摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

宇佐神宮(宇佐八幡)3:下宮、呉橋 ~ 亀山古墳説と宇佐家古伝が語った古代史

2019年10月26日 | 九州


★神仏習合や、奥宮の比売大神については、”1”で記載しました
★二之御殿の埋葬者やご祭神については、”2”で記載しました

 

【宇佐家古伝が語る亀山墳墓説】

「古伝が語る古代史」で宇佐公康氏は、下宮は”亀山墳墓の前方部と後円部のくびれた部分の南側に当たる箇所に、現在宇佐神宮下宮が鎮座している”と書かれています。亀山墳墓が前方後円墳の原始的な姿である高塚墳墓であり、3世紀前半期との説明です。これは、戦前に活躍された考古学者、鳥居龍蔵氏がお父さんである先代に語った事を踏まえているみたいです。宇佐氏の話では、上宮が前方側であり、後円部の西端は寄藻川に面する、と書いています。

 

・宇佐鳥居と対面する形で若宮神社が鎮座

 

宇佐氏に限らず宇佐神宮が古墳の上にあるとする説が語られるようですが、それだと上宮への登り坂は前方後円墳の中央を歩いてる事になるわけで、しかも3世紀前半であんなに前方部が高くなる古墳は、現在言われてる古墳の変遷から理解しにくいです。とにかく、大きすぎます。上宮前の百段は前方部の側面にあたる事になるのですが、ものすごい絶壁でしたし。。。あまりちゃんと調べてないですが、雑誌邪馬台国に執筆されてる井上修一氏は、ご自身のHP「邪馬台国大研究」で、”ここを亀山古墳と呼び卑弥呼の墓と特定している人もいるが、ここが自然丘陵なのは確認されている”と書かれていました。ただ、上宮下に石棺がある事は確かなのだと思います。

 

・外宮入口の鳥居。「下宮参らにゃ片参り」の注意書きも。なお、上宮から近道の下り道も有りま

 

【下宮の御炊宮】

下宮は、811年、嵯峨天皇の時期に勅願によって、上宮のご分神をご鎮祭されたもので、御炊宮(みけみや)という別名を持っています。宇佐公康氏は御炊殿(みかしぎでん)と呼ばれており、また”おいどの””御供所(ごくしょ)””竈殿(かまどでん)”ともいわれたそうです。元々は4世紀中頃、この場所にカマドが造られ、毎日ここで”炊き御供”を調理してこれを素焼きの土器に盛り、上宮の南に面し”百段”から供えていました。炊き御供とは、いろいろな野菜、山菜、海藻を細かく切り刻んで混ぜ込んだ、一般に五目飯と言われてるものだったそう。

 

・まず高倉が目に入ります

 

ところがこの真の御炊宮は、1935年から1941年の官制の直営大造営で、神符守札の授与所にされてしまいました。宇佐氏は、”下宮の由来、伝統、歴史を無視して、これを破壊してしまった許すべからざる実に言語道断な官僚的所行である”と大変怒っておられました。今の感覚だと、それほど歴史あるものを壊すなんて信じられませんね。見てみたかったです。宇佐氏は、同様なカマドとして、吉備津神社の竈殿を挙げられ、陰陽道的な祈祷の対象となる場合もある、と補足されていました。各神社とも、カマドに対する不浄をいむ事に厳格だったのです。

 

・ここに御炊宮が有ったのか。。

 

【宇佐家古伝の正す古代史】

宇佐公康氏は「古伝が語る古代史」で、”日本の歴史を正す”とのお題目の元、宇佐家伝承による天皇変遷の歴史を主張されています。主なものを簡単に記載してみます。

  1. 饒速日族が天孫民族として、南九州から大和地方に移動したのは、日本列島で種族の大移動が行われた中期縄文時代。そして、記紀に記載のとおりウマシマヂノミコトをもうけ、畝傍山を拠点として原始社会的なクニをつくった。

  2. 初めてヤマトのクニに君臨したハツクニシラス・スメラミコトは、ウマシマヂノミコトであり、その子孫は物部氏である。そして和邇氏の首長であった孝昭天皇を除いて、崇神天皇に至るまで、古代大和国の天皇氏族であった。(別の箇所では、”孝昭天皇から孝元天皇までの4代は、明らかに和邇族の族長である”との記述もあります)

  3. 9000年にわたる縄文時代に、出雲族の勢力が、山陰・山陽はもとより、北陸並びに信濃から、関東地方にまで及び、さらに大和・紀伊地方にかけて、大きな勢力を扶植していた事はあきらか。中でも大和地方は、三諸山の大神神社を始めとして出雲の神を祀った社が所々に有って、出雲族に属する大神氏、賀茂氏のような氏族が勢力を張っていた。

  4. その大三輪氏は饒速日族といち早く融和、融合、混血し、大和地方で比較的早くから、朝廷においても地歩を占めていた。





  5. 神武天皇は景行天皇の弟であり、倭国大乱の2世紀後半に九州から東征したが、安芸国にいた時、病気で亡くなった。神武天皇の大和入りの物語は、物部氏が自家に伝承された代々の事績を誇示し、権威づける為に、あえて天皇の事績のように付会したものである。

  6. 饒速日族は、日本が大陸と陸続きであった2万年前までに、南方から移動してきた原天孫民族(一方、9000年前、北から移動して来たのが兎狭族。また、猿田族<出雲族>は8500年前にシベリア方面より移動漂着した)。そして、後世に天孫族とされた神武族は、紀元前1500年にベトナム方面に出現した種族であり、紀元前後頃、青銅器文化をたずさえて、南九州に日向王朝を成立させた。

  7. 神武天皇が宇佐に居た時、菟狭津姫との間に生まれたのが宇佐津臣命。そしてその子が宇佐押人命つまり真の応神天皇であり、この御方が中央に進出し、古代日本国家が成立した。

 

・横から外宮本殿を拝見

 

【伝承の語るイニエ王】

東出雲王国伝承の端緒となった「出雲と大和のあけぼの」で、物部氏が九州から移動して来た事の裏付け的に、「古伝が語る古代史」の文言が引用されています。ただ、どの大王が物部氏系なのかについては、上記の通り全然違います。宇佐家伝承では崇神帝とその前だと言い、出雲伝承はイニエ王の御子からだと言っているのです。共通点は、物部氏が九州出身豪族で、イニエ王は物部氏で、そして大和で大王になった人がいる、という事です。

そして、出雲伝承で重要な役割を担うその御子イクメ王(垂仁天皇)について、宇佐家伝承では一切語られません。記憶の限りでは、物部氏の系譜にある十千根が垂仁天皇に仕えた、との記述くらいです。特に記載されている物部氏の系譜では、崇神帝の後には記載が有りません。原天孫族と神武族の狭間にいて、どちらに属するのかが述べられてないのです。

 

・呉橋。鎌倉時代から以前よりある、と神社は言います。

 

【月神と比売大神】

二之御殿のご祭神の説明にも個人的に煮え切らない感じを受けています。以前、伊勢神宮の記事で引用したように、宇佐の名は兎のウサが元であり、その月読の天職による月面の模様から、宇佐族はウサギ神すなわち月神を信仰してきたと書いておられます。しかし、宇佐神宮二之御殿やその奥宮、御許山の祭神を説明する時に、宇佐家が古代に女系相続だった象徴としての比売大神(宇佐"姫巫女"はあくまでその一人)だとは語るけれども、月神の事は触れられません。氏族名の元になる最も重要な神と思うのですが。。出雲伝承では、二之御殿は月神も祀られていた、と云ってます。なおその比売大神は、一般的な説明の曖昧さからが、現在の宇佐神宮やそれを勧請した京都男山の石清水八幡宮では宗像三女神の事だと説明されてます。これはこれで絶妙な比定かもしれません。

 

・弥勒寺跡地の横を通り、奥の橋を渡って見た図です

 

【因幡の白兎】

その一方で、いわゆる「因幡の白兎」の兎は、宇佐族を表現している事では出雲伝承と一致します。しかし、その意味は全く違うのです。宇佐家伝承はとてもビジネス的な話で、この兎は、石器時代から隠岐諸島に住んでいて、農耕社会になって本土での土地を巡り和邇氏との取引で失敗し全財産を没収された宇佐氏を喩えているとの事。そこに、まず八十神がやって来て、”まず没収された物品貨幣を借り受け、それを元手に生業を続けて後で返済すればよい”と指導されました。しかしそれでは負債が増えるばかりだったのを、大国主命がやって来て、”手持ちの物品をすべて和邇氏に返してとにかく返済し、きれいな身になって新天地で再起の道を講ぜよ”との指導で、因幡国八上の地を与えられ、後の繁栄につなげる事が出来たとの説明になっています。さらに、”八上”が”八幡”につながるとしています。正直”!?”と感じてしまう話ではあります。

一方の東出雲伝承では、要は大国主命より兎が偉い(征服した)事を暗に表現していると説明していました。また、”八幡”についても魏志倭人伝の記載内容からズバリ説明されています。

 

・こちらにも入口の鳥居があります

 

【宇佐家古伝の不思議】

伝承の個々の説明に対して、素人が正しいかどうかなんてとても言えないのですが、どうしても宇佐家伝承で気にしてしまうのは、宇佐神宮が奈良時代の早い時期、日本書紀が完成して20年そこそこで、神仏習合に関連して奈良政府と濃厚な関係を持っていたのが間違いない事です。つまり、中央集権国家の元、今では信じられないくらいの情報管理・統制がなされていただろう中で、あくまで記紀の趣旨をよく理解し、記紀が一番避けたかったことは曖昧にしつつ、旧家ならではの独自の話を伝えていったのではないかと。

例えば、宇佐家古伝での神武天皇の存在は、東出雲伝承におけるイニエ王を始めとする物部氏系の王や大王を置き換えたのではないでしょうか(記紀における神武天皇の役割も半分はそのよう)。そうすると、"菟狭津姫"が宇佐で生んだ、トヨの兄上(後に大和、最後は上毛野に行ったウガヤフキアエ・・)や御諸別命の子孫となるのが・・と何となく合ってくるような。宇佐家はウサギの兎に似た菟の字を名前に使っていました。応神天皇の御子、菟道ノ若郎子も同じらしいです。そして、その御子は武内宿祢の子孫に負けてしまうのです・・・だから宇佐家古伝は決して全く突飛な話はしてなさそうです。以上、憶測にしかすぎませんが、そんな感じがしています。宇佐家古伝は、天皇系譜を一貫した流れで
説明してるわけでなく、話が飛び飛びになるので、正直分かりにくい所もあったと感じています。

 

それでも自らが伝え聞いてきたものを、後の時代の真実の古代史の解明に役に立つようにと、苦心してまとめられた伝承が貴重な事は間違いないと思います。東出雲王国伝承他との共通点にも注目しながら、なぜこんな話になったのかを想像する事はとても楽しい事です。40年近く前の絶版本に触れる事が出来たのは幸運だったと思っています。

 

・バス停も八幡造。その奥に仲見世が並びます


・お茶目な山上の”USA"サイン


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