摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

宗像神社(桜井市外山)- ”登美山”の石碑が往時を忍ばせる、古代九州より鳥見山山麓に移った宗像氏の古社 -

2019年07月20日 | 奈良・大和


JR桜井駅から、速足で歩いて20分程。マップのナビでたどり着けました。神社と共にお目当てだったのが、タイトル写真の石碑です。昭和5年の建立と刻まれていました。


鳥見山(881年の太政官符では登美山)の北麓に西面します。「延喜式」神名帳の式上郡に宗像神社三座と載る式内社です。ご祭神は言うまでもなく、田心姫、多岐津姫、市杵島姫の宗像三神。「三代実録」(880年)には官社に加えられたとあり、筑前の宗像大社と同神別社とあります。さらに881年の条には、神階従一位勲八等を授かり、筑前国の本社に准じて神主を置き高階真人の氏人をこれに任じた、とされています。

 

 

高階真人の祖は天武天皇の第一皇子、高市皇子であり、その母が胸形徳善の女尼子娘なので、当社は高市皇子の外戚の氏神として祀られ、後に高階氏の氏人らが祖神と崇めたものと考えられます。また、平安時代の太政官符での当社に関する記述から、鎮座は天武朝以前で、胸形君一族の勧請によるものとする見方もあります。

 

・境内

 

南北朝時代に鳥見山中腹に三所一社として鎮座していた宗像神社に兵火がかかり、神宝も焼失してしまいました。神舎も荒廃し、氏人がわずかに祭るのみとなり、その間、旧社領は南都興福寺領となり、春日明神とその若宮が勧請され、春日社と呼ばれるようになってしまいます。

 

・拝殿

 

その後、22世高階忠正が1354年に神霊を自邸に遷し、宗像中島社と称して奉斎しましたが、姓を高階から改称した玉井忠慈は1590年、自邸の祠とは別に、登美山の旧地に宗像社を再興して中島社と称しました。ただし、春日社と混祭の形です。そして、国学者鈴木重胤が再興に努力し、1859年に筑前宗像大社より祭神を勧請し、1860年に社殿が完成するのです。明治8年には春日の社号が廃され宗像神社が復活しました。

(参考文献:谷川健一編「日本の神々 大和」)

 

・本殿

 

東出雲伝承では、印象的な「登美山」の石碑の写真と共に、この神社の事が少し触れられます。この”登美”は、言うまでもなく、高槻市登美の里の"登美"と同じ語源ということです。明確な時期の記述はないですが、登美氏らが三輪山麓に拠点を持った時期に、それを頼って移住してきたように取れます。宗像氏は、西出雲王国神臣氏の分家であり、出雲王家の親戚だったと説明しています。つまり、宗像三女神は紀元前3~2世紀
実在の姉妹であり、その3女神の子孫の拡がりの中で、その後の古代史が展開していくのです。


 


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