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感受の観察 心の観察 長部教典 第22経 大念処経(だいねんじょきょう)④
「身受心法」(しんじゅしんほう) 感受の観察・心の観察
長部経典 第22経「大念処経」(だいねんじゅきょう)のほぐし読みの第4話の感受の観察、心の観察になります。大念処経は、すべてが瞑想の教えになります。頭の中で身受心法を実修しているイメージで読み進めることをおすすめします。長いお経ですので、段落で分けて紹介します。ピンク色の文字は図解で解説がありますので、図解↓と連動して読んでみて下さい。
『大念処経ほぐし読み①』はこちらです
《感受に関して、感受を観察する》
それでは、修行僧たちよ、どのようにして感受に関して感受を観察するのだろうか?
ここに修行僧たちよ、修行僧は楽しみの感受を感じれば「わたしは楽しみの感受を感じている」と知り、
苦しみの感受を感じれば「わたしは苦しみの感受を感じている」と知るのです。
また、苦しみでもなく楽しみでもない感受を感じれば「わたしは苦しみでもなく楽しみでもない感受を感じている」と知るのです。
また、肉体的楽しみの感受を感じれば「わたしは肉体的楽しみの感受を感じている」と知り、
非肉体的楽しみの感受を感じれば「わたしは非肉体的楽しみの感受を感じている」と知るのです。
また、肉体的苦しみの感受を感じれば「わたしは肉体的苦しみの感受を感じている」と知り、
非肉体的苦しみの感受を感じれば「わたしは非肉体的苦しみの感受を感じている」と知るのです。
このように、内に、自分自身の感受ついて感受を観察し、
また、客観的に自分の感受について感受を観察し、
あるいは内と外、自分自身の感受について感受を観察していくのです。
また、感受の中で生起してくる現象を観察し、
また、感受の中で衰滅する現象を観察し、
また、感受の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ感受のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして感受について感受を観察するのです。
《心について心を観察する》
つぎに、修行僧たちよ、どのようにして心について、心を観察するのだろうか?
ここに修行僧たちよ、修行僧は、貪りのある心を「貪りのある心である」と知り、
貪りを離れた心を「貪りを離れた心である」と知るのです。
また、憎悪のある心を「憎悪のある心である」と知り、
憎悪を離れた心を「憎悪を離れた心である」と知るのです。
また、迷妄のある心を「迷妄のある心である」と知り、
迷妄を離れた心を「迷妄を離れた心である」と知るのです。
また、統一した心を「統一した心である」と知り、
散乱した心を「散乱した心である」と知るのです。
また、広大な心を「広大な心である」と知り、
広大でない心を「広大でない心である」と知るのです。
また、最高の心を「最高の心である」と知り、
最高でない心を「最高でない心である」と知るのです。
また、統一された心を「統一された心である」と知り、
統一されてない心を「統一されてない心である」と知るのです。
また、解脱した心を「解脱した心」と知り、
解脱していない心を「解脱していない心である」と知るのです。
このように、内に、自分自身の心ついて心を観察し、
また、客観的に自分の心について心を観察し、
あるいは内と外、自分自身の心について心を観察していくのです。
また、心の中で生起してくる現象を観察し、
また、心の中で衰滅する現象を観察し、
また、心の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ心のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして心について心を観察するのです。
ほぐし読み④ここまでおわり
身(身体は不浄)受(感受は苦)心(こころは無常)法(あらゆる物質は無我)
「四念住」の「感受の観察」「心の観察」
- 身受心法の「受」と「心」を観察する瞑想です。
- 感受は「苦」、心は「無常」を観察して、この世における貪欲や憂いの対象からの離脱や除去していく瞑想部分になります。
感受がでてくる他のお経を見てみましょう。
中部経典 第13経「大苦蘊経」(だいくうんきょう)
中部経典 第13経「大苦蘊経」(だいくうんきょう)
感受の味・・・四禅の実修で、悩害のない感受だけを感受する。
感受の苦患・・・感受は無常であり、苦であり、変化するもので苦しみである。
感受から離れる。
つぎに、「大念処経」ですべての観察の後にでてくる、「生起して衰滅する現象」の教えが出てくるお経を見てみましょう。
生起して衰滅する教えがでてくるお経
長部教典 第1経「梵網経」(ぼんもうきょう)
長部教典 第1経「梵網経」(ぼんもうきょう)
《生起して衰滅する現象の教え》
執着された常住論の見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、ブッタの覚りの教示を説法します。
「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」
これが、「深遠で見がたく、了知しがたいが、寂静で勝れており、思考と思惟を超えていて、微妙で賢者だけが理解できる諸法である。」そして、「このブッタの自ら悟り体現している教示を賞賛することが、ブッタをあるがままに賞賛して正しく語ることである。」
《生起して消滅(衰滅)する現象の解説》
ブッタの覚った十二縁起の、
すべて感受から煩悩が湧きおって「生起する」、
その執着から離れることが寂静の境地で「衰滅する」
ことが説かれています。
梵網経に書かれている内容に、
この「生起して消滅(衰滅)する現象」の教えはブッダをあるがままに称賛して正しく語ることである。
とでています!
「大念処経」ではすべての観察のあとに、この「生起して衰滅する現象」をブッダは説法をしています。
このことを踏まえても、
身受心法は呼吸を観察するだけが目的ではなく、煩悩の生起と衰滅を観察していき、十二縁起の理解を深めていくことが大事なのがよくわかります。
煩悩をなくして再生しないのがブッダの教えの目的なのです。
さらに補足すると、四諦の集諦の「苦の原因」の真理は十二縁起のことです。ブッダの教えは「苦」の真理の教え「四諦」だということをしっかり理解しなければいけないことが、たくさんのお経で教示されています。この大念処経の後半でも四諦の教えがきちんとでてきます。
これを理解したら、
観察の実践の「大念処経」のイメージをもちつつ、「梵網経」にでてくる「生起と衰滅」の部分を拾いながら読むと、さらに「大念処経」の理解が深まります。
それと同時に、間違った見解からも解き放たれていくことになりますね。
お経を繰り返し読んでいく事が、ブッダの教えの理解にとても大事になります。
つぎに、こころの教えが出てくるお経を見てみます。
こころの教えがでてくるお経
「貪りある心を、貪りある心と洞察します。貪りから離れた心を、貪りから離れた心と洞察します。怒りの心、愚痴の心、委縮した心、散漫な心、広大な心、無上の心、安定した心、解脱した心も同じように洞察します。」
《〇〇経 より》
1、梵網経
2、沙門果経
3、聖求経
答えのお経の部分を読めば、「大念処経」が”自分を観察する瞑想”だというのがよく解りますよ!
しかし、ブッダの教えをクイズにしちゃって、、。まったく、、、!
ほかのお経では教えで出てきて、「大念処経」では瞑想の実践ででているんだね!
ブッダの教えのお経は、ばらばらの教えではなく、繋がっている(関連している)ことを理解してもらいたいからついついクイズにしちゃったよ、、、。
逆に言うと、「このお経がすべてだ!」「このお経だけだ!」「このお経のここにしか書いてない!」という固執も、もたなくていいということですね!
ちなみにクイズの答えは「沙門果経」の神通力を得た他心智にでてきますよ!
「沙門果経」も仏教修行に役に立つ大事なお経ですので、ぜひ読んでみて下さいね!
仏教を学ぶなら、ブッダを称賛する「生起して衰滅する現象」の教えを理解していきたいですね!
翻訳する先生によって消滅と訳されたり、衰滅と訳されたりしています。