京丹後めぐり⑯~大江山と鬼伝説~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

皇大神社から、
案内看板にしたがって
ぐるりと山道をゆくと

日室ヶ嶽(ひむろがたけ)の
遥拝所に行きつきます。



日本のピラミッドとも
いわれるこの山は、
禁足地であり、

 

皇大神社の
神体山だといいます。

夏至の日には、
太陽が頂上に沈むそうです。



この日室ヶ嶽をはじめ、
鍋塚(なべづか)、
鳩ヶ峰(はとがみね)、
千丈ヶ嶽(せんじょうがたけ)、
赤石ヶ岳(あかいしがたけ)など

福知山市から
宮津市にまたがる山々を
大江山(おおえやま)連峰と
呼ぶようです。

この大江山には、
時代の異なる
3つの鬼伝説があるといいます。

紀元前100年ごろの
彦坐王(ひこいます)の土蜘蛛退治、

西暦600年ごろの
当麻親王(とうま)の鬼退治、

西暦1000年ごろの
源頼光(みなもとよりみつ)の鬼退治です。

どれも興味深いので、
ひとつずつ描いてみます。




◇BC100年・彦坐編◇

第10代・崇神天皇の弟であり、
丹波道主の父である、
彦坐王は、

福井県の青葉山の
土蜘蛛退治に遣わされました。

土蜘蛛というと、
妖怪のイメージが強いですが、

大和朝廷に従わない、
地方の反乱軍や逆賊の民を
そう呼んでいたそうです。

青葉山には、
陸耳御笠(くがみみのみかさ)と
匹女(ひきめ)を
首領とする一族が
住んでいたのですが、

彦坐王は戦の末に、
彼らを青葉山から追い出しました。

逃れた土蜘蛛族は、
舞鶴の
成生(なりゅう)や
匂ヶ崎(にょうがさき)を経て
由良川にいたり、

遡上して
大江山に至ったようです。

大江町では
匹女が殺され、

血がほとばしったとこから、
血原(千原)と
呼ぶようになったといいます。

また、
川に楯を立てて
応戦したことから、
楯原(蓼原)とか
川守(河守)という地名も
残っているようです。

しかしここで
見失ったらしく、

以後、
土蜘蛛の消息は
途絶えてしまったようです。

 



なんでも
「ミ」や「ミミ」という名は
南方系の渡来人に
つけれられていたようで、

大きな耳輪をつける風習が
あったといいます。


◇600年・当麻編◇

聖徳太子の
腹違いの弟である
当麻(麻呂子)親王は、

大江山に巣食う
英胡(えいこ)
軽足(かるあし)
土熊(つちぐま)
という三鬼を首領とする
悪鬼退治に遣わされました。

遠征の途中、
亀岡盆地の篠町にて、

商人が死んだ馬を
埋めようとしていました。

そこで当麻が、
「この征伐に利あらば馬蘇るべし」
と誓願すると、

馬はたちまち
生き返ったといいます。

そこでこの地を
馬堀(うまほり)と
呼ぶそうです。

蘇った駿馬にまたがり、
福知山の生野の里を
越えていると、

今度は
老翁から白犬を
献上されました。

頭に明鏡をつけた犬で、
この犬を先導として、
雲原村に至ったそうです。

そこで当麻は
薬師像を7体彫刻しました。

鬼賊を征伐できた暁には、
この国に7寺を建立して、
この仏像を安置すると
誓いを立てました。

そうして
鬼の岩窟にたどり着き、
英胡・軽足を討ち取ります。

しかし土熊には
逃げられてしまいました。

そこで白犬の明鏡で
照らしたところ、

土熊が鏡にうつり、
これも退治できたといいます。

こうして土熊は
岩窟に封じられたそうです。

一説には、
竹野郡まで
落ちのびたともいいます。

鬼退治を終えた当麻は、
神徳に感謝して、
皇大神社を営んで、
隣に親王の宮殿を造営したといいます。

また明鏡は、
与謝野町の大虫神社に
おさめられ、

犬鏡大明神と
いわれたそうです。

宿願果たした当麻は
丹後国に7寺を
建立したといいます。

 



もしかすると、
ここでいう土熊とは、

彦坐の時代から
逃げのびた
土蜘蛛のことかもしれませんね。

そしてさらに、
ここでもまた土蜘蛛は、
逃げのびたのかもしれません。



◇1000年・源頼光編◇

第66代・一条天皇の御世に、
都の姫君が
次々と消える事件が起こったそうです。

安倍晴明(あべのせいめい)に
占わせたところ、

大江山に住む
酒呑童子(しゅてんどうじ)の
仕業だとわかったそうです。

討伐のために編成されたのは、

源頼光(みなものとのよりみつ)
藤原保昌(ふじわらのやすまさ)

それから
頼光四天王といわれる、

渡辺綱(わたなべのつな)
坂田公時(さかたのきんとき)
ト部季武(うらべのすえたけ)
碓井貞光(うすいのさだみつ)

の6人です。

いずれも
名だたる武人ですが、

とくに有名なのは、
童話「金太郎」の
モデルといわれる、
坂田公時でしょう。

このかたは、
金時豆の語源にも
なったといいます。

頼光らは
遠征の道中で神々から
神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)
を与えられると、

山伏に変装して、
鬼の住む屋敷に
上がり込んだといいます。

鬼から振る舞われた
血の酒や人肉を平らげて
信用させると、

頼光らは、
神便鬼毒酒をふるまって、

毒で鬼どもを酔い潰し、
身体の自由を奪ってから、
首を切り落としたそうです。

それでも生首はなお
頼光の兜を
噛みつきにかかったのですが、

仲間の兜も重ねかぶって
難を逃れたそうです。

死の間際、
酒呑童子はこう語ったそうです。

「鬼に横道はなし」

頼光はこの言葉を
どう受け取ったのでしょう。

宴席で酔った童子は、
自身の生い立ちを
語っていたといいます。

母の胎内に3年間籠って
ようやく生まれた酒呑童子は、

幼名を
外道丸といったそうです。

産まれながらに
髪と歯が生え揃い、

すぐに歩くことができて、
5歳程度の言葉を話したといいます。

3歳にして酒を呑み、
大変な乱暴者だったようです。

手を焼いた母親は、
息子を稚児として
寺に預けたといいます。

しかし外道丸は、
類まれなる美貌の持ち主で、
また才気煥発でもあたため、

10歳にして、
比叡山の最澄(さいちょう)へ
弟子入りすると、

三塔一の学僧と
称えられるまでに
成長したといいます。

けれどもその美貌から、
多くの女性たちに恋慕され、

外道丸が
もらった恋文を焼いていると

女の怨念が
煙となって襲いかかり、
外道丸を鬼に変えたといいます。

また一説には、

遷都の祝賀祭で、
都の鬼門にあたる比叡山一門は、
「鬼踊り」を披露したですが、

外道丸は手製の面で
踊ると大変な人気をはくし、

そのまま酒席に参加して
酔いつぶれると

翌朝には
鬼の面が顔から
外れなくなっていたといいます。

何故、
面が貼り付いたのか?

これも周囲の
嫉妬や羨望のため
だったのかもしれません。

こうして、
鬼となった外道丸は、
比叡山を追われ、

各地を転々とするうちに
大江山に
辿りついたといいます。

もしかすると、
彦坐王の時代より
逃れ住んでいた土蜘蛛や
渡来人の一族に拾われて

そこで
世を恨みながら
暮らしていたのかもしれません。

もしくは、
静かに隠れ住んでいた里に、

都の荒くれ者たちが、
利権を求めて
攻めいってきたのかもしれません。

というのも、
大江山は鉱山でもあり、

海人族など
渡来の技術によって
製鉄で栄えていたようです。

なんにせよ、
頼光らが討伐に来たときには、

外道丸は、
酒呑童子と名乗って、
鬼一族の首領だったといいます。

討ち取られた
酒呑童子の首は、

京都に持ち帰られ、
平等院の宝蔵に納められたとも、

山城国の国境にある
老の坂峠の首塚大明神に
祀られているとも、

大江山の
鬼嶽稲荷神社に
祀られているともいいます。

 



また

伊吹山に残る説では、


酒呑童子は
ヤマタノオロチの子孫
とも言われているようです。



ところで
「鬼」のイメージには、
漂着した外国人説があり、

赤ワインを呑んで
赤ら顔になった
長身で毛むくじゃらの彼らが
牛豚鶏をむさぼり食う姿が

鬼に見えた
という話もあるようです。
 

 

↓よければクリック

↓お願いします。


神社・お寺巡りランキング



京丹後めぐり⑰ へ つづく

 

 

☆京丹後めぐり全記事リンク☆
京丹後めぐり① ~吉野神社と桜山~
京丹後めぐり② ~天橋立~
京丹後めぐり③ ~江之姫神社~
京丹後めぐり④ ~籠神社~
京丹後めぐり⑤ ~真名井神社~
京丹後めぐり⑥ ~麓神社~
京丹後めぐり⑦ ~浦嶋神社~
京丹後めぐり⑧ ~豊受大神と月輪田~
京丹後めぐり⑨ ~比沼麻奈為神社~
京丹後めぐり⑩ ~丹波道主と船岡神社~
京丹後めぐり⑪ ~藤社神社~
京丹後めぐり⑫ ~乙女神社と天女~
京丹後めぐり⑬ ~大宮売神社と古代祭祀~
京丹後めぐり⑭ ~和貴宮神社と我野姫~
京丹後めぐり⑮ ~元伊勢・皇大神社~
京丹後めぐり⑯ ~大江山と鬼伝説~
京丹後めぐり⑰ ~天岩戸神社と磐座~

京丹後めぐり⑱ ~まとめ~