ところが「此の身を認めて、自分だと思っているもの(自我)」がそういう
「純粋な働き」をしているものの邪魔をするのです。
そのために「素直に見えている(これから素直に見ようと思うのではありません、
すでに素直に見えているのです)もの」をわざわざ「私の都合に因って」
という見方をするのです。
これはそのものの働き以外のものです。
ものと自分との間にわざわざ「素直」などという邪魔をするものをつくって、
見たり聞いたりするために構える姿勢が出て来てしまう訳です。
そして、次から次へと「素直に受け入れよう」という考えを巡らしてしまう
のが私たち衆生の日常生活の実態なのです。