大和国の春日めぐり① ~神功皇后陵~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

神功皇后(じんぐうこうごう)の
御陵(みささぎ)と比定される

狹城盾列池上陵
(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)こと、

五社神古墳(ごさしこふん)
へ行ってきました。




神功皇后とは、

国史初の女帝として
摂政を務め、

国史初の海外遠征を
成しとげた武人にして、

住吉(すみよし)大神をはじめ
おおくの神々を感得した
巫女でもある方です。


本名は
息長帯比売命(おきながたらしひめ)
といい、

古代皇族である
息長(おきなが)氏だといいます。

琵琶湖の北東、
米原市(まいばらし)周辺が
その本拠地であり、

山津照(やまつてる)神社には
神功皇后の父といわれる
息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の
古墳がありました。



神功皇后は、

第14代・仲哀天皇の

后として

 

第15代・応神天皇を

産まれます。

 

応神天皇といえば、

八幡(はちまん)宮で祀られる

八幡大神のことです。

 

また、

仲哀天皇は

日本武尊(ヤマトタケ)の子に

あたります。

 

その系図を

ざっくり描くとこうなります。

 

 

中央なかほどに

丹波道主(たんばみちぬし)

がいますが、

 

その母親は

息長水依比売(おきながみずよりひめ)

という息長氏ですから、

 

彦坐王の時代から

息長氏の血が

父方にも母方にも

反映されているようです。

 

 

この神功皇后の物語は、
福井の氣比(けひ)神宮から
はじまるといいます。



氣比神宮といえば、
山幸彦(やまさちひこ)と

海幸彦(うみさちひこ)の
兄弟喧嘩の地であり、

さいごは山幸彦が
葬られた地だと
ホツマツタヱにはありました。

そんな場所に、
新婚の

仲哀天皇と神功皇后が、
仮宮を建てて住まわれたのが、
氣比神宮の由緒だといいます。

 

しかし

ここでの新婚生活は

長くつづきませんでした。

 

九州で熊襲(くまそ)が

謀反を起こしたため、

平定しにゆかねばならなかったのです。

その道中、

皇后の巫女的な能力が

開花してゆきます。

海渡る船に
鯛の群れが寄ってきて、

皇后が酒を注ぐと
鯛は酔って
浮かんできたといいます。

また海中から
如意宝珠(にょいほうじゅ)を得たとか、

潮干玉(しおみつたま)

潮満玉(しおひるたま)を得たとか、
さまざまあるようです。

この如意宝珠は

兵庫の甲山(かぶとやま)

埋めたとも

 

廣田(ひろた)神社

神宝であるともいいます。

 

また

潮満玉などは、

氣比神宮の山幸彦

大きく関わるのかもしれません。

こうして山口県の
穴門豊浦宮
(あなとのよゆらのみや)へ
着くと、

夫婦はそこで

7年ほど
政務を執ったといいます。

その地は現在も、
忌宮(いみのみや)神社として
残っているようです。



なぜ
忌宮かというと、
この地に、
仲哀天皇を葬ったからのようです。

さて、

本州から

九州へと渡る際、

筑紫の豪族である
五十迹手(いとて)が
盛大に出迎えたといいます

 

そのことから、
「勤しむ」を文字って
伊蘇志(いそし)の名を
与えたといいます。

昨日の記事の

廣田神社で祀られていた、

伊和志豆(いわしず)神社の

由緒がここにあるのでした。

 



筑紫にはいると、
まずは香椎宮に
住まわれたようです。

ところがここで、
神功皇后は神掛かりすると、

 

仲哀天皇に向かって
朝鮮半島への出征を
託宣するのでした。

ここで
神託を下したのが、
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)、

つまり

ムカツヒメであり、
瀬織津姫(せおりつひめ)だといいます。



しかし
仲哀天皇は、
聞き入れませんでした。

 

九州の平定に来たのに、

どうして海外遠征できようかと

怒りだしてしまうのでした。

すると、

仲哀天皇は

神の不信を買ってしまい、

 

それからすぐに
亡くなってしまうのでした。

神功皇后は、

国内の動揺を慮って

この事実を隠したといいます。

そうして秘密裏に、

遺体を穴門豊浦宮へ運び

弔ったといいます。

そして大臣の
武内宿禰(たけうちのすくね)
ともに政治をとると、

怒涛の快進撃で、
九州を治め、

さらには
海外遠征の指揮をとり、
神風と大波によって

神意を示したといいます。


新羅(しらぎ)、
百済(くだら)、
高麗(こうらい)は、

恐れをなして、
戦わずして降服したといいます。

これが
三韓征伐(さんかんせいばつ)

だといいます。


ところで、
神功皇后は、
仲哀天皇の子を
宿していたといいます。

しかし
激務に追われ、
三韓征伐まで
行うこととなり、

皇后は
腹に鎮め石を巻いて、
出産時期を
引き延ばしたといいます。

三韓征伐を終え、
ようやく御子を産んだので、

その地には、
宇美(うみ)という地名が

残ったそうです。

宇美八幡宮には、
皇后の御子である
応神天皇が祀られているといいます。



こうして、
世継ぎも生まれ、
中央政権へと
復帰するべく

豊浦宮から
天皇の遺体とともに
大和へ向かうのですが、

そこで、
同じく仲哀天皇の
別腹の子が

後継者争いを
仕掛けてくるのでした。

それを察知したのか、
海上で船がひとりでに旋回し
立ち往生していた
神功皇后は、

武庫の港にたちよって、
占うと、

多くの神々を感得し、
それぞれを祀ることに
したのでした。

天照大神の正后である
ムカツヒメは、
廣田神社に、

天照大神の姉である
ワカヒルメは、
生田(いくた)神社

事代主クシヒコは
長田(ながた)神社に

住吉大神は
住吉大社に
本住吉(もとすみよし)神社?)

それぞれ
祀ったといいます。

すると船は動き、
大和まで入って行けたといいます。

皇位継承権を持つ
敵軍は、
宇治に陣を築いたといいます。

その話は、
瀬田の唐橋(せたのからはし)

書きました。

琵琶湖南端まで攻めて、
自害に追い込んだといいます。

さてそこから、
武内宿禰と
若き応神天皇は

福井県敦賀の
氣比神宮へ

禊に行ったといいます。



応神天皇は、
イザサワケ神を感得して、
ホンダワケという名を
賜ったといいます。

ホツマツタヱ的には、

イザサワケというのは

些細ないさかいのことをいい、

 

山幸彦らの

兄弟喧嘩のことを

いうようです。

 

そしておそらく、

イザサワケ神とは、

山幸彦のヒコホホデミの

ことでしょう。

 

山幸彦は

神功皇后とも

ゆかりが深いようですね。

さて神功皇后は、
その後も
たびたび反乱を起こす
朝鮮半島を鎮めながら、
100歳まで生きたといいます。

亡骸は
狹城盾列池上陵
(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)へ
葬られたといいます。



それがこの地です。
平城京からもちかいここは、

山陵町(みささぎちょう)といって、
古墳だらけの一帯でした。

 

 

大和国の春日めぐり② へ つづく

 

 

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