京丹後めぐり⑱~まとめ~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

地図というのは、

さまざまなことを
教えてくれます。

たとえば、
今回たずねた場所と、
行きたかった主要部を
マッピングしてみると、

面白いことが
みえてきました。



京丹後を語るうえで、
古代・海人(あま)族は
欠かせないようです。

太古の海を
牛耳っていたという、
海運業の一族ですが、

一説には
渡来人ともいわれます。

その海人族の長が

治めていたのが、

籠神社です。

ですから、

籠神社を基点に
みてみると、



宮津湾の奥にあり、

天橋立に阻まれた

阿蘇海は、

 

天然の軍港で

あったのかもしれません。

 

 

江之姫神社は、

阿蘇海へ流れる港であり、

 

和貴宮神社は、

宮津湾に流れる港

であったようです。

また、
真名井神社という
豊受大神の神威に
すがったという面もあるでしょう。

これをさらに

広域にしてみると、
他にもいくつかの利点が
見えてきます。



たとえば、
大宮売神社でも
聞いたように、

内陸部で発展するには、
川と盆地が必要で、

丹後半島でいうと、
竹野(たかの)神社からつづく
竹野川(たかのがわ)がそれにあたります。

この本流は、
天女伝説のある
奈具神社を通って、

古代祭祀場でもあった
大宮売神社を通り、

 



比治山の手前で
ぐるりと回って
木積神社のあたりが
源流となっています。

また

竹野川の支流の

樽留川(ますとめがわ)は、

月輪田
比沼麻奈為神社
船岡神社
藤社神社
乙女神社を通って、

比治山(磯砂山)の源流に
ゆきつくのでした。

 



川の場所と、
神社の場所が
面白いほど並んでいます。

おそらく丹後半島の
内陸はこのあたりで
栄えていたのでしょう。

さらに面白いのは、
竹野川は、
比治山を越えられない

ところです。

 


つまり、

天橋立

都のある内陸部へゆくには、

丹後半島を回らなければ

ならないのです。

内陸へ向かう川は、
阿蘇海からつづく
野田川と、

宮津からつづく
大手川と、

舞鶴湾の手前の
由良川です。



新井崎神社の沖には、
冠島があります。


籠神社の奥宮であり、

浦嶋神社の竜宮城ですが、

 

かつてはここも

大きな島であり、

繁栄を築いていたといいます。

 

それが大地震によって、

水没したのだそうです。

 



当時、

冠島を海人族が

治めていたのであれば、

内陸へつづく3本の主流も
海人族が仕切っていたでしょう。

由良川は、
福知山までつづき、

そこからは
山陰道を通って、
亀岡盆地へ、

亀岡盆地からは、
山城国の京都へ、

さらに下れば
大和の奈良へゆけます。




また
阿蘇海からつづく
野田川は、

与謝野町の
盆地へつづき、

西側には
大江山連邦がそびえます。

大江山は
鉱山の産地としても
栄えていたといいますし、

製鉄技術は
渡来のものだといいます。

また鬼伝説
もととなった土蜘蛛も、
渡来人だという説もあり、


逃れた土蜘蛛の一族は
大江山で生きながらえていた

可能性もありますから、

もしかすると、
与謝野町界隈では、

海人族と土蜘蛛が手を組んで
製鉄をおこない、
交易品としていた、
 

ということも、

考えられなくはないかと思います。

 

山陰道では

朝廷と手を組み、

 

阿蘇海経由の

隠れ里では

土蜘蛛を支援していた

というのであれば、

 

とてもドラマティックです。




渡来人でいえば、

新井崎神社には、
徐福という仙人が
中国より渡ってきたという
伝説が残っています。

 

さらに

和貴宮神社では、

朝鮮半島の

伽耶国の姫らしき、

 

我野姫(かやのひめ)を

祀っていました。



そうすると、
籠神社の地は、

日本海側は
竹野川の勢力に守られ、

内陸側は
大江山の勢力に守られ、

湾は
天橋立に守られていた
ということになります。

鉄壁です。



さらにいうと、
比治山の西側にも、

久美浜湾から続く
川上谷川があるのですが、

ここは丹波道主
妻の一族である
川上摩須(かわかみます)が
治めていたというので、

これも丹後半島にいた
海人の一族だと思われます。

 

 

ク「ミ」ハマと

カワカ「ミ」マスで

「ミ」の字があるから

南方系渡来人かもしれません。

 

こうした一族は、

太古の昔から

この地に根づいていたようです。


この丹後半島には
6000もの古墳があるといい、

そこかしこに
横穴があいていたりします。

 



ぼくも藤社神社のちかくで、
地図にも載っていない
古墳を発見しました。

先祖代々守っている場所らしく、

墳墓のうえには、
現代の墓石が

並んでいました。

さすがに写真は控えますが、
山中にとつぜんあらわれる
穴の開いた巨大な丘は、

ナウシカの王蟲のようでした。



さて、

ここからは
ホツマツタヱ的にみてゆきます。

京丹後は
まさに神話の地です。

豊受大神(とようけおおかみ)や

天照大神(あまてらすおおかみ)が
直接統治していただけでなく、

この地で
身罷ったといいます。

 

どの神社へいっても

豊受大神を祀っていました。

 


さらに
比治山(磯砂山)には、
豊受大神の

生誕伝説もありましたし、

その
豊受大神の孫娘であり、
天照大神の妻ともなる
オオミヤ姫ミチコを祀るのが

大宮売神社のようです。

 

 

さらには、

第10代・崇神天皇より

丹波平定を命じられた

タニハミチノウシ(丹波道主)

娘たちも

 

ヤオトメ(八乙女)といわれる

豊受大神を祀る

斎女だったようですし、

 

どうやらその娘たちや

斎女たちが

天女伝説のもとに

なったようです。





天女伝説では、
その八乙女のひとりが、
豊受売(トヨウケメ)といわれます。

おそらく、
古事記や日本書紀で、
豊受大神が
女性神となっていたのは、

豊受大神を祀る女性、
または
豊受大神の御霊を降ろした女性が

そのまま神さまとして
祀られていった

という経緯があるように思います。

もしかすると、
卑弥呼(ひみこ)や
台与(とよ)というのは
固有名詞ではなくて、

天照大神を祀る女性を
日巫女(ひみこ)といい

豊受大神を祀る女性を
豊(とよ)といっていた

だけなのかもしれません。

そうすると
元伊勢と呼ばれる

場所をへめぐった

トヨスキイリヒメも
ヤマトヒメも、

『ヒミコ』であり、

そうした姿が、
現在の女性神、
天照大神となったのだと思います。



豊受大神が生まれた場所、
身罷った場所である
京丹後には、

天女とよばれる

斎女の『トヨ』が
各時代ごとにいたのでしょう。

もしかすると現在でも、
ヤオトメといわれる

8人の『トヨ』が、
ひとしれず豊受大神を
お祀りしているのかもしれません。

 

 

京丹後めぐり ~終~


 

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☆京丹後めぐり全記事リンク☆
京丹後めぐり① ~吉野神社と桜山~
京丹後めぐり② ~天橋立~
京丹後めぐり③ ~江之姫神社~
京丹後めぐり④ ~籠神社~
京丹後めぐり⑤ ~真名井神社~
京丹後めぐり⑥ ~麓神社~
京丹後めぐり⑦ ~浦嶋神社~
京丹後めぐり⑧ ~豊受大神と月輪田~
京丹後めぐり⑨ ~比沼麻奈為神社~
京丹後めぐり⑩ ~丹波道主と船岡神社~
京丹後めぐり⑪ ~藤社神社~
京丹後めぐり⑫ ~乙女神社と天女~
京丹後めぐり⑬ ~大宮売神社と古代祭祀~
京丹後めぐり⑭ ~和貴宮神社と我野姫~
京丹後めぐり⑮ ~元伊勢・皇大神社~
京丹後めぐり⑯ ~大江山と鬼伝説~
京丹後めぐり⑰ ~天岩戸神社と磐座~

京丹後めぐり⑱ ~まとめ~