紀伊国の熊野めぐり③ ~クマノ・人代~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

ホツマツタヱにある
『クマノ』について、

神代につづいて
人代をみてゆきます。



天照大神より

6代孫の
磐余彦(いはわれひこ)が、

九州を発って
大和(奈良)にいたり、

おなじく
天照大神直系の
饒速日(にぎはやひ)

長脛彦(ながすねひこ)を

討って国をまとめ、

初代・
神武(じんむ)天皇と
なられるのが、

いわゆる
神武東征(じんむとうせい)ですが、

 

人代の『クマノ』は

その道中に登場します。



瀬戸内海を渡って
河内湖(かわちこ)から
大和にはいろうとした

神武一行は、

生駒(いこま)山麓
長脛彦に返り討ちに

されてしまいます。

そこで、



日の御子であるわれらが
日ののぼる東に向かって
行軍するのは間違いだった、

日のごとく西に攻めたなら
かならず勝利するだろう


といって
紀伊半島をぐるりと回って

東から攻めることにしたといいます。

そのときに上陸したのが、
『熊野』だそうです。

 



上陸地やルートは
諸説あるようですが、

熊野の山々をこえて
宇陀(うだ)にはいったのは

記紀もホツマツタヱも
おなじようです。


 

一行には、
神武天皇の3人の兄も

加わっていたといいます。

五瀬命(ゐつせ)
稲飯命(いなゐい)
三毛入野命(みけいり)

の3人です。

 



しかし、
長男・ヰツセは
生駒の戦いの傷によって
亡くなり、

イナヰイとミケイリは
熊野上陸のさい、

荒れ狂う海を
鎮めるために
身を投げたといいます。



身内をすべて亡くすという

失意のなか上陸した

熊野では、

丹敷戸畔(にしきど)の

祟りにあい、


神武一行は
深い眠りについてしまったそうです。


この窮地にあらわれたのが
高倉下命(たかくらした)

だといいます。



天より降ろされた
神剣フツノミタマ

倉の底板に
突き立っているのをみつけた

高倉下は、

夢のお告げのとおりに
剣をたずさえて浜にゆくと

神武一行の眠りを

覚ましたようです。



また一行が、
険しい熊野の山越えに
難儀していると、

八咫烏(やたのからす)という

老翁があらわれて

宇陀までつづく
飛鳥道(あすかみち)を

ひらいてくれたといいます。


 

人代のクマノには、この

神武天皇の兄と
高倉下と

八咫烏が

関わっているようです。



記紀では、
神武天皇の兄弟はすべて

父・鵜葺草葺不合尊
(うがやふきあわせず)と

母・玉依姫(たまよりひめ)
子とされていますが、



ホツマツタヱでは、

ヰツセは
父・ウガヤと
前妻・ヤセ姫の子で、

ミケイリは、
後妻・玉依姫の
連れ子だといいます。


ミケイリの「みけ」は
「御食」とも取れることから

長男・ヰツセの
食事を司っていた
ともいわれるようです。



玉依姫といえば

丹塗り矢伝説があり、
 

ミケイリは京都の
上賀茂(かみがも)神社
祀られる

賀茂別雷神(かもわけいかづち)
のことのようです。



また、滋賀の
日吉(ひよし)大社によると
 

ミケイリの父は
大山咋神(おおやまくい)
されていました。

大山咋神は
秦(はた)氏に祀られる
神さまですから、

ミケイリは
鴨氏の玉依姫と

秦氏の大山咋神の

結びつきによるのでは?

カモ考でも

書いてきましたが、

そんないわくのある

ミケイリが、


あまりにもあっけなく
亡くなられているのが
気がかりです。



たしかに
ミケイリには生存説があり、

九州の高千穂まで
逃れたという話もあるようです。

また、
おなじく身を投げた
イナヰイも生存説があり

朝鮮半島にわたって
新羅王の祖になった
ともいうようです。



玉置(たまき)神社
社務所のおくには

三柱(みはしら)社という
摂社があるのですが、

 


ここは以前、
三狐(みけつ)社と
よばれていたといい

「みけ」が「御食」に
通じることから

御食津神(みけつかみ)として
倉御魂神(うかのみたま)を
祀っているといいます。

 

いわゆる

お稲荷さんですね。

 



けれども霊験は、
海上安全や大漁悪魔退散
だといいます。

だとすれば、
もしかするとここには

「みけ」にも通じて

熊野の海に

身を投げたという


ミケイリが祀られていた
のかもしれません。



さらにこの名は、

熊野三社に
熊野権現として祀られる

家津御子(けつみこ)大神にも
通じるのかもしれません。

 



ミケイリが
御食を扱う御子で
御食津御子(みけつみこ)となり

家津御子として残った

ということもありそうです。


もしかすると、
ミケイリは生きて上陸し

神代の
クマノクスヒのように

隈の神であるイサナミ
奉斎したのではないでしょうか?



そしてさらにいえば、


八咫烏も
ミケイリの関係者では

ないでしょうか?

 


黄泉まで逢いにきた
夫・イサナギに、
 

8人(やた)の醜女(しこめ)を

けしかけた故事から、

イサナミに奉斎した

クマノクスヒは、
 

カラスを

醜女の化身として祀ったと

神代にありましたが、

つまり、

『八咫烏』とは
『イサナミの使い』という

暗号なのでしょう。

 

 

また、

「ヤタガラス」の「タガ」は

多賀(たが)大社

由来でもある

 

イサナミの

曲を治す(ガをタす)という

意味もあるのでしょう。

 



さらに八咫は

「やあた」ともいうらしく、

「八幡」にも通じますし
秦氏や日ユ同祖論からすれば
「ヤタウェ」にも通じるのでしょう。

くわえて、

ホツマツタヱでは
飛鳥道の功労により

八咫烏の孫を
葛野(かだ)の県主と
したといいます。

 


葛野郡は
京都の旧名で、


荷田(かだ)氏の祖である
カダマロが治めた地

だといいます。

カダマロは
キツネのハタレ(反乱軍)
恩赦をあたえて

頭目だった三狐に
カダの祖神である
ウケモチ(保食神)を
奉斎させたといいますから、

これが稲荷信仰の

はじまりとすると、

八咫烏は
秦氏と稲荷をむすぶ
鍵なのかもしれません。

 



熊野にある

阿須賀(あすか)神社にいけば
そのあたりもわかるのかもしれませんが、

 

今回の旅では

訪れることができませんでした。

山城国風土記などでは
八咫烏=賀茂建角身(タケツミ)
あるようですが、

だとすれば、
ホツマツタヱの系譜では

 

八咫烏は

ミケイリの祖父となります。

孫の様子をみるために

京都から熊野まで

くだってきたのでしょうか?

神話にはもしかすると、

古代氏族の痕跡という面も

あるのかもしれませんね。



さて話は、


神剣フツノミタマを

持ってあらわれた

高倉下(たかくらした)にもどります。

幼名は
タクラマロといい、

饒速日命(にぎはやひ)と

深い因縁があったようです。

 



初代・飛鳥親王の

櫛玉火明命(くしたまほのあかり)

子ができなかったために
妻・アメミチ姫の
兄・カゴヤマの子を

養子にしたといいます。

 

この養子が
タクラマロだったようです。

しかしタクラマロは
政争にやぶれて

 

アメミチ姫ともども
朝廷を追い出されたといいます。

やがて、

ホノアカリが亡くなり
饒速日が後を継ぐと

ふたたび

アメミチ姫を娶ったといいます。

 

そのときに、

タクラマロも呼び戻した

といいますが、

タクラマロは応じずに、
クマノに隠れ住んでいたようです。

 


タクラマロの
父・カゴヤマは、
 

「橘統み(カグツミ)」という
富士山の管理をする
一族だったようです。

 

天照大神にゆかりの深い

富士山(ハラミ山・橘山)を

 

大和に遷したのが

天香久山(あめのかぐやま)だと

いいますから、


カゴヤマは、
天香久山の管理を

していたのでしょうか。

 



宇陀をおさえた
神武天皇に、

天香久山の土で

器をつくって神饌を祀れ

というお告げが

あったといいますが、


カゴヤマの直系である

高倉下が味方にいたということも
神武天皇の正当性のひとつ
だったのかもしれません。

 

神代と人代の

『クマノ』をみてきて、

 

熊野の神々が

すこしみえてきたようです。

 

次回は、ようやく

熊野本宮へゆきます。

 


紀伊国の熊野めぐり④ へ つづく

 

 

↓よければクリック

↓お願いします。


神社・お寺巡りランキング

 

 

☆熊野めぐり全記事リスト☆

紀伊国の熊野めぐり① ~玉置神社~
紀伊国の熊野めぐり② ~クマノ・神代~
紀伊国の熊野めぐり③ ~クマノ・人代~
紀伊国の熊野めぐり④ ~熊野本宮大社~
紀伊国の熊野めぐり⑤ ~大斎原~
紀伊国の熊野めぐり⑥ ~熊野那智大社~
紀伊国の熊野めぐり⑦ ~青岸渡寺~
紀伊国の熊野めぐり⑧ ~那智の滝~
紀伊国の熊野めぐり⑨ ~熊野速玉大社~
紀伊国の熊野めぐり⑩ ~花の窟神社~
紀伊国の熊野めぐり⑪ ~熊野三山~
紀伊国の熊野めぐり⑫ ~カグツチ~