米国発のMMT(現代貨幣論、現代金融論)論争が日本国内に飛び火しつつあるようだ。

 

以前にも何度か触れたが、筆者のMMTに対する評価は次のとおりだ。

①通貨発行権に基づく政府支出(国債増発)の無限性と、それによる社会的課題のスピーディーな解決を訴える部分は大いに賛同する(筆者の従前からの主張とも一致するため)

②ただし、MMT論者が陥りがちな「貨幣負債論や「租税貨幣論といった書生論は、現実を説明できず緊縮主義者をアシストするだけのゴミくず論でしかない

 

MMT論争によって、「財政均衡は絶対的真理」、「財政赤字は次世代へのツケ回し」、「財政赤字解消のためなら、国民は負担増や貧困化を受け容れるべしという誤った常識に対する疑念が拡がり、経済常識のパラダイムシフトが惹起されるきっかけになることを大いに期待している

 

筆者は、MMT理論自体やそれを支持する論者を擁護する気はないが、MMT云々よりも、その主要なエッセンスである“積極財政の継続的実行による社会的問題の解決”を一日でも早く実現するために積極財政策に対し低脳かつ幼稚な論拠で誹謗中傷を浴びせるバカ者を厳しく批判しておこう

 

MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!』(東洋経済ONLINE 森田 長太郎 : SMBC日興証券 チーフ金利ストラテジスト)

https://toyokeizai.net/articles/-/275326

「財政赤字の積極的な拡大を推奨する「現代金融理論(MMT、Modern Monetary Theory)」をめぐり、米国では経済学者たちがメディアを巻き込み、論争を展開している。その論争の内容は、われわれ日本人にとっては失笑を禁じえないところがある。(略)

MMTを主張する経済学者たちは、経済学コミュニティにおいては少数派だ。批判する経済学者のほうが数も多いうえ、地位や名声もはるかに高い。この数カ月間で、ポール・クルーグマン、ラリー・サマーズ、ケネス・ロゴフといったそうそうたる面々がMMTを批判する議論を展開しており、ジェローム・パウエルFRB(米国連邦準備制度理事会)議長や黒田東彦日本銀行総裁をはじめ現役の中央銀行幹部も批判の弁を述べている。メディアはこの論争を「主流派経済学 vs 非主流派経済学」という描き方で盛り上げている。

 

クルーグマン、サマーズ、ロゴフパウエルといった錚々たる面々が、揃いも揃ってMMT批判派に回ったのを見ると、彼らがたまに財政政策の有用性を口にするのは、それがもたらす経済効果を信じてのことではなく、ただ単に、持説の実効性に陰りが生じた際の便利な拠り所として利用しただけだったのが判る。

 

要は、高名な彼らといえども所詮は旧来の経済概念に縛られた書生論者であり、ポンコツなリフレ派の連中と同じく、「我々は財政政策を否定しているわけではない(ウソ)、困ったときだけ摺り寄ってくる役立たずでしかなかったというだけのことだろう。

 

さて、森田氏はコラムの中で、MMT論争は日本における「極論を主張するリフレ派に対して正論を述べる反リフレ派論者」の対立構図と同じで、どちらもくだらないと述べている

 

現実離れした金融政策万能論に囚われていたリフレ派の馬鹿さ加減は言うまでもないが、それを叩いていた反リフレ派が二通り存在していたことを意図的に隠すのはいただけない。

 

彼は、国債膨張を嫌悪する緊縮財政派の連中を指して「正論を述べる反リフレ論者」と定義づけしたいようだが、はっきり言って、国債縮小や歳出削減にしか興味を持てない緊縮財政派は、正論どころか、愚鈍さ加減で比べるとリフレ派より遥かに質が悪い。

 

長引く平成不況の主因は、誰の目で見ても、緊縮政策がもたらした所得低下と需要不足のせいであり、その罪深さたるや、リフレ派の幼稚な金融政策万能論の層倍にも当たる。

 

金融緩和が実質金利の低下をもたらし投資や消費が活性化するというリフレ派のお花畑論の過ちや愚かさを、正論を以って指摘し批判してきたのは積極財政金融論者である。

 

緊縮財政派のバカどもによるリフレ批判は、日銀の既発債買取が財政規律を弛緩させるという大嘘ばかり(実際に財政規律は弛緩するどころか緊縮性を持続している)で、不況に対する危機感が著しく欠如し、時代錯誤も甚だしい極論や壮大なる勘違いに基づくものであり、それこそ「詐欺師と守銭奴の罵り合い」でしかなかった。

 

森田氏は、「誰かの負債は必ず誰かの資産」という点こMMT理論の本質だと説明する。

 

これは、積極財政を主張する論者も好んで使う定理だが、あくまで数ある定理の一つであり、唯一無二の存在とまでは言えないことを忘れてはならない。

 

負債と資産が対の関係にあるのは紛れもない事実だがこの世の商取引や資金のやり取りのすべてが「債権・債務資産・負債」の関係にあるわけではない。

 

MMT論者の中には、日銀券を負債勘定に計上する日銀の似非バランスシートを信じ込み、この世には“借りた金と返す金、負債と資産しかない”かのような妄想に囚われた者もいるが、GDPの主軸である消費基本的に行ったきりの資金のやり取りであり、そこで使われる貨幣が負債性を帯びることはない。

 

積極的な財政金融政策の重要性を説く論者の目的が、貨幣に負債性という偽の衣を纏わせることであってはなるまい。

積極財政論の本質は、債権・債務の均衡論を吹聴し、貨幣の正体を暴いて満足することではなく、貨幣という国民全体の資産をフル活用し、国民生活の向上を阻害する社会的課題を可及的速やかに解決する道を切り開くことにあるはずだ。

 

MMT論者がありもしない貨幣負債論や租税貨幣論に固執し、経世済民の基本を忘れ、積極財政の実行をなおざりにし、貨幣が負債であることの証明に血道を上げる体たらくでは、早晩、MMT理論の幹は腐敗し、失速を余儀なくされるだろう。

 

国民が求めているのは、重苦しい不況を切り払ってくれる経済思想や経済政策であり、貨幣を負債と言い張る頓珍漢な書生論を聞きたいわけではない。

 

「誰かの負債は誰かの資産」であり、「政府の負債は国民の資産」である。

だが、それ国債発行の延長線上にある取引にのみ通じる定理であり、国家(国民)の大権たる通貨発行権にまでは及ぶものではない。

 

政府の負債(国債)が国民の資産たり得るのは、国債という負債を100%償還できる財源、つまり、通貨発行権の存在によって保証されているからにほかならない。

そして、通貨発行権の存在もまた、国民の労働力や生産力という国富によって支えられている。

 

国富(膨大な消費需要に対応するために国家が有する生産力や供給力、技術力、サービス提供力)という容れ物を強靭化し、その容量を拡大し続けることで、需要の源泉たる貨幣発行量もまた無限に拡大する。

 

森田氏はコラムの後段で、

「財政赤字を出して国債発行を行っても、民間資産の増加も伴うため誰の負担にもならない」というMMTの理屈はウソだ

ムダな公共事業に資金を費やすようなことが平気で行われると、簿価評価の政府負債(国債)に対して時価評価の資産(公的インフラなどの政府資産)が大幅に毀損し、誰かの借金は誰かの資産ではなくなってしまう

と述べ、MMTの財政赤字拡大論を牽制している。

 

バランスシートの資産勘定の毀損をネタにした反MMT論が出てくるのは、MMT支持者、とりわけ国内のMMT論者が陥りがちな「バランスシート重視型の貨幣負債論への異常な拘りがもたらした弊害や欠点だと、常々危惧している。

 

貨幣の資産性を無視して、いたずらに負債だと言い張っていると、バランスシートの資産勘定に傷が生じた際に、それをカバーする論理の組み立てが難しくなってしまう。

 

森田氏の間抜けな指摘に対しては、「公共事業により政府支出が行われ、それが民間経済主体の所得として移転したという事実がある以上、一片の無駄も生じていない。政府がお金を使った時点で民間の財布は膨らむ。現実に生じたのは、公的支出が民間経済に収益をもたらし、技術革新や就業スキルの継承、雇用創出をといったメリットだけ整備した箱モノの利用者が少ない云々は利用ニーズに合うよう設計の段階で議論すべき問題であり、政府支出を縮小する言い訳にはならない。無駄な支出が嫌なら、無駄でない同額以上の支出ネタを考えてこい‼」と言い返しておけばよい。

 

隙あらば“公共事業は無駄だ、政府は金を使うな”と財布の紐を締めたがる守銭奴を付け上がらせぬためにも、MMT支持者は、貨幣負債論みたいなツッコミどころ満載で揚げ足を取られやすいポンコツ論とは手を切るべきだ。

 

正直言って、貨幣負債論の理論構成は、やたらと複雑な割に穴や矛盾が多すぎ、国民の支持を得られる可能性はまったくない。

 

こんなくだらぬ理論に固執して、せっかく盛り上がりつつある積極財政やMMT論議の火を消すような愚を犯してはならない。


政治ランキング