若狭国の水神めぐり① ~小浜神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

近畿の北には
若狭湾(わかさわん)という
巨大な湾があります。



入り組んだ海岸線は
湾内にさらにいくつもの
湾をつくりあげ、

漁場や港として
さかえてきたようです。

 



天橋立(あまのはしだて)

宮津(みやづ)や

軍港にもなった
舞鶴(まいづる)

氣比(けひ)神宮
敦賀(つるが)
若狭湾の港町ですが、

なかでも
舞鶴と敦賀にはさまれた
若狭湾の最奥部は

若狭国(わかさのくに)
といわれ

近畿の食をささえた国

だといいます。

 



第19代・
允恭(いんぎょう)天皇の世に

天皇の食膳係であった
稚桜部(わかさくらべ)
余磯(あれし)が
この地を治めたとされ

稚桜(わかさくら)部から
若狭(わかさ)国になった
ともいうようです。

とくに
小浜(おばま)には

国府があったとされ

 

比定地ともいわれる

総社(そうじゃ)神社は

若狭国の総社だそうです。

 



小浜湾にそそぐ
北川(きたがわ)を

さかのぼれば、

琵琶湖にそそぐ
石田川(いしだがわ)にも

ほどちかく

 

古代の流通の

要だったようです。

 



また、北川から
比良(ひら)山系

谷あいにある
 

安曇川(あどがわ)

京都へのぼるルートは
若狭街道というのですが、

これは通称・
鯖(さば)街道ともいわれ

足がはやいとされる
鯖(さば)を塩漬けにして
一日のうちに運び

京都のひとびとに
喜ばれたことから

この呼び名がついたといいます。



さらに、
北川の南にそそぐ
南川(みなみがわ)を
さかのぼって、

京都へ下るルートは
西の鯖街道とも
いわれていたようです。


こうした

歴史や流通の便もあって

若狭国は
淡路国(あわじのくに)
志摩国(しまのくに)とおなじく

朝廷に海産物を献上した
御食国(みけつくに)
となったようです。




そんな、
北川と南川にはさまれた
河口の州にあるのが

小浜(おばま)神社です。

 



小浜城の跡地にある
この神社では、

初代・小浜藩主である
酒井忠勝(さかいただかつ)を
祀っているといいます。

 



若狭の地は
食をささえるだけでなく

古来より
諸外国との交流の地
でもあったといいます。

敦賀(つるが)の由来にもなった
渡来人の
都怒我阿羅斯等
(つぬがあらしと)をはじめ

新羅(しらぎ)の皇子である
天日槍(あめのひぼこ)
伝承もあり

戦略的な要衝でも
あったようです。

 



ですから
若狭は古代より
さまざまな有力氏族が
治めていたといいます。

なかでも
酒井忠勝は

2代将軍・
徳川秀忠(とくがわひでただ)

3代将軍・
徳川家光(いえみつ)

4代将軍・
徳川家綱(いえつな)につかえ

老中や大老として
徳川家の基盤を築いたとも
いいわれるようです。



とくに、
家光とのゆかりが深く

家光が
16歳のころから
48歳で亡くなるまで
見届けたといいます。

ほかの大臣との協議には

寝巻で応対することもあった
家光将軍も、

 

酒井忠勝との協議には

着替えてからのぞんだというほど

礼を尽くしていたようです。

 

将軍みずからが

わが右腕と称えるほどの

大人物だったといいます。



酒井忠勝は
国政にあけくれ

若狭にはのべ
9ヵ月もいなかった
ようですが、

肚のすわった賢人
という人となりが

将軍家の見本になった
のかもしれません。

 



しかしながら、
身内に厳しい生き方は
自国にも厳しかったようで

農民への課税もきつく
洪水や飢饉もあいまって
一揆が起こり

義民が命をとして訴えた

という事もあったようです。

 



とはいうものの
小浜藩の礎をきずいたのも
酒井忠勝であり、

明治の廃藩置県で

小浜藩がなくなるまで

250年にわたって

酒井氏が治めたといいます。

この地のひとびとにも
深く感謝されたからこそ


御祭神として
祀られているのでしょう。



ちなみに、
ともに祀られている
 

原初神の

天御中主大神

(あめのみなかぬし)は

妙見(みょうけん)信仰の名残で
北極星のことのようです。

航海の道しるべ
ということかもしれませんね。



小浜城を
完成させたのは
酒井忠勝ですが、

着工したのは
京極高次(きょうごくたかつぐ)
だそうです。

 



京極高次は
関ヶ原の戦いの功から
若狭国をまかされ

後瀬山城(のちせやまじょう)に
はいったといいます。

しかし、
あまりに便の悪いため
小浜城を築きはじめたようです。

 



京極高次は

浅井長政(あざいながまさ)の姉・
マリア(洗礼名)から産まれ、

浅井長政の次女・
初(はつ)を妻としたといい、

浅井家と
ふかい関わりがあるよです。

 



浅井長政には

3人の娘がいて、


長女・茶々(ちゃちゃ)は
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の
側室となり、

三女・江(ごう)は
2代将軍・徳川秀忠の
正室となったといいます。

まるで
宗像(むなかた)三女神
のようですね。



浅井家といえば
近江に拠点があった
ともいわれ、

琵琶湖の
伊吹山(いぶきやま)の神と
背をくらべたという

浅井岳(あさいたけ)の
浅井姫のはなしもあり、

負けた伊吹山の神が
くやしさのあまり

浅井姫の首を
きりおとしたところ

その首が
竹生島(ちくぶしま)になった
ともいわれますが、

ホツマツタヱによると

竹生島には
宗像三姉妹の長女が
眠っているともいいます。

(琵琶湖の沖島とも)



また、若狭の

後瀬山城には
浅井長政がいた

時代もあるようですから、

近江の琵琶湖と
若狭の小浜のつながりを

神話や歴史と
あわせてみるのも
おもしろいかもしれません。



ちなみに、

小浜城には

雲浜城(うんぴんじょう)という

別名もあるようですが

これはこの地がもともと

蜘蛛の浜といわれていたことに

由来するようです。


蜘蛛の浜が

雲の浜になったという

冗談みないな話ですね。

 

川と海にはさまれた

めずらしい水城だといいます。

 



ところで
若狭といえば

近畿五芒星という
ふしぎなレイラインの

中央線がとおる
北限の地でもあるようです。



この中央ラインは
水の道でもあるらしく

おおくの水源や
水神を祀る神社が
あるといいます。



ということで、


つぎは
若狭姫(わかさひめ)神社に
いってみます。

 

 

若狭国の水神めぐり② へ つづく

 

 

 

 

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