「80年代の吉川晃司」②~1985 リゾートからアーバンロックで快進撃~紅白事件!

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今回は、80年代の吉川晃司さん その②~1985(昭和60)年編です。

>①1984年編はコチラ


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●初の武道館公演、オリコン1位を獲得

 

デビュー2年目の吉川晃司さんは前年の勢いそのままに、1月に「デビュー1年目で史上2人目」の日本武道館公演「LIVE for Rockfeeling Kids in BUDOKAN」を開催(ちなみに1人目は原田真二さん)。

 

この際、吉川さんの「武道館は通過点だ」といった発言が会場側の逆鱗に触れ、おまけにもともと武道場であり制限が厳しいことで知られる会場。なのですが、ご本人曰く「客席に降りて、走り回ったらダメとか言われてることを、みんなやってしまった(笑)」ために、この後、しばらくの間「出入り禁止」となってしまいました。

 

そして、続く第4作目のシングルで初のオリコン1位を獲得します。

4thシングル「You Gotta Chance 〜ダンスで夏を抱きしめて〜」1985.1.11 1位 作詞:麻生圭子/作曲:NOBODY/編曲:大村雅朗

 

この楽曲は2本目の主役映画の主題歌にもなり、スタインバーガーモデルのギターを弾きながら唄うスタイルで、さらに人気が加速します。

 

>主演第2作映画「ユー・ガッタ・チャンス」はコチラ

 


●「PATI PATI」の時代

 

チェッカーズ、吉川晃司の登場は、音楽雑誌にも変化をもたらしました。

 

70年代からTVに出ないニューミュージックのアーティストを取り上げ、No.1の売上を誇った「ギターブックGB」(ちなみにこの”アーティスト”なるワーディングもこの雑誌が発祥)。しかし、チェッカーズや吉川晃司は”アイドル”として取り上げられませんでした。

 

そこで、”アイドルだろうとイロモノだろうと、ロック的なら取り上げる”という方針で1984(昭和59)年に創刊されたのが「PATi PATi」(ソニー出版)でした。創刊当時の目玉はチェッカーズ、吉川晃司、尾崎豊

 

判型の大きなカラーグラビアで大人気となり、1985(昭和60)年頃から発行部数も右肩上がりに。C-CーB、大江千里、大沢誉志幸、佐野元春、HOUND DOG、渡辺美里、東西南北、ブレイク直前のレベッカ、BOOWY、 バービーボーイズ、TMネットワーク、プリンセスプリンセス、まだ”ソニー三大色物バンド”と呼ばれていた時期の米米クラブ、爆風スランプ、聖飢魔IIなど数多くのアーティストを取り上げ、アイドル歌謡曲全盛期の従来のアイドル雑誌「明星」「平凡」を上回る人気を博すようになりました。

 

80年代後半には「PATi PATi Rock’n Roll」「PATi PATi読本」などの派生誌が生まれ、バンドブームを牽引するメディアの一大潮流になりました。

>「80年代第二次バンドブームの真実」はコチラ!

 


 

●西海岸サウンドから東海岸、アーバンロックへ移行

3rdアルバム「INNOCENT SKY」1985.3.30 1位 22万枚

1.心の闇(ハローダークネス)/2.Gimme One Good Night/3.スリルなモナリザ/4.サイレント シンデレラ/5.別の夢、別の夏/6.Lady Baby/7.in a sentimental mood/8.雨上がりの非常階段/9.INNOCENT SKY

 

サウンド面ではこの3作目のアルバムから、アレンジャーを後藤次利さんが務め、初期に大村雅明さんが築いた西海岸リゾートロックから、東海岸、ニューヨークを意識したアーバンロックへと変遷します。本作ではプリンスの「Purple Rain」、イエスの「Lonely Heart」などにインスパイアされた楽曲が収録されています。

 

作曲陣はこれまでの原田真二さん、大沢誉志幸さん、佐藤健さん、NOBODY後藤次利さんが加わり、作詞陣は安藤秀樹さんに松本一起さんが加わり、初の自作詩曲も収録。参加ミュージシャンはベースに後藤次利さん&ドラムス山木秀夫さんコンビが初参加。ギターは今剛さんにゲストでCharさん(「9.INNOCENT SKY」のソロ)が参加しています。キーボードは富樫春生さん、中村哲さん、サックスに矢口博康さん、そして コンピュータプログラミングに松武秀樹さん。佐藤健さんの妻である大橋純子さんがコーラスで参加している点も密かなポイントです。

 


 

●NOBODY

 

かつて矢沢永吉さんのバックメンバーを担当していた相沢行夫さんと木原敏雄さんの2名で構成するユニット。

 

「モニカ」以降、「サヨナラは八月のララバイ」「You Gotta Chance 〜ダンスで夏を抱きしめて〜」「にくまれそうなNEWフェイス」のシングル、アルバムでは 「彼女はアイスウォーター」「「ハートショット」(1st)「Border Line」(2nd)「雨上がりの非常階段」(3rd)など、夏&リゾートの香りのする名曲を数々手がけました。

 

1985(昭和60)年にリリースした12インチミニアルバム「モノクロームの夏」では「モニカ」「サヨナラは八月のララバイ」を英語詩によりセルフカバーしています。

 


●松本一起さん

 

このアルバムで5曲(「スリルなモナリザ」「サイレント シンデレラ」「Lady Baby」「雨上がりの非常階段」 「INNOCENT SKY」 )の作詞を手掛けたのが松本一起さん。

 

1982年に早見優さんのデビュー曲「急いで!初恋」などを手掛けていましたが吉川晃司さんの楽曲で注目を浴び、その後、中森明菜さん「ジプシー・クイーン」「Fin」、鈴木雅之さん 「ガラス越しに消えた夏」、田原俊彦さん「It’s BAD」、池田聡さん「モノクローム・ヴィーナス」、Class「夏の日の1993」などで一躍、売れっ子作詞家となりました。

 


●2作連続チャート1位

5thシングル「にくまれそうなNEWフェイス」1985.4.23 1位 作詞:安藤秀樹/作曲:NOBODY/編曲:後藤次利

 

 

続くシングルはカネボウの化粧品CMタイアップソング。2作連続で連続1位を獲得し、濃いメイクにBADAのサングラス、付け毛に黒いタンクトップのスタイルでTV歌番組を席巻します。歌唱法も変え、デヴイッド ボウイ的な低音のベルカント唱法を駆使し始めます。マンガ「TO-Y」の哀川陽司や、世間的に”「モノマネ」される吉川晃司”はこの時のイメージなんですかね。

 

「ニューフェイス」はかつての日活の男性銀幕スターの呼び名。歌詞では女性になぞらえていますが「にくまれそうなNEWファイス」とは、生意気で派手で、目立って仕方がない吉川晃司さんのことを示唆しているのは明らかですね。そして、ここでも一部ベテラン業界人の間で吉川晃司=”日活 小林旭の再来”的なイメージがあったことが伺えます。

 


●’85 JAPAN TOUR

 

そしてこの年、全国65か所にも及ぶ長期の全国ツアーを行います。その名も”JAPAN TOUR”。「子供バンド」のうじきつよしさんがサポートギタリストとして参戦しました。うじきさんは本来ボーカル&ギタリスト。勝手に大声でコーラスしまくるのでツアー途中から「オレのコーラスマイクが失くされた!」と憤慨してました(そして他メンバーのマイクで大声で勝手にコーラスしてました(笑))

 

そして、ほとんど知られていませんがこのツアー中、「’85 K.KIKKAWA SUMMER ROCK FESTIVAL」と銘打って、名うての先輩ロックミュージシャンとの”対バン”イベントも行っています。

 

7/31 vs HOUND DOG 札幌真駒内オープンスタジアム
8/3 vs NOBODY/伊藤銀次/バービーボーイズ 大阪城公園・北の丸広場
8/6 vs 山下久美子 名古屋城深井丸広場
8/9 vs 爆風スランプ 岡山市総合文化体育館
8/11 vs 本田恭章 福岡国際センター

 

私はこの福岡公園が、初の生観戦でした。いまでこそロックフェスにアイドルが出演、というのも珍しくなくなりましたがこの当時、人気絶頂のアイドルとロックミュージシャンとの対バン公演は、常識破りで画期的でした。

 

本人としては”そこいらのロックバンドには負けないツアーをやってる”という自負もあり、どの会場会場は女子中高生の吉川ファンで埋め尽くされました。当時、上記のロックアーティストですら、大会場を埋めるほどの知名度も集客力もない時期なのです。

 

ロック系の音楽関係者に”ミュージシャン吉川晃司”の存在感を示すと共に、ティーンエージャーの彼女たちにロックアーティストの認知を広げ、ロックコンサートの楽しみを初体験させる、という点で、その意義は大きかったと思います。

 

本線のツアーファイナルはコンサートでは初使用となる立川・昭和記念公園。屋外会場に4万人の大観衆を集めました。

 


●”パワーステーション サウンド”

6thシングル「RAIN-DANCEがきこえる」1985.9.25 2位 作詞:安藤秀樹/作曲:佐藤健/編曲:後藤次利

 

 

続く6作目のシングルは、ご本人も「ターニングポイント」と語る楽曲。そのサウンドは重低音、ゲートリバーブの効いた当時流行の”パワーステーション サウンド”。この楽曲が”アイドル歌手のシングル”としてリリースされたインパクトは、これ以降のアイドル歌謡を一変させる程でした。

そしてもう一つの重要なポイントが、本作からギターにBOØWYの布袋寅泰さんが初参加、となった点です。この時点でのBOØWYおよび布袋さんの知名度はまだまだで、世間一般的には「山下久美子さんの旦那」程度の認知でした。

 

この楽曲は

1985.11.5 12インチシングル「Can’t you hear the RAIN-DANCE」

 

としてロングバージョンが発表され、ここからサウンド面で洋楽・ロック嗜好が加速的に色濃くなっていきます。

 


●アンルイスさんとの「夜ヒット 六本木心中」事件

 

ナベプロの先輩、アンルイスさんもデビュー以来、関連が深いアーティストです。アンさんの吉川さんの第一印象は「スカした態度のデカい、ヤなヤツ!」だったそうですが、話してみると「体育会系で素直でカワイイとこあんじゃん」と「姉弟のような関係」だったとか(吉川さんは「もっぱら運転手させられた(笑)」と語っています)。

 

1985年10月2日放送のフジテレビ「夜のヒットスタジオDELUXE」で「六本木心中」の歌唱中に途中から吉川さんを呼び寄せ、艶っぽい過激なコラボレーションで大騒ぎに。いまでも動画サイトでたびたび、話題になっています。

 

作詞の湯川れい子さん曰く、この「六本木心中」と「あゝ無情」のモデルはいずれも吉川晃司さんで、「あゝ無情」のサビ「サングラス外したら吹き出しちゃうほどあどけない目をしてる」は、「そんな年下の男に、艶っぽくて気風のいいアンちゃんを立ち向かわせた形でした」とのこと。

 


●紅白ギター炎上事件

 

そしてこの年の大晦日、かの有名な大事件が起こります。紅白歌合戦初出場となる吉川晃司さんは、白組のトップバッターであるにも関わらず全身真っ赤なスーツで登場。シャンパンをまき散らし、「センターステージに出るのはギターとベースだけ」という事前の指示を無視してバンドメンバーと共にステージを占拠、段取り無視でステージを飛び降り、カメラマンを慌てさせます。

 

そして挙句にエンディングでギターに火をつけてクラッシュする、という”ジミヘン パフォーマンス”をぶちかまし・・・続く紅組の河合奈保子さんの歌いだしが飛ぶ、という「放送事故」に。

年末の国民的イベント、かつ厳しいタイムテーブルで進行しなければならない大舞台での事前打ち合わせ完全無視の”大暴れ”にNHKは大激怒(特にステージで火気を無断使用した点が警察、消防からも問題視され大事件に)。年明けのスポーツ新聞や週刊誌には「吉川土下座」「NHK追放」などの見出しが躍り、以降、吉川晃司さんは十数年に渡って「NHK出入り禁止」となった・・・

 

・・・と言うのが定説ですが、実は翌年1月の成人式のイベントで、吉川晃司さんはNHKホールからの生中継に参加しています(おそらく紅白事件前に参加が確定していて、変更できなかったのでしょうね)。しかもこの際は皇族が臨席するという緊迫の催し。NHKとしてはまた何かやらかされたら、という不安から控室に私服警官を張り付け、ご本人曰く「思いっきり危険人物扱い」だったそうで・・・

 

ちなみにこの時は、異様な緊張感の中で(笑)アコギを持ちバラード「INNOCENT SKY」を熱唱しました。

 

③1986年編に続きます!

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