摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

天照大神高座神社・岩戸神社1(八尾市大字教興寺)~皇祖神と天皇玉座の名を冠する高安山の天岩戸

2020年10月24日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

2の記事では、太陽女神信仰と関連するという比売許曽神信仰の事や、対する東出雲王国伝承の話などをまとめました)

 

大阪の八尾市の東、高安山の中腹に鎮座する神社で゛天照大神゛という恐れ多いお名前に引かれて参拝しました。駐車場有りとの事なので車で訪れたのですが、大阪平野が一望できる道から入る、社までの参道がとても狭く、恐る恐る進みました。普通のハッチバック車ですが、一カ所、切り返さないと曲がれない処もあります。一瞬、タイヤが空転しましたが、そこを過ぎれば、あとはゆっくり行けば大丈夫です

 

・駐車場から見える大阪平野の絶景

 

二つの神社は、入口の鳥居はそれぞれ有りますが、岩場にへばりつく感じで、あたかも背中合わせのように鎮座していて、実質的には一つの境内と言って良いです。こじんまりした空間でしたが、厳かで神々しい濃密な空気に浸れました。神社のすぐ傍らで流れる白飯之滝の音が常に響いていて、涼やかな雰囲気も有るのが素晴らしかったです。

 

・神社入口までの参道

 

【「天照大神」を名を持つ理由】

「延喜式」神名帳の河内国高安郡に゛天照大神高座神社二座。元春日戸神と号す゛とあります。春日戸神とは、高安郡にかかわる朝鮮渡来人、春日戸の人々が祀っていた神だと、谷川健一編「日本の神々 河内」で大和岩雄氏が書かれています。「大智度論」などの古典に高安郡に春日戸村主の名の人物が載り、゛戸゛や゛村主゛は渡来系氏族の姓です。そんな渡来系氏族の神がなぜ天照大神高座神なのか?「延喜式」神名帳でも天照大神の名をそのまま社名に使うのはここが唯一であり、とにかく異例との事。

 

・手前が岩戸神社入口、奥が天照大神高座神社入口

 

明治時代の「大日本史神祇志」「神社覈録」は、伊勢神宮の「鎮座本録」や「神宮雑事記」などの文を引用して、春日戸高座神は伊勢津彦神の石窟で、伊勢から高安へ遷座した(「神社覈録」)、伊勢渡会郡にある高倉巌屋に居たが、河内へ遷った(「大日本史」)とし、「特選神名牒」も同様な説明をしています。当社の社記にも、雄略天皇のとき伊勢から遷座したとあるのは、前述の諸説の影響です。しかし、大和氏はこれら説は高座神と外宮の高倉山との語呂合わせ的要素が強く、裏づけの史料はない、と断定されてます

 

・天照大神高座神社の拝殿までの階段。左に神水を頂ける白龍大神の祠があります

 

【天照大神と弁財天】

1801年の「河内名所図会」では天照大神高座神社について゛教興寺村東の山麓にありしが、今、弁財天と称して、教興寺の堂内に安す。(中略)旧跡は山腹にして、巨厳巍々たり。一箇の岩窟を神殿として、前に扉鳥居あり。頗、天岩戸ともいふべき岩窟なり゛と書かれています。当社は中世以降教興寺の鎮守として、弁財天社を境内に祀り、現在地は奥の院でした。また、教興寺は渡来系の秦川勝の建立とされます。その後、明治の神仏分離令で、弁財天の像は教興寺に残したまま、神社は天照大神社と称して分離。そして大正時代になって、市杵島姫を祀る岩戸神社が創始され、今に至ります。

 

・天照大神高座神社の拝殿。上に覗き見えるのが、高みに坐す本殿

 

大和氏は、春日戸や秦氏ら渡来系氏族が関わる事から、この神社の信仰は、難波の比売許曽神社や赤留姫神社などと同じ性格をもっているようだ、と考えます。そして、岩戸神社の御神体が女陰の形をした岩壁だったり、天照大神高座神社も岩壁の洞窟が御神体である事、「高御座」が日の御子である天皇の玉座だから「高座」は日の神または日の御子の坐すところとなる事などから、天照大神高座神社二座は、日妻(ヒルメ、天照大神)と日神(高座神)の二坐だと結論づけられます。

 

・天照大神高座神社の本殿そばまでは、階段で登れます。゛巨厳巍々゛です。

 

弁財天はインドの河の女神で水の信仰とかかわりますが、弁財天を祀るところには、多く岩窟と女陰信仰があります。女陰・岩窟・母神(弁財天)は一連のつながりをもち、それは日女(ヒルメ)であり、天照大神の原型だと考えられるのです。女陰(一般には天照大神の服女の)を機織具の梭で突き、天岩窟にこもり(死)日神として再生する天照大神にとって、天岩窟隠りが死と再生の呪儀であると考える大和氏は、天照大神高座神社の地は死と再生゛こもりく゛だと言います。

 

・天照大神高座神社本殿。ご神体はこの奧なのでしょう

 

【高安山と難波宮】

各地にある岩窟のなかで、とくにこの地が゛こもりく゛の聖地になったのは、高安山が関係します。古事記に、天照大神が(上記のとおり大和氏はアマテラス本人と書きます)女陰を梭で突き死んだのは大嘗祭(冬至)のときとあります。冬至は日照時間が一番短い、太陽の死のときで、その日から日照時間は長くなり、太陽が再生していきます。日の御子として高御座につく天皇の即位大嘗祭は冬至に行われます。難波宮からみて、冬至の日の出は高安山から昇るのです。

 

・天照大神高座神社の拝殿前にならぶ石碑。寄進の石碑も新しく、今も厚く信仰されてる事が感じられます。

 

この地は修験の行場としても信仰されてるそうで、境内には摂社の白龍大神や、白玉大神、大木大神、白吉大神、山神大神など刻まれた、水や山の自然にちなむ石碑が沢山建てられていました。

 

当社についてさらに、続編2に続けたいと思います。

 


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