摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

蹉跎神社(さだじんじゃ;枚方市南中振)- 摂津三島の地に今もその名を留める出雲のサルタ彦大神 -

2020年01月04日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

 

枚方市という事で車で行ったので、京阪電車の線路沿いから、「郷社蹉跎神社」の石標のある交差点で曲がって蹉跎参道に入るのですが、これが車一台しか通れない、とても細い参道。こわごわ進んで一の鳥居をくぐり、二の鳥居の手前で右に曲がって神社の駐車場に辿り着きます。この参道は一方通行ではなく、地元の方は対向車の様子を伺いながら要領よく往来されていました。

 

・二の鳥居

 

蹉跎(さだ)天満宮、蹉跎山天満宮の別名をもつ事から分かるように、ご祭神は菅原道真公。ご由緒は「蹉跎神社縁起」により、901年に道真公が九州は筑紫の大宰府に御左遷された際に、途中この地の山にてご休憩され、京の都を望んで深く名残を惜しまれ、さらに西へ旅立たれました。道真公が京を出発する日にその悲報を知った、道真公が特に寵愛されていた娘、苅屋姫が父を追ってこの地まで来ましたが、既に出発した後した。西の遠くに見える、父の乗る屋形船を見て、口惜しさに地団駄踏み、足摺り(さだ)して悲嘆されたので、その旧跡が蹉跎山と呼ばれるようになりました。

 

・厳かな雰囲気の石段

 

この話を知った道真公は娘を不憫に思われ、三尺二寸の御座像を作らせ、送り与えられると、この地の村人がこの山に社殿を造営。この地の総社としてその座像を斎祀ったのが951年でした。境内には聖徳太子開基の伝承を持つ龍光寺もありました。なお、当時道真公が訪れた場所は、「管相塚」と呼ばれる現在の寝屋川市管相塚町で、今は説明板が有るのみだそうです。1614年の大坂冬の陣の兵乱の際に、当時の社殿は炎焼してしまましたが、ご神像は無事だったので、現在地に遷座して宮寺の龍光寺と共に社殿が再建されます。明治以降は郷社に列せられ、1889年に社殿を改築し現在に至ります。

 

・境内と拝殿。灯篭がなかなか立派です

 

現在、一般に説明されている史話は上記の通りのようですが、それではなぜ道真公がこの地に来られたか、なのです。蹉跎神社を地図で眺めてみますと、なんと溝咋神社三島鴨神社などの鴨氏系神社~そしてその大元は東出雲王家...~と一直線に並んでおり、その方向は、新屋坐天照御魂神社の西福井西河原社を結ぶラインと平行する、大和岩雄氏の言う冬至の日の遥拝線にあたっているように見えるのです。

 (以上、参考文献:神社掲示説明、枚方南支部ホームページ委 員会”枚方の神社”、谷川健一編「日本の神々 摂津」)

 

・拝殿は靴を脱いで上がってお参りします

 

 

以前にも記載しました通り、菅原道真公の菅原氏はあの野見宿禰を始祖とする古墳築造集団の土師氏の後である事は一般にも言われていますが、東出雲伝承によれば野見宿禰(高槻市に見神社が有ります)は東出雲王国・富氏(向氏、その大和の分家が登美氏)の最後の王だったと云います。そして、”さだ神社”と言えば、出雲の松江市に同じ読みの佐太神社が、鎮座しています。その佐太神社は、”主祭神佐太大神は出雲国で最も尊いとさる四大神の内の一柱で猿田彦大神と御同神です”と明確に説明ています。

 

・本殿

 

「出雲王国とヤマト政権」で富士林雅樹氏は、”(出雲から三島に帰った)活玉依姫には、息子のクシヒカタ(鴨主命、登美氏始祖)と二人の娘タタライスズ姫、イスズヨリ姫がついて行った。また大勢の出雲人がついていったので、三島周辺の高槻市から京都府向日市にかけての一帯は、富王家の領土のようになった”と書かれています。さらに、”枚方市には蹉跎神社がある。サダという言葉はサルタ彦大神の意味であるので、サイノカミがその地に祀られていたと考えられる”とも説明されています。

 

 

・摂末社。春彦神社、金毘羅神社、皇大神宮社

・稲荷神社

 

以上からの憶測として、蹉跎神社創建前からこの地にサルタ彦大が祀られていたので、道真公はこの地の祖先神をお参りされたのではないでしょうか。高槻市の野見神社でも良いように思いますが、苅屋姫伝承によれば船で移動していたようなので、淀川に近いこの地が休憩所として選ばれたのでしょうかね。


・拝殿向かって左側に遥拝所がありますが、京都の方は見えません

 

上記で溝咋神社~三島鴨神社~蹉跎神社の冬至日の出遥拝線に触れましたが、その西の先には新屋坐天照御魂神社の宿久庄社が乗っているように見えます。そして新屋三社の間も、夏至、冬至日の出遥拝線が存在します。前者は出雲系登美氏の神社、天照三社はアマ氏(海部氏、尾張氏)の始祖、天火明命をご祭神とする神社です。「出雲王国とヤマト政権」では、”出雲勢力とアマベ(アマ)勢力は協力して、政治的共同体をつくった。それが初期のヤマト政権だった”と説明します。その中で登美氏は、大和の三輪山に出雲の陽信仰を持ち込み、それは大和の人々を集める大祭にまでなったと云います。それが「登美(鳥見)の霊畤のマツリゴト」になりました。

 

これらの茨木市、高槻市、枚方市の神社の日の出との位置関係を眺めると、結局は九州からの東征勢力によって”大和から追われた”出雲勢力とアマベ(アマ)勢力の族達が、まずこの摂津の地を拠点として、太陽信仰を続けていたのでは、と感じるす。


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1 コメント

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感激 (motinora)
2020-02-16 03:48:07
出雲王国とヤマト政権を読んでいる方に巡り会えました.現在HPを見直し中です.

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