こんにちは、絶學無憂です。

 

前回の続きです。

 

幼児期に親から虐待を受けたという依頼者の方で、「諦め」というまさに積年のテーマがあり、あちこちのカウンセラーやヒーラーのところへ行って巨額を費やしてきたが、どうにもならない。0から10のスケールでこの「諦念」の強さは「10以上」だということでしたが、5分間の遠隔レイキを13回行って、この感情ストレスや、これに関わる観念、そしてゴールへの抵抗がすべて0になりました。

 

 

さて、いよいよ皆さんお待ちかねの、私の失敗談を紹介する回がやってきてしまいました。これを読んで、読者は失望し、依頼は激減するかもしれませんが、やはりネガティブ体験のほうが意味があると思ってしまうので、記事にしてしまいます。

 

ここまでこれほど順調に進めながら、依頼者の方も当然、長年の懸案が解決したと大変喜んでおられたわけですが、一体私は何をやらかしたのでしょうか???

 

 

すべて終わったあとで、私は軽い気持ちでふたつ依頼者の方に質問をしました。このたったふたつで、それまでに築いた信頼関係が全部崩れてしまいました。

 

一体何を聞いたのか?

 

この部分については私自身の言葉ですので、こちらに転載します。

 

記事にするときのために伺いたいのですが、ざっとこれまでどれくらいカウンセラー・ヒーラー・セラピストに費やしたか、って教えていただくことはできますか?話を盛り上げるのに使えるという下世話な興味ですいませんが。

あと、これも記事に書くときのため、虐待を受けたのがご両親だったのか、父親か母親かというのを教えていただくことはできますか?ここをぼやかして書くとわかりにくい文章になるかと思いまして。

 

今思い返しても、これは相当に軽い気持ちで尋ねました。もし都合が悪ければ断って来るだろうと。

 

ここに至るまではどう考えていたかというと、感情解放を行うに当たってはテーマの他のことは一切知る必要がないし、興味もない、と思って、脇道にそれずに13回遠隔レイキを行っていたわけです。ヒーラーとしての私は、テーマになっている感情ストレスがどうなるかにただ注目していました。

 

ではなぜここへ来て、方針転換して余計なことを聞いたかというと、ヒーラーとしてではなく、ブロガーとしての私が顔を出したので、興味が変わったと言えると思います。記事にすることを想像したときに、盛り立てて一般読者のアクセスが増やせないか、というように考えたのですね。さすがに、それまでのヒーラーとしての自分とに、自分でも立場にギャップを感じたので「下世話な興味ですいませんが」と付け加えました。

 

ところが、これを読まれた依頼者の方がどう感じられたかというと、「傷つき、信頼も無く」なってしまったのでした。

 

プロのカウンセラーであればこの点は徹底しているので、このような軽率なミスは決してしないだろう、今後このような活動を続けるならばこの点は気をつけてください、と信頼関係が壊れた後にも関わらず非常に丁寧に伝えてくださいました。もし傷が深い状態であったならば、このような軽率な言葉で、大変なことになってしまった可能性があると

 

 

実は当初は、大変なことになったかもしれない、というのを読んでもあまりピンと来ませんでした。

 

というよりむしろ、非常に驚いていた、というのが正直なところでしょう。なにか自分がまずいことを聞いたという意識もこの時点ではあまりありませんでした。

 

ともかく自分がヒーラーでありながら相手の感情を害してしまったのは明らかだったので、その点を謝罪しました。たとえば掃除人が掃除が終わった後にゴミをほったらかしにしていくのは褒められたものではありませんが、同じことです。

 

その次に、上に書いたように、ブロガーとしての意識で問題の質問を尋ねてしまいました、ということの説明を試みました。説明してもあまり意味はない、むしろ自分を正当化しているだけのような気もしましたが。

 

この時点では、意外感が強かったんですね。

 

いくら私が変人と雖も、私も、傷を負った人が、傷をみだりに触れられれば痛みを生むというのはもちろん承知しており、だからこそセッションの間は一切そういうことはこちらから聞こうとしませんでした。

 

セッションの途中で、過去の記憶についてはタッピングやその他でさんざん扱ってきており、もはや思い出そうとしてもあまり蘇ってこない、というお話もあり、ということは、この方は、「過去」についてはもう解放が済んでいるんだな、という理解でした。よくよく考えればそんな簡単ではなかったというのは明らかなのですが、楽観的にそう思ってしまっていました。その上でまだ未解決で現在まで続く「諦念」という大きな山があって、今回はそれを撤去することに幸いにも成功したわけです。

 

 

たぶん誰もが「そんなアホな」と思われることでしょうが、セッションが終わった時点での自分は、もう過去も現在も解決してしまったんだから、この虐待の周辺の山は全部なくなってしまって平坦になっている、と本気で思っていたのでした。そうであれば、もう本人にとってはそのことはどうでもよい扱いになっているはずだから、アクセス数を増やそうという下世話な興味(アクセス数が増えれば結果的にはこういう知識に触れる人が増えるのですが)にも多少付き合っていただけるだろう、そんな風に能天気に思っていました。

 

 

ところが、実際には、今回扱った部分はたしかにゼロだったかもしれませんが、その周辺部分にはまだかなり残っているような状態だったのでしょう。そんなことも気づかずに私が無神経なことを聞いてしまったため、結果的にはこの残っている部分がモロに反応してしまい、新たに強い感情ストレスを体験させてしまうことになった、というのが起こったことだと思います。

 

感情 = 出来事 × 観念

 

という公式から考えれば、この青線で描いた山こそが「観念」ということになるでしょう。

 

私が驚いたというのは、私が愚かなだけだったといえばそうなのですが、「まだそこにそんなに残っていたのか?」という私の側の認識のズレでした。そして自分の視点がそこにある限りは依頼者の方が感じたであろう痛みはあまり伝わってきませんでした。

 

ところが、ブロガーの視点で聞いてしまいました、ということを書いてから、その後になって数時間の間に、ようやくジワジワと自動的に、「いや、これは相当に危険なことをしてしまったぞ」ということが分かってきました。やっとそこに共感できるようになってきたということです。胸のあたりに温かいものを感じつつ、わずかとはいえ、痛みを感じたのですが、胸で感じたというところからハートチャクラが関係がありそうです。それまでは結局、自分に都合の良い方の視点しか見られていなかった。

 

依頼者の方の文書からしか想像できませんが、わずか数行の私の何気ない言葉で相当な痛みを感じられたようです。たいへん、申し訳ないことをしてしまいました。私がこれをしなければ、残っている部分についても、それこそこういうことが起こらないように、引き続き感情解放を続けることはできたでしょうから、そういう意味でも残念なことになってしまいました。

 

次回はさらになんでまた私がこれほど能天気な勘違いをやらかしたかを考えてみます。