西近江路めぐり⑥ ~氣比神宮~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

越前国一之宮にして
北陸道総鎮守の
氣比(けひ)神宮です。



祭神は7座とあり、

伊奢沙別命(いざさわけ)
仲哀(ちゅうあい)天皇
神功(じんぐう)皇后
日本武尊(やまとたけ)
應神(おうじん)天皇
玉妃命(たまひめ)
武内宿禰命(たけうちのすくね)

だといいます。



当初は、
イザサワケ神を
氣比大神として
祀ったのがはじまりであり、

702年の
社殿建立のさいに、
仲哀天皇と
神功皇后が祀られ



その後、
本殿をかこむ
四社之宮(ししゃのみや)に

日本武尊
應神天皇
玉妃命
武内宿禰命

を祀ったといいます。



聖蹟の土公(どこう)
でもかいたように、

イザサワケ神こと
気比大神は
山幸彦(やまさちひこ)だと
思われます。



そのゆかりの地に、
仲哀天皇と神功皇后は
新婚の1年を
過ごしたといいますから、

おふたりが祀られるのも
うなずけます。



また筑紫(つくし)
遷ってからも

神功皇后は
忠臣・武内宿禰と
妹・玉妃をつれて
参詣したといいます。



さらに後年、

三韓遠征を終えて

世継ぎ争いも制した
武内宿禰とともに

応神天皇が参詣し、
夢でイザサワケ神

感得したといいます。



記紀には、

天皇が神と
『ナ』を取り替えた
という話が残っており、

これが
名(な)のことだったのか
魚(な)のことだったのか
諸説あるようです。



というのは、
夢をみた翌朝、

神の告げるままに

浜へゆくと
 

おおくのイルカが
打ち上がっていたといいます。

鼻先を傷つけた

イルカの血によって、
血なまぐさかったので、
 

そこを

血浦(ちぬら)とよんだのが
角鹿(つぬが)になったそうです。

さて、どうでしょうか?

こうして御食を

授かったことにより、

 

氣比大神は

御食津(みけつ)大神とも

いうようです。



ヤマトタケについては、
この地に事績はないようですが、

仲哀天皇の父として
祀られているといいます。



本殿のまわりには
九社之宮(くしゃのみや)という
9つの社が並んでいます。

 



どれも興味深いので
手前から
ひとつづつみてゆくと、

まず、
伊佐々別(いささわけ)神社は、
イササワケ神の荒魂を祀り、
 

北の海側を

向いているといいます。

 


これも山幸彦さまでしょう。

となりの
擬領(おおみやつこ)神社は、

武功狹日命(たけいさひ)
大美屋都古神(おおみやつこ)
玉佐々良彦命(たまささらひこ)ら

国造の祖神を
祀っているといいます。




天伊弉奈彦
(あめのいざなひこ)神社は

伊佐奈彦神を祀るといいますが、
イサナギ様でしょうか?



天伊弉奈姫
(あめのいざなひめ)神社は

 

天比女若御子神大神を

祀るといいますが、

イサナミ様でしょうか??



天利劔
(あめのとつるぎ)神社は

仲哀天皇が納めた
宝剣の神霊を
祀るといいます。



鏡(かがみ)神社は

神功皇后が納めた
宝鏡の神霊を
国常立尊(くにとこたち)
とともに祀ったようです。



林(はやし)神社は
林山姫神(はやまひめ)を
祀るといいます。


最澄(さいちょう)が

日吉(ひよし)大社に祀った
気比社は

ここから勧請しているようです。

日吉の気比社では
仲哀天皇を
祀っているようです。

 



金(かねの)神社は

素盞鳴尊(すさのお)を
祀るといいます。

空海(くうかい)が

高野山(こうやさん)に祀った
気比大神は

ここから勧請しているようです。

高野山では、
丹生都姫(にうつひめ)

娘とされているようですが、

素戔嗚(そさのを)ならば、
弟でしょう。



劍(つるぎ)神社は
姫大神尊
(ひめのおおかみ)を祀り、

剛毅果断の大神として

敦賀の莇生野村(現・粟野)に
勧請したといいますが、

これは、
難破しても
自力で海を渡って助かり、

この地で
ウガヤフキアエズを産んだ
豊玉姫(とよたまひめ)さまの
ことかもしれません。

 



以上が9社ですが

さらにこの奥に、
神明両宮(じんめいりょうぐう)として

伊勢の内宮・外宮である
天照大神と
豊受大神が祀ってありました。



境内には、
ほかにもう一社、
猿田彦(さるたひこ)神社が

あるといいますが、
 

今回は行けませんでした。

 



菅原道真(すがわらみちざね)公

この地に参詣したというのに、

天神様を祀る社がないのは
すこし寂しいですね。



社以外にも、ここは

水の湧く聖地であるらしく、

神池である、

亀池も見事ですし、

長命水という清水が
湧いていました。



また名勝の

気比松原にも近く、


松尾芭蕉は

当社を訪れて
詩を詠んだといいます。



重量が約30トンあるという

こちらの句碑には、

『國々の八景更に氣比の月』


『月清し遊行のもてる砂の上』


『ふるき名の角鹿や恋し秋の月』


『月いつこ鐘八沈る海の底』


『名月や北國日和定なき』


の五句が記してあるといいます。

 



ここに残る以外にも


『中山や越路も月はまた命』

 

『月のみか雨に相撲もなかりけり』

 

『衣着て小貝拾わんいろの月』

 

などの句も

詠んだといいます。

 


ほかにも

露塚・句碑もあり、

芭蕉尽しでした。

 


『なみだしくや遊行のもてる砂の露』

とあるようです。

 

遊行とは、

当時ぬかるんでいた境内に

松原の砂を運んで

参道を整備した仏僧だといいます。

 

 

こちらは

芭蕉翁の像だといいます。


こうしてみると、
山中を通る最短ルートの

若狭街道よりは、

 

湖畔のゆく

西近江路のほうが

景観もよく安全だったのか

 

おおくの方が

利用していたようです。

 

この道を拓いたのが、

ニニキネと猿田彦の

三尾(みお)だとすると

 

また感慨深いものが

あります。

 

ここで再び、

大津のシノ宮といわれる

天孫(てんそん)神社

訪ねてみると、

 

 

山幸彦こと

彦火火出見(ひこほほでみ)と

 

仲哀天皇こと

帯中津日子(たらしなかつひこ)が

 

ならび祀られており、

 

西近江路の

はじまりとおわりで

おなじ神々が祀られているという

 

興味深いことが

わかるのでした。

 

 

西近江路めぐり ~終~

 

 

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西近江路めぐり④ ~敦賀と都怒我~
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