元たる貨幣が負債であっては、話が根本から覆ってしまう。

【主張②】
『古代メソポタミアでは既に信用取引が一般的な決済方法だった。古代メソポタミアの民は、居酒屋の支払いを毎回ツケ払いしていた。その証拠に、古代メソポタミアから発掘された銘板にはこうした信用取引の記録が大量に残っている。この銘板を保有するということは、銘板に記載されている支払額と同額の資産を保有することになる。現代で言えば、企業の発行する約束手形が流通するようなもので、まさに、古代メソポタミアでは負債としての貨幣が流通していた、ということになる』

【指摘②】
・メソポタミア人の飲み屋のツケ払いメモが残っていたことを以って、信用取引が一般的だったと言い切るのはおかしい。我が国では現金決算が一般的で、クレジットカード利用率(消費に対するカード決済利用率)は17%ほどに過ぎないが、例えば、3000年後の人類が、JCBカードの利用明細を発見して、「いまから3000年前の日本では、既に現金決済が消滅し、毎回クレジット決済していた‼」と断言するようなものだ。メソポタミアの銘板は、たまたま残っていた飲み代のツケのメモ書きを見た者が、当時の信用取引の様子を誇張しただけだろう。

・信用取引を貨幣の負債性を証明する材料として持ち上げるのは、あまりにも不適切であり、それを以って「貨幣=負債」と決めつけるのも単なる早とちりだ。信用取引の存在は負債の概念の証明にはなるが、それを貨幣の負債性に転嫁するのは誤りだ。貨幣は、負債や債務の清算に使われた道具に過ぎず、負債そのものではない。特に、モノやサービスの品質や量が著しく低次元であった古代メソポタミア時代において、負債を清算する手段として、必ずしも貨幣を使う必要はなかったはずだ。むしろ、労役や小麦、オリーブの実、干し肉で払った方が喜ばれたかもしれぬ。貨幣は負債や債務を数量的に可視化するための単位やツールでしかなく、それを負債そのもののように勘違いしてはならない。

【主張③】
『ヤップの島民は魚、ヤシの実、ブタ、ナマコの取引から発生する債権と債務を帳簿につけていった。債権と債務は互いに相殺して決済をする。決済は一回の取引ごと、あるいは1日の終わり、一週間の終わりなどに行われる。決済後に残った差額は繰り越され、取引の相手が望めば、その価値に等しい通貨、つまりフェイを交換して決済される。彼らはフェイという代用貨幣を使って現代的な信用取引をしていた。負債と信用の関係から貨幣は生まれた』

【指摘③】
・繰り返しになるが、信用取引の存在は負債の概念を証明することができても、貨幣の負債性を証明する材料にはなりえない。ヤップの民が使ったフェイという代用貨幣は、信用取引の決済ツールとして使われただけ、つまり、債権債務の移動を記録するボールペンやノート代わりでしかなく、負債性を証明するものではない。それを証拠に、決済に使われたフェイは相手側に渡されることなく庭先に放置されたままだったというではないか。貨幣(ここではフェイ)が負債なら、決済行為という資産と負債の交換が行われると同時に相手側に移動していてしかるべきだ。

・そもそも、主要な生産物が魚、ヤシの実、ブタ、ナマコの4つしかない社会なら、それらが貨幣以上に貴重な“資産”となり、貨幣の存在などほぼ不要になるはず。では、ヤシの実が資産だとして、その対岸にある負債とは何なのか?実をつけていないヤシの木を負債と呼ぶべきなのか?貨幣負債論者は、万物との交換価値を持つ貨幣を最高の資産だと位置づける代わりに、貨幣の資産性を根拠づけるために発行元(政府や日銀)に貨幣の負債性を負わせようとする。しかし、それは、モノやサービスが有り余る高度な文明社会でしか通じない言葉遊びの類いでしかなく、貨幣が何の通用力も持たない荒野や砂漠、大雪原、無人島では、資産も負債もクソもない。そこでは食料や水こそが唯一の資産であるが、その資産性の根拠となる対義語を探しても何も見つからない。貨幣で買えるモノやサービスがいくらでもあれば、「貨幣は資産。誰かの資産は誰かの負債だから、貨幣は発行元の負債だ」なんて呑気な言葉遊びもしていられるが、いくら貨幣があってもそれで何も買えないような荒涼たる社会では、そんなへ理屈は通用しない。

・貨幣は負債と信用との関係から生まれたのではない。交易の利便性を高め、経済発展の基盤を創ろうとする強い意志を持つ国家と国民の信頼関係から生まれたのだ。

【主張④】
『ハイマン・ミンスキーは、「誰でも貨幣を創造できる。問題はその貨幣を受け入れさせることにある」と述べた。これは「誰でも負債(借用証書)を創造できる」「問題はその負債(借用証書)を受け入れさせることにある」と言い換えることができる。企業は手形という借用証書を発行できるし、個人でも小切手という借用証書を発行することができる』

【指摘④】
・我が国において、個人で当座預金口座を開設し、小切手(パーソナルチェック)を切れる者はほとんどいない。もともと少なかったのが、クレジットカードの普及もあって、パーソナルチェックを見かけることはまずない。そんなものを貰っても、受け取った方はどこに持ち込めばよいか知らない(銀行の窓口に持ち込めば現金化は可能)し、小売店や飲食店でパーソナルチェックを出しても、100%受け取りを拒否られるだろう。また、手形の使用も激減しており、2017年の手形流通量は374兆円と1990年のピーク時の4797兆円と比べて8%未満にまで落ち込んでいる。つまり、負債=借用証書の創造ニーズは墜落寸前にまで消滅しつつある。

・先のヤップ島の話でも、貨幣を信用取引の帳尻決済にしか使っていなかった様子が窺えるが、これこそが信用取引と貨幣の負債性を強引に結合させたがる貨幣負債論の限界なのだ。貨幣の役割を信用取引の清算システムに矮小化する発想から抜け出せず、生産活動を高度化するための貴重な資産として理解する努力を怠ったばかりに、貨幣が十分に活用されず経済の発展が妨げられてきたのだ。ヤップ島がいまだにタロ芋や漁業頼みの低次産業に止まっているのは、貨幣を掛け売りやツケ払いの清算に利用するだけで、生産力の高度化や経済発展の糧として活用する発想が抜け落ちているからにほかならない。真の国富と呼べるのは生産力やそれを支える技術力、労働力であり、貨幣を国富増強に資する国民全体の富や資産だと理解せぬ限り、先進国とはなりえない。


貨幣負債論者にアドバイスしておくとすれば、信用取引や金融市場の信用創造論を以って貨幣負債説を説明するのは無駄だということだ。
それらは、負債の諸形態を説明できても、貨幣が負債であるという証明には役立たない。

また、「貨幣は発行者にとって負債、保有者にとっては資産というのは、MMTにおいては定義になっている」という説明もいい加減すぎる。

MMTの貨幣負債論に疑問を抱く者は、定義云々以前に、なぜ貨幣が負債なのか、貨幣が負債なら政府は何を以ってその債務を清算するのかと問うているのに、その点を何も説明せず、いきなり“貨幣が政府の負債なのは定義なのです”と結論だけ述べても、誰の理解も得られまい。

貨幣負債論を唯一証明できる方法はただ一つだけ、『政府や中央銀行は、貨幣という負債を誰に対して、何時までに、何を以って返済(清算)すべきなのか』という疑問に対して、箇条書きで具体的に答えることだ。

“貨幣は返済義務のない特殊な負債”というセリフではまったく回答というレベルに達していない。

負債に特殊もクソもなく、負債は負債(金銭的な返済義務を負う債務)である。
一般的な国民が理解できぬ特殊な言葉の定義を乱用するのは、理の通った説明から逃げようとする詭弁と非難されても仕方あるまい。

“特殊な負債”という理解不能な言い回しは、そこいらの国民には通用しない。
永遠に負債を拡大できるという説明は国債の説明としてはOKだが、そもそも負債ではない貨幣の説明としては不適切だ。

特殊というなら、一般的な負債とどこが違うのか、解りやすい言葉で具体的に説明すべきだ。
もし、それが“返済義務を負わない”という意味なら、もうそれは「負債」ではない。
何か別の修飾語を探してくるべきだ。

政府にとって、国債は間違いなく負債だが、貨幣は国民にモノやサービスの購買力を与え、それが国全体の生産力や付加価値をUPさせ、供給力の高度化を通じて国民生活をより豊かにし、労働の質の向上にもつながる。
そして、国家と国民とはイコールの関係にあるから、貨幣は国債とは異なり、国民にとっても国家にとっても、あきらかに「資産」なのだ。

緊縮派に同調して経済をシュリンクさせたいなら、貨幣を負債だと言い張っても構わぬが、貨幣負債論は「貨幣=政府の負債=国民負担で補填すべき債務」というネガティブイメージを払拭できず、緊縮主義者による「国債は自分たちの借金=財政再建のためなら増税もやむなし」という誤ったメッセージにお墨付きを与えるだけに終わるだろう。