出雲国の八重垣めぐり② ~出雲大社 参道~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

出雲国一宮の
出雲大社(いずもたいしゃ)です。

 



ただしくは、
『いづもおほやしろ』
というそうです。



これは、
明治時代からの

呼び名らしく

もとは、

杵築大社(きずきたいしゃ)
『きづきのおほやしろ』

といわれていたようです。



素戔嗚尊(そさのを)
あとを継いで、

出雲(いづも)を治めていた
大己貴命(おほなむち)は、

朝廷から
国譲り(くにゆずり)
せまられたといいます。

 


オホナムチは
「宮をたてて祀ること」
を条件として

国をあけわたした
といいますが、

それがここ
出雲大社(杵築大社)

だそうです。



宮を「築いた」から
「きずき」とか、

地盤をかためるため
「杵(きね)」で「突(つ)」いた
「きねつき」からきている
ともいうようです。



大分県にある
杵築(きつきし)市は

木がながれ付いた
「木付き」からきている
といいますから、

出雲の杵筑も
朝鮮半島(新羅)から
木がながれ付いていた

のかもしれません。

 


 

もしくは、


東(き)にある
朝廷の使者が

 

西(つ)の出雲
着(つ)いたから

「きつき」
なのかもしれません。

 

松並木の参道は

かつて、

 

皇族や貴族や

勅使(ちょくし)だけしか

とおることができなかった

といいます。

 

いまでは、

松並木の保護のため

中央はとおらないように

しているようです。

 


参道東の神苑には
杵那築森(きなつきのもり)
がありました。

 

 

オホナムチの宮を

建てるときに使った


『杵』を埋めた地

だそうです。

 


 

杵那築神社とも

いうようですが、

 

社殿は

ありませんでした。


 

小川にぐるりと

かこまれているので

清浄な感じがしますし、

 

土が盛り上がっているので

古墳のようでもあります。

 

神々が集った地

ともいわれるようです。

 

 

出雲大社の祭神は


『大国主命(おおくにぬし)』

だといいます。

 

これは、
オホナムチのことですね。

少彦名命(すくなひこな)
とともに、

日本の
「地盤がため」をした神
とされるようです。



諱(いみな・本名)は
「クシキネ」だといいます。

これもまた、
「奇し『杵』」とするなら

日本を「築き」あげた
「杵築(きづき)」の神
なのかもしれません。

 



参道には
「ムズビのご神像」
がありました。

これは、
スクナヒコナに先立たれた
オホナムチが

幸魂(さきみたま)と
奇魂(くしみたま)に
出会ったシーンだそうです。


 

この魂は、のちに

御諸山(みもろやま)で

祀られたといいますから、

 

奈良にある

大神(おおみわ)神社

大物主神(おおものぬし)

のことのようです。

 

 

ただ、大物主神は

オホナムチの

和魂(にぎみたま)と

されているようです。

 

これは

「一霊四魂(いちれいしこん)」

といって、

 

霊魂には

和魂・荒魂・幸魂・奇魂の

4つの働きがある、という

考えかたからきているそうです。

 

 

出雲大社では

「2礼4拍手1拝」

という作法で

 

4回拍手をする

といいますが、これも

 

一霊四魂による

といいます。

 

 

出雲大社の参道には

4つの鳥居があるのですが

 

これも、

一霊四魂にあわせている

ともいうようです。

 

 

ただ、

出雲大社の本式では

『2礼8拍手1拝』

だといいます。

 

「八開手(やひらきで)」といって

8拍手するのだそうです。

 

八雲や八重垣や

八百万の神々に

かかっているのでしょうか。

 

ここにもまた

重要な意味が

ありそうですね。

 

 

こちらは、
「ご慈愛のご神像」
だといいます。


因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)
のようですね。

傷ついた兎を

救ったことで、

 

やがて妻となる

ヤガミヒメとの縁が

結ばれたといいます。

 


国つくりでも
おおいに働き、

小さきものにも
優しかったという

ご祭神の姿を
あらわしているのでしょうか。

 

こうした善政が、

出雲を豊かでおおきな国へと

発展させたようです。

 


ですから、

朝廷も出雲の地に

目をつけたのかもしれません。


朝廷はまず、

天照大神の子・
天穂日命(ほひ)

使者として
出雲におくったといいます。

 

これは朝廷も

最大限の礼をつくした

ということでしょうか。

けれども、

ホヒはそのまま

 

出雲に住みついて

帰ってこなかったといいます。

 

 

そこで、つぎに
ホヒの子である
大背飯三熊(おおせいいみくまの)
を送ったといいます。

しかし、これも
出雲に住みついて

帰らなかったようです。



そこで、つぎに
天若日子(わかひこ)
おくったのですが、

これも
帰ってきませんでした。

しかたなく、朝廷は
建御雷神(たかみかづち)
軍を派遣して

武力をもって
迫ったようなのです。



使者がことごとく
帰らなかったのは、

出雲を気に入ったから
のようですね。

また、
武力で迫られてからは

戦いを避けるために
国を譲ったようです。

 

そこにもまた、

苦渋の決断があった

のかもしれません。



国を譲ったあと、
オホナムチを祀る宮の
祭祀をまかされたのが

第1使者の
天穂日命(ほひ)だと
といいます。



やがて、

ホヒの子孫が
出雲国造となり、

いまでも
出雲大社の祭祀を
行っているそうです。

 



13代目は
野見宿禰(のみのすくね)
ともいわれ

土師(はじ)氏として
古墳つくりの氏族にも
なったようです。

 

天満宮(てんまんぐう)

菅原道真(すがわらのみちざね)

 

野見宿禰や

土師氏の子孫

だといいます。

 

参道には、

野見宿禰を祀る社も

ありました。

 

 

相撲の神さまとしても

知られていて、

 

ここでは相撲大会も

おこなわれるようです。

 

 

ホヒからつづく

出雲国造は、


17代目から
出雲姓をなのった
といいます。

ですが、
南北朝時代の
54代目のときに

千家(せんげ)家と
北島(きたじま)家に

わかれたようです。



本殿の西には
千家家を宗祖とする

出雲大社教
(いずもおおやしろきょう)
があります。

 

巨大なしめ縄や

巨大な国旗でしられる

神楽殿は、

 

千家家の

出雲大社教の施設

のようですね。

 

 

また、
本殿の東には
北島家を宗祖とする

出雲教(いずもきょう)
があるようです。

 

こちらも、

出雲大社とは

道をへだてて

つながっています。



ざっくりいえば、

出雲大社の祭祀は
千家家がおこない、

地元の祭祀は
北島家がおこなう
ようですね。

 

 

 

出雲国の八重垣めぐり③ へ つづく

 

 

 

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出雲国の八重垣めぐり② ~出雲大社 参道~
出雲国の八重垣めぐり③ ~出雲大社 本殿~
出雲国の八重垣めぐり④ ~千家家と北島家~
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出雲国の八重垣めぐり⑥ ~三歳社~
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出雲国の八重垣めぐり㉕ ~出雲国造 その2~
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