追悼 暴走戦士「ザ ロード ウォリアーズ」

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2020年9月22日、プロレスラーのアニマル ウォーリアーさんが亡くなりました(享年60歳)。相棒のホークさんも2003年にお亡くなりになっていますので、ロードウォリアーズのお二方共に、鬼籍に入られたことになります。

今回は追悼も込めて、昭和レジェンド プロレスラー列伝「ザ ロードウォリアーズ」をご紹介します。

 

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●20世紀最後の「まだ見ぬ強豪」

 

80年代後半、プロレス界に突如出現した超ド級のタッグチーム、それが「ザ ロードウォリアーズ」でした。

 

「一人前になるには10年かかる」と言われるプロレス界の常識を覆し、ポッと出のド新人が連戦連勝。それもあっという間に試合を終わらせる「秒殺」という異例のスタイルでした。

 

そして、プロレスを知らない人が見ても一目でわかる「悪くて強そう」なド派手なルックスは、数多くのフォロワーを生みました。

 

60年代、70年代ならいざしらず、ある程度は情報網が整い世界中のプロレス ニュースが手に入る80年代の後半、中でも「プロレス先進国」の日本ではないところで突如現れた彼らは、日本のプロレスファンが久々に初来日を待望する「まだ見ぬ強豪」でした。

 

●「世界のプロレス 」発のスター

 

日本のプロレスファンがロードウォリアーズの存在を知ったのは、当時テレビ東京で放送されていた「世界のプロレス」という番組でした。

主にアメリカのNWA、AWA、CWA、MSWA、そしてメキシコのルチャリブレなど海外マットの試合映像に日本語の実況、解説付きで放送されたこの番組。ロードウォリアーズは別格の存在感でした。

 

マネージャーのポール エラリングが「スカウトした時、コイツらはシカゴのスラム街でゴミ箱を漁っていた。飢えてたコイツらは血のしたたる生ネズミを喰らっていた。のし上がるためなら人殺しだって平気でやるんだ」と吠えると、彼らは「いいか日本人、オレたちの前に立つなよ。死ぬことになるぜ!」と暴力的な筋肉をアピール。

 

ウォリアーズは時にスタジオを破壊して屋外に飛び出し、走行中のクルマを強引に止めて破壊し、タバスコを一気飲みしたりとやりたい放題。

 

完全にこの番組は彼らのプロモーションビデオでした。

 

●「ザ ロードウォリアーズ」とは何者なのか

 

ザ ロードウォリアーズとは、ホーク ウォリアー(191cm 125kg)とアニマル ウォリアー(189cm 135kg)のタッグチームに、マネージャーのポール エラリングを加えたユニット。

ホーク ウォリアーは本名はマイク ヘグストランド、1957(昭和32)年9月12日アメリカ ミネソタ州ミネアポリス生まれ。

 

アニマル ウォリアーは本名はジョー ロウリネイティス、1960(昭和35)年1月26日アメリカ ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。

ホークは高校を卒業後バーで用心棒を務め、ジェシー ベンジュラ ジムでトレーニングしていました。ちなみにスコット ノートンは幼馴染です。アニマルは高校卒業後、大学に進学するも中退。ホークとはボディービル仲間でした。

 

ホークは1983(昭和58)年、カナダのインディー団体でデビューするも馴染めず、ミネアポリスに戻って来ます。一方のアニマルも1982(昭和57)年にノースカロライナでデビューするも、こちらも馴染めずにミネアポリスにやって来ました。アニマルはプロレスを辞めて大学に入り直し、アメリカンフットボールをやるつもりだったといいます。

そんな時、2人はNWAのブッカーで新人レスラーを発掘しようとしていたオレイ アンダーソンと巡り合います。ジョージア州アトランタでタッグチームを組むことになった2人は、南部ジョージアのローカル団体“ジョージア チャンピオンシップレスリング”にブッキングされます。

 

こうして1983(昭和58)年6月、ザ ロードウォリアーズが誕生しました。

 

結成当初のコスチュームはサングラスにレザーのベストや制帽を身に付けた暴走族スタイル。

やがて両者とも顔にペイントし、頭髪をモヒカン刈りと逆モヒカン刈りにして、巨大な棘の付いたアメリカンフットボールのプロテクターがトレードマークになりました。

ロードウォリアーズというチーム名は、1981(昭和56)年公開の映画「マッドマックス2 ザ ロード ウォリアー」からインスパイアされたもので、名付け親はマネージャーのポールだったのだとか。

 

そして特筆すべきは試合スタイルです。

 

場内にブラックサバスの「アイアンマン」が流れると、猛ダッシュで入場してサードロープの下から滑り込むようにリングイン。コールも受けずにそのまま一方的に暴れ回り、頭上高く相手をリフトアップして後はひたすら殴る蹴る。短時間で相手を「秒殺」、もしくは「暴走しての反則負け」。

 

「ヒール」のポジションにありながら凶器攻撃など悪どいことはせず、圧倒的なパワーで相手をなぎ倒す彼らは次第にファンの支持を獲得し、それまでにないヒールとベビーフェイスを融合させた、新しいポジションを確立しました。

 

過去のキャリアや本名などを一切明かさず「突然現れた」彼らは、あっという間にアメリカマット界のドル箱レスラーに登りつめた背景には、全米にケーブルテレビが浸透し始め、ファン層も入れ替わる時期だった事もありました。退屈な日常に不満を持つ若いファンたちが、“常識ハズレ“な彼らを圧倒的に支持したのです。

 

NWAエリアでナショナルタッグ王座を3度戴冠したウォリアーズは、1984(昭和59)年にAWAに移籍。同年8月にAWA世界タッグ王者となります。

 

遠く離れた日本の「世界のプロレス」で話題になったのは、この頃でした。

 

●全日本プロレスに待望の初上陸

 

プロレス界にはいくつもの名タッグチームがいました。古くはディック ザ ブルーザーとクラッシャー リソワスキーの“ブルクラ“コンビ、ディック マードックとダスティ ローデスの“テキサス アウトローズ“、そしてこの当時はスタンハンセン、ブルーザー ブロディの“超獣コンビ“が「最強」と言われていました。

 

ロードウォーリアーズは、彼らに対抗できるタッグチームとして注目を集め、1985(昭和60)年3月、ついに待望の初来日が決まります。獲得したのは長州らジャパンプロレス勢が加わり勢いを得ていた全日本プロレスでした。

1985年3月7日、成田空港に降り立ったホークとアニマルは、50人を超すプレスの出迎えを受け、空港内のVIPルームで大々的に記者会見。

 

翌日の来日第1戦、千葉 船橋大会ではキラーカーン&アニマル浜口と対戦し、圧勝。

 

そして両国国技館ではジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビといきなり頂上対決。インタータッグに挑戦しました。

 

その後も何度も来日し、鶴田、天龍、長州、谷津らと激闘を繰り広げました。

 

1987(昭和62)年3月にはジャンボ鶴田&天龍源一郎を破り、インターナショナルタッグ王座を獲得しています。

ちなみに天龍が鶴龍タッグの解消を決意したのが、他でもないウォーリアーズ戦だったのだとか(86年6月の高松での試合後、ホークに敗れた天龍に鶴田が「ほらほら、いつまでも寝てないで起きて!」と髪を引っ張って起こそうとしたことに激怒、「金輪際こんなヤツのお守りをするのはイヤだ」と思ったと述懐)。

 

…にしても、ウォーリアーズ相手にラリアットで打ち勝ってしまう鶴田って…(笑)

 

●「世界一ギャラの高いタッグチーム」

 

全米でもロードウォーリアーズは、破竹の快進撃を続けます。

 

1986(昭和61)年4月、タッグチームトーナメント 「ジム クロケット カップ」優勝。

 

1988(昭和64)年10月、NWA世界タッグ王座を獲得。

 

1989(平成元)年12月、スターケード タッグリーグ戦優勝。

いつしかウォリアーズは「世界一ギャラの高いタッグチーム」となり(時給換算なら、さらに高効率 笑)、時のNWA世界王者よりも高いギャラでのオファーが殺到しました。

 

この人気ブリに、まんまパクリのコンセプトタッグがあちこちに出現します。デモリッション(アックス&スマッシュ)、パワーズ オブ ペイン(バーバリアン&ウォーロード)、ブレードランナーズ(ロック&スティング)…etc. それだけ彼らは“特別な存在“だったということでしょう。

 

●必殺技「ダブルインパクト」

 

ウォリアーズの必殺技と言えば、「ダブル インパクト」。アニマルが相手を肩車して、ホークがダイビング ラリアットで撃墜する合体技で、アメリカでは「ドゥームズ デイ デバイス」と呼ばれます。

実はこの技は日本でヒントを得て生まれた、とアニマルが語っています。

「全日本プロレスのツアーに参戦した時、ブリティッシュ ブルドッグス(ダイナマイトキッド&デイビーボーイスミス)のエレクトリックチェアドロップ(肩車式バックドロップ)を見て思いついた。それで全日プロの中堅相手のテレビマッチで試し斬りした。相手は誰だか忘れてしまったが(笑)」

 

●WWF進出、「リージョン オブ ドゥーム(LOD)」に改名

 

1990(平成2)年8月、ロードウォリアーズは世界一のプロレス団体WWF(現WWE)に登場。チーム名は「リージョン オブ ドゥーム(LOD)」に改名されました。

1991(平成3)年「サマースラム」でナスティボーイズから世界タッグチーム王座を奪取。

これで彼らは史上唯一、NWA、AWA、WWFのタッグ王座を獲得したタッグチームとなりました。しかし、年間250試合、世界中を遠征するハードスケジュールは、2人の関係性をおかしくしてしまいます。

 

WWFからの離脱を求めるホークと、残留を希望するアニマルの意見が衝突し、ホークには引退のウワサもささやかれていました。

 

そして1992(平成4)年8月、彼らはタッグチームを解消。約9年間の共闘に終止符が打ちました。

 

正直、LODになってからの彼らには、あまり良い印象がありません。そもそもが「圧倒的に勝つ」しかないスタイルのため一進一退の名勝負ができないのですが、WWF参戦からはさらに大味になり、周りも派手なレスラーだらけで個性が埋没してしまった気がします。

 

●その後のウォーリアーズ

 

アニマルはシングルプレーヤーとして試合を続けますが、やがて試合中に尾てい骨骨折、その後WWEを離脱。一方のホークは、新日本プロレスで佐々木健介(パワーウォーリアー)「ヘルレイザーズ」として活動。

1996(平成8)年、アニマルが復帰してロードウォリアーズ再結成。新日本ではパワーウォリアーとのトリプルウォリアーズも結成し、WCWに参戦。

 

1997(平成9)年2月には再びLODとしてWWEに復帰。WWE世界タッグ王座に輝くもかつての輝きは取り戻せず、1999(平成11)年4月にWWEを離脱、全日本プロレスに復帰も果たしました。

 

その後、ホークがオーストラリア遠征中に心臓発作に倒れ、入院。そして2003(平成15)年10月19日、心臓発作により享年46歳で急逝しました。

相棒を失ったアニマルは2005(平成17)年、別のレスラーと「LOD2005」を結成し、WWEに復帰するも短期間で終わり、アメリカ各地を転戦していました。

2011(平成23)年3月、WWEはロードウォリアーズとマネージャーのポール エラリングの殿堂入りを発表。

 

そして2020(令和2)年9月、アニマルが亡くなり、ロードウォーリアーズはほんとうに“伝説“となりました。

 

2人の性格は正反対だった、と言われます。ホークは明るく豪放磊落、社交的でアルコールを好み、ドラッグにも手を出す一方、アニマルは酒もドラッグもやらず、物静か。

 

それでもリングに上がれば完全無欠のコンビネーションと圧倒的なパワーファイトで、一時代を築きました。

 

WWF参戦時には仲違いもしましたが、その後は友情も復活して、生涯を通じての“盟友“であり続けました。

 

数多くのフォロワーを生みながらも彼らを超えるインパクトのあるタッグチームは、その後も現れていません。

ご冥福をお祈りします。

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