こんにちは、絶學無憂です。

 

この呪さん改め祈さんシリーズでだいぶ引っ張ってますが、もっと行きます(笑)。

 

前回からの続きです。

 

許可を頂いて、公開コメントのやり取りを転載してこのシリーズを始めてしばらくしたところで、祈さんから「待った」が入りました。「羞恥心や罪悪感しかわかないです。」「おもちゃにされてるような気分です。」と。記事を削除してもよいのですが、削除か続行かどうしましょうか?と尋ねたところまでが前回でした。

 

二度までも気分を害してしまったわけですから、削除するのもしょうがないと思って返事を待っていたのですが、.... まあ、皆さんが今これを読んでいるということは、結果は予想が付きますよね。

 

セラピーを行い、信頼を失ってしまった事、
私の感情的なコメントや
また今回のコメントが来たこと、
エゴについてや「まんなかか、そうでないか」など
複数ありますが


そこから新たに向かうべきところ(テーマ)は
どこでしょうか?


普段は私、他人のブログに
真剣にコメントしないたちなのですが
不思議に思います。




また前回のコメントで
「セラピー業界というのも実はそんなに好きになれないところがあります」とありましたが
私も長年そういったものを学んできましたが
ここ最近では興味がなくなりつつあります。



もしかすると私自身もどこへ行けばいいのか
わからなくなっていて
比喩的にコメントしてるのかもしれませんね。
個人的なことですみません。



続行か、削除かは
せっかく書いてくれたものなので
大切に残してください。

 

続行してください、というお返事をいただきました!

 

またお叱りを受けての削除を覚悟していたのですが、ありがとうございます。またしても意外な展開に少々驚いています。続きを書くのもハードルが上がってしまいましたが。

うーん、たしかに何がしたいんでしょうね。

なぜか分かりませんがこの一連の事件をうやむやにしてはいけない気持ちもあるのです。

やはり、極性のない状態=まんなかの状態は素晴らしい、これはお伝えする価値がある、と思って再出発したブログですが、単に個人的にこうでした、と日記を書いているところから、まだままごとみたいなものとはいえ、感情解放を副業にしたところで、ちょっと性質が変わってきたかもしれません。

少なくとも、極性がないことにこだわることで極性を作り出すという器用な芸当を私のエゴはできてしまう、っていうことはここまでで気づかせていただきました。

こういう人間間のトラブルについて書いて、それが分離エネルギーで炎上せずに、統合的な方向へ向かうことはできないか、とやはり思っているんですが、力不足でそうはならないかもしれません。

それも相手の方(祈さん)にどうこうというよりも、ひたすら自分の観念の手放しだけで何か出てこないかと思っております。

 

> 「セラピー業界というのも実はそんなに好きになれないところがあります」とありましたが
私も長年そういったものを学んできましたが
ここ最近では興味がなくなりつつあります。

自分も同じ穴の狢になってしまったので発言しにくくなりましたが、人の悩みごとをお金に換えていると考えると、結構きわどい商売だと思います。依存を作り出した方がリピーターとなって儲かる構造ですし、悩む人を助けるという立場の違いがもうすでに極性を作り、エゴがにょきにょきと出てきます。みんなが幸せであれば本来はこんな職業はないほうがよいでしょう。そういう意味では本業のほうが好きです。

でも一方で、上手にやればお互いにハッピーになってエネルギーの交換も行われます。そこには文句のつけようがありません。

また身の回りでもあまりにも悩み事を抱えている人が多いのも事実です。知識があればそこから抜け出せるのにそれも知らずに。

以前はそういう人を助けねばならん!!!という気負いがあったので、かえってうまくいっていませんでしたが、彼らは彼らで好きでそういうことをやっているんだ、というのがゆっくりと分かってきたところです。

とりとめがなくなっていますが、またお気づきの点がございましたらコメントを下さると大変ありがたいです。

 

絶學無憂

 

 

私事ですが
何年か前に賢者テラさんの本を読み
面白くてそのまま阿部敏郎さんや大和田菜穂さんの
講演会に足を運んだりしていましたが


悟ったものと悟ってないものでは
やはり限界があり、
こちらの世界は
知識だけに置いとくことにしました。



確かに知識を持っているだけで
救われるものはあると思いますが
どうしてもその一歩先に行けません。


というのも
私は毎回何年も同じことを繰り返してしまうのですが
いつもそれがネガティブな結果になってしまう傾向があり
(どうしても自分でその結果を選んでしまう)



それを観察していくと
瞬間瞬間のタイミングで何かが意識上にのぼり思考化し
体は無意識に動きやはり無意識の中の潜在意識などがそうさせているように
るように思いました。
脳科学でもありますが
意思よりも体が先に動いているような感じです。

全ては瞬間のタイミングであり
どうも何かに操られているような気がしています。


それは何か見えない力なのか
ただの自分の思い込みなのか


先日心屋仁之助さんのブログで
「コーチングvsカウンセリング」というのを
読んだんですが、やはり「前提」の部分が大事で
そこが変わらない限り同じ事を繰り返す日々にあります。



何らかの体感でもない限り変えられないものでしょうか?

 

 

ここへ来て初めて、祈りさんがご自身のテーマのことを書いてくださったんですが、なんらかのアドバイスを求められる形となり、どうやって答えたものかと一日ほど思案しました。

 

ご体験をお話しくださってありがとうございます。

どのようにお返事したものか、思案しておりました。

「悟り」の話は釈迦以前からなので2600年以上ずっと語られているわけですが、知識だけで得られるものではない、ということは、多くの人が昔から語っているところです。

たとえば、仏教のシステムでは、経文を学ぶだけではなく、宗派によっていろいろではありますが、座禅やヴィパッサナー瞑想といった瞑想法が重視されてきました。

阿部敏郎さんの本は読んだことがあるのですが、彼は瞑想の指導をしていますし、お読みになられた事があるのだと思いますがエックハルト・トールも瞑想の重要性を強く訴えています。

私も2012年末から2016年くらいまではほとんど毎日瞑想しておりました。ヘミシンクという音源を使って仕事の前に15分くらい、思考を途切れさせる訓練をしていました。

最近はもうあまり必要性を感じなくなったのでやめてしまったのですが、毎回とは言いませんが、瞑想中に今ここへ集中するとはやはり日常では味わえない感覚があります。

あくえりあんというひとが昔ブログを書いていてそれをよく読んでいたのですが、彼は引き寄せの法則を使って守護霊とのチャネリングに短期間で成功し、その後守護霊の指導の元で瞑想を続けて、比較的短期間で悟り体験を得たという人でした。彼の言うには、瞑想というのは全自動の観念手放しであると。どの観念を手放しているかとかは自分ではわからないが、全自動でそのプロセスが進むのだ、と言っていたように思います。

3–4年瞑想をしている間にあるいは私の中にいっぱいあったはずの爆弾の除去が進んでいたのかもしれません。その後で、強烈なしっぺ返しがあって、家庭崩壊を体験しますが、その後の解放がスムーズだったのは、強烈な爆弾を抱えていたために揺れが激しかったものの、爆弾の数ではすでに少なかったからかもしれません。

このブログでももう少し瞑想を推したほうがよいのかもしれませんが、今自分がもうあまりやっていないので、関心が薄くてあまりできておりません。

ヘミシンクに言及したので、少し解説を加えます。

 

ヘミシンクというのは、hemi- 片側の、sync 同期という造語で、右半球と左半球の脳活動が同期するという意味だと思いますが、ロバート・モンローという実業家兼幽体離脱研究家が開発した、特殊な意識状態を作り出すための音源のことです。ヘッドホンで、右の耳と左の耳に、ほとんど同じなんだんだが、僅かに周波数の違う音を別々に聞かせる(binaural beat バイノーラルビート = 両耳性唸り、と呼ばれます)と、その周波数差に相当する音を主観的に体験するという、いわば音の錯覚です。

 

例えば、右耳には「440Hz」、左耳には「445Hz」と微妙に高さの異なる音を聞かせると脳の中で音が合成されて差分である「5Hz」が生じ、瞑想状態などにみられる「θ(シータ)波」を誘発するといわれており、リラックス効果やヒーリング効果があるとされています。

 

ヒーリング効果があるとされる「バイノーラルビート」は実際の脳波にどんな影響を与えているのか?

https://gigazine.net/news/20150624-binaural-beats/

 

両耳性唸り自体は、生理学的にも研究対象になるくらいのよく知られた現象ですが、この頭の中でだけ作られる音が、その周波数に脳波を同期させるような効果がある、と言う部分がヘミシンクの「理論」となっています。ところが、上の記事の検証実験ではまったく効果が認められていません。本当のところはどうなっているのか、私も自分で装置を買って検証実験がしたいくらいですが、そのためには副業の収益をもっともっと上げる必要がありますな。

 

スピ関係でヘミシンクを聴かれている方は、バイノーラルビートが脳波を同期させる、と聞いてそれ以上疑うこともない、という人がほとんどだと思いますが、こういうところはもっと関心を持って明らかにしていくべきだと私は思います。

 

ちなみにロバート・モンローの作ったモンロー研究所では、この手のヘミシンク音源に関する研究を沢山やっているはずですが、私の知る範囲では、その研究結果があまり公にされていません。もしご存知の方がおられたらコメント欄でお知らせください。

 

 

ヘミシンクの中心をなすのはCD何十枚にもなる「ゲートウェイ」という幽体離脱訓練用の音源で、これを段階的に聞いて脳を慣らしていくことで、幽体離脱が可能になっていくというものですが、実際にこれで幽体離脱するようになったという人がかなりの数おられるので、科学データがどうあれ、意識状態へ特殊な作用があるのはほぼ確かだろうと私は思っております。

 

個人的には、幽体離脱目的ではなく、瞑想のサポートとしてヘミシンクを利用していました。「ゲートウェイ」の中のフォーカス15と呼ばれる「時間のない状態」が、ちょうどエックハルト・トールの語る「時間は幻想だ」というという話とよく合うこともあって、とても気に入っていました。日本にいた頃は、毎朝これか、あるいは、Eternal Nowというアルバムの Vertical Driftというのを聞いてました。

 

海外生活を体験して日本人の集合意識の束縛からの解放を体験したときに、主観的な時間が遅くなるのを体験し、これがもう何にも勝るほどの至高体験だったので、そこから瞑想というものへの興味が湧いたのですが、日本へ帰国するとき、再び日本社会に蔓延する集合意識に絡め取られて元の木阿弥になるようでは嫌だと思っていました。ちょうどその頃にエックハルト・トールの本に出会い、瞑想を始めたのでした。結果、日本でユニクロを来て暮らしながらも、しばしば人からは「日本人じゃないですね」と言われ、異邦人生活を満喫できました。

 

再び日本を出てからはあまり必要を感じなくなって、ぱったりと瞑想の習慣をやめてしまいました。

 

 

が、日本を出て体験した、時間が遅くなる至高体験を再び味わいたい!という願いは、瞑想によって達成できたと言えます。なぜ日本を出たことでそのような体験を得たのかということに関しては、エックハルト・トールの本に答えが見つかったのですが、「言語の不自由さ」というのが鍵だったと思っております。

 

日本語の通じない世界へ来て、しかも目に入るものの名前が分からないような状況というのは、実は小さい子供の体験している世界と非常に似ています。

 

みなさんも子供の頃は一日が長かったなあ、夏休みなんか永遠のように感じられたなあ、というのを覚えておられるでしょうが、年齢とともに主観的な時間の流れが加速するというのは、ひとつには言語の獲得と関係があろうと私は考えております。

 

実際、英語圏で暮らすようになって一年経って、その間毎日三時間英語の発音と聞き取りのトレーニングをした結果、英語耳ができ、周囲の言葉が耳から入ってくるようになりましたが、これとほぼ時期を同じくして、この魔法のような、時間の流れの遅い世界は終焉を告げ、日本にいた頃と同じような忙しいペースへと戻っていきました。

 

 

言葉を知ることによって、大人は効率的に情報のやり取りをしている、と言えますが、言葉を知ることによって、「今ここだけの生の体験」をスキップしてしまう、ともまた言えます。

 

 

ちょっと実験してみると面白いと思いますが、目の前にあるもの、なんでもよいですが、たとえばコップがあるとして、それがコップだ、と名前をつけてしまうと、「ああ、コップね、知ってる、知ってる、それが?」という感じで、スキップしてしまいます。これが大人が日常的にやっていることです。ともかくいろんなものを片端からスキップしています。

 

ところが、「それがコップだ」という認識を、意識的に妨害してみます。「コップだ」の代わりに、「ホケホケだ」と宣言して、あるいは「なにかだ」と宣言して、その「コップ」を見てみると、たったそれだけで、コップの存在感が増すはずです。

 

コップという名札を妨害することで、「今ここ」の世界への扉を開いたのだ、と言えると思います。おや、「ホケホケ」は実はこんな色をしていたんだ、こんな光沢があったんだ、とかそれまで見えていなかったものが次々に見えてきます。

 

これはエックハルト・トールのニュー・アースの中に出てくるエクササイズですが、私は通勤途中や帰宅途中によくこれをやります。ほんのちょっとだけ意識を変えて、名札だらけの世界から出て、今ここに何があるんだろうというのを自転車に乗りながら見るのですが、アスファルトに映る木漏れ日の動く様、自動車の車体に映り込む空の色、公園の木々の葉が複雑に折り重なる様子、などいろんなものがポンポンと入ってきて、いちいちその精妙さ、完璧さに感動を覚えます。

 

 

これがすべて自分の意識が反映された仮想現実(バーチャルリアリティ)なのだ、と思うと、尚更そのクオリティに圧倒されます。(ロバート・シャインフェルドの「「ザ・マネーゲーム」から脱出する法 」にこういう考え方の効用が詳しく書かれています)。

 

 

これも、ニュー・アースに出てくる例ですが、ヴァン・ゴッホの有名な椅子の絵があります。ロンドンのナショナル・ギャラリーに展示してある実物が無料で観られますが、なぜただの椅子の絵がこれほど有名になり価値があるとされているのか。ゴッホの筆は、椅子という観念ではなく、この椅子の「存在」を捉えてキャンバスに留めることに成功したのだろう、ということでした。上のような実習をして、名札を外すことの効果を体験した人にはこの意味が伝わるのではないでしょうか。

 

 

というわけで、最近は瞑想をしなくなってしまったので、必然的に記事にすることがあまりないのですが、瞑想はオススメです。欧米では驚くほど社会に浸透しています。日本は座禅の伝統がありながら、オウム真理教事件の傷もあり、瞑想=危険という認識が広まってしまったため、瞑想後進国になってしまっています。

 

座って目を閉じるような瞑想ではなくとも、私が自転車の上でやるような、名札を外して世界を見る、というのも、瞑想の一種と呼んで良いでしょう。そしてこれをやっているときは自動的に、それまで過去と未来の時間軸上へ分散していたエネルギーが、今ここへ集中しますので、過去への後悔や、未来の心配を同時に保つことはほとんどできません。

 

ではまた。台風に気をつけてくださいね。