山背国の宇治めぐり⑤ ~宇治墓~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

宇治上(うじがみ)神社
1キロ北東にある
宇治(うじ)墓です。

宇治川(うじがわ)
ほとりにあるここは、

菟道稚郎子命
(うじのわきいらつこ)の
墓とされています。



第15代・
応神(おうじん)天皇
皇子であり、

後継者として寵愛された
菟道稚郎子は、

母・矢河枝比売(やかわえひめ)
故郷である宇治に
暮らしたといいます。



宇治は
武振熊命(たけふるくま)を祖とする
和爾(わに)氏の地であり、

和爾氏の巫女であった
矢河枝比売を
応神天皇が見初めたといいます。



古事記によれば
婚姻の夜には
酒をかわしたのち

応神天皇はこう
詠ったようです。


このかには いずくのかに
許能迦邇夜 伊豆久能迦邇

ももづたふ つぬがのかに
毛毛豆多布 都奴賀能迦邇

よこさらふ いづくにいたる
余許佐良布 伊豆久邇伊多流


いちぢしま みしまにつき
伊知遲志麻 美志麻邇斗岐

みほどりの かづきいきづき
美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐

しなだゆふ ささなみちを
志那陀由布 佐佐那美遲袁

すくすくと わがいませばや
須久須久登 和賀伊麻勢婆夜


こはたのみちに
許波多能美知邇

あはししをとめ
阿波志斯袁登賣

うしろでは をだてろかも
宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母

はなみは しひしなす
波那美波 志比斯那須

いちひヰの わにさのにを
伊知比韋能 和邇佐能邇袁

はつには はだあからけみ
波都邇波 波陀阿可良氣美

しはには かぐろきゆゑ
志波邇波 邇具漏岐由惠

みつぐりの そのなかつにを
美都具理能 曾能那迦都爾袁

かぶつく まひにはあてず
加夫都久 麻肥邇波阿弖受

まゆがき こにかきたれ
麻用賀岐 許邇加岐多禮



あはししをとめ
阿波志斯袁美那

かもがと わがみしこら
迦母賀登 和賀美斯古良

かくもがと あがみしこに
迦久母賀登 阿賀美斯古邇

うたたけだに
宇多多氣陀邇

むかひをるかも
牟迦比袁流迦母

いそひをるかも
伊蘇比袁流迦母




応神天皇はみずからを
蟹(かに)にたとえて


わたしは
敦賀(つるが)から
横ばいにあるき

琵琶湖の
竹生島(ちくぶじま)
沖島をぬけて

南西沿岸の
ササナミにつき、

鳰鳥(忍坂皇子)
潜った(流れた)という
瀬田川(せたがわ)
をくだって

木幡(こはた)村に
ついたところ
うつくしい蟹に逢った。

背中の甲羅はちいさく
(後ろ姿も可愛らしく)
ハサミの刃(歯)ならびも
とてもよい

和爾(わに)坂の
土のように

表の赤すぎる土でもなく
底の黒すぎる土でもなく

中ほどの
うつくしい赤土を

火であぶって
眉(繭=殻)を描いたような
うつくしい蟹だ。

こんな女性に
逢いたいと思っていた

こんな女性と
いま向かい合っている。

 

という

歌だったようです。

 



もしかすると
和爾(わに)氏の姫にたいして

応神天皇の曽祖父にあたる
迦爾米雷命(かにめいかづち)
ひきあいにだし

ワニとカニで
ともに海人族だと
いっているのかもしれません。

また、
眉や身体に紅をひいた姿は

祭祀用の化粧のことかもしれませんが、

橋姫(はしひめ)伝説にある

身体を赤く塗って

鬼の姿をまとった女とも
重なりそうです。



しかしながら
莵道稚郎子の宇治墓には
諸説があるようです。

日本書紀によると

莵道稚郎子の遺体は
宇治の山に納めたとあり、

河岸にあるここでは
記述があわないといいます。




そもそも、この古墳は
『浮舟の杜』とよばれ
円墳だったものを

明治時代になって
前方後円墳に作りなおして
莵道稚郎子の墓としたといいます。

それまでは
大吉山(だいきちやま)の

となりにある

朝日山(あさひやま)の

山頂が墓とされており

いまでも

石碑が残っているそうです。

 



また、
大吉山の北にある
宇治二子山
(うじふたごやま)古墳や

木幡(こはた)村にあったという
五ケ庄二子塚
(ごかしょうふたごづか)古墳も

 

莵道稚郎子の墓だと

いわれているようです。

五ケ庄二子塚古墳はかつて
宇治でもっとも巨大な

前方後円墳だったといいますが、

 

いまでも半分以上が

失われているようです。



日本書紀によれば、

莵道稚郎子が亡くなったあと
兄・仁徳(にんとく)天皇が
駆けつけて悲しんでいると

莵道稚郎子は
息を吹き返したといいます。


これは天命ですから
わたしからもよく
先帝に伝えておきます。

もしできることなら
わたしの妹である
八田皇女(やたのひめみこ)を
後宮に入れてください。


そういってまた
棺に伏したようです。

この話はどこか
ホツマツタヱ
猿田彦(さるたひこ)と
天児屋根(あまのこやね)にも
似ている気がします。



ところで、
伊勢(いせ)神宮・内宮の
五十鈴川(いすずがわ)にかかる

参道の大橋も


宇治橋(うじばし)

というようです。

 

これは、もともと
伊勢神宮のある地を
『宇治』といっていたことに

由来するようです。

 


ホツマツタヱによると
中心や中軸のことを
「サコクシロ」というらしく、

伊勢には

天照大神の暮らした宮が

あったことから


「地上の中心となる内宮」=
『サコクシロウチ』と

呼ばれていたようです。

この、
『内(うち)』が
すべてを治めるという
『宇治(うち)』となり


「宇治(うじ)」に

なっていったようなのです。



さらに、
内親王のことは
『ウチヲキミ』とも
いっていたようですから、

もしかすると
「莵道稚郎子」は
「内親王殿下」

という意味だった
のかもしれません。

しかしながら、
莵道稚郎子が

宮をかまえる以前から

京都のこの地は
「うじ」とよばれていた
ようなのです。



そこには
橋姫(はしひめ)神社
瀬織津姫(せおりつひめ)

縣(あがた)神社
木花開耶姫(このはなさくやひめ)

関わっているのかもしれません。

この女神さまはどちらも

大山積(おおやまづみ)の

一族であり、


その祖である
サクラウチ」という方が

このあたりの領主だった

のかもしれません。

サクラ「ウチ」から
「うじ」となった、

ということもありそうです。

 



琵琶湖からつながる
巨椋池(おぐらいけ)という
巨大な池があったここは

海人(あま)族や

それにつらなる氏族も

暮らしていたことでしょう。



この主要な地に、
イサナギ・イナサミや
天照大神に仕えたという


サクラウチにはじまる

オオヤマズミ一族がいたとしたら、

とても面白いですね爆  笑

 

 

また、

桂川(かつらがわ)と

木津川(きつがわ)の

 

内側(うちがわ)にあるから

宇治川(うじがわ)になった

ともいうようです。

 

 

山背国の宇治めぐり ~終~

 

 

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山背国の宇治めぐり① ~橋姫神社~

山背国の宇治めぐり② ~縣神社~

山背国の宇治めぐり③ ~宇治神社~

山背国の宇治めぐり④ ~宇治上神社~

山背国の宇治めぐり⑤ ~宇治墓~