摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

阿為神社(茨木市安威)~大織冠神社など中臣鎌足ゆかりの史跡、そして出自の謎のこと~

2020年07月29日 | 高槻近郊・東摂津

 

藤原鎌足にまつわる遺跡や伝承が多く存在するという茨木市の安威地域。さらに「日本書紀」の安閑紀に三島県主が朝廷に献じた良田である゛上桑原・下桑原゛とされる桑原も近い、安威の集落鎮座する神社です。昭和29年に茨木市に吸収されるまで、三島郡安威村として独立していた集落です。せっかくいつも通る道近くにいらっしゃるのでお参りしないと、と参拝したら、小雨が降ってきてしまいました。今年は本当に梅雨が長いです。

 

 

ご祭神は中臣氏の祖神天児屋根命。「延喜式」神名帳にも摂津国島下郡所属の小社として載ります。阿為や安威は藍に通じ、古代の中臣藍連一族の居住地とされています。この地が古代史で特にクローズアップされるのは、「日本書紀」皇極紀に、中臣鎌足が神祇伯を拝命されるもののそれを固辞し、疾と称して三島にはべるとあり、「藤氏家伝」では゛三島の別業゛に退いたと書かれ、その地をこの三島安威に充てる説が強いからです(一方、同じく茨木市の沢良宜周辺という説も強いです)

 

・拝殿

・本殿。2005年新築で瓦葺、土壁&縦板の造りですが、組物は古風で簡素

 

「元享釈書」(1322年)には、鎌足の墓が゛摂州阿威山゛と記され、「摂津名所図会」や「摂陽群談」らの古典はこれを、安威集近くの大織冠神社、つまり小山の頂上に巨石で築かれた横穴石室である「大織冠古廟(将軍塚古墳)」に充てていました。しかし、現代の古学では6世紀後期の造成とされ時代が合いません。そんな中大注目となったのが、安威の北東の阿武山(高槻市になります)の山頂で昭和9年に見つかっていた阿武山古墳です。後年に発掘当時のX線写真などが再調査され、藤原鎌足の墓である事が有力視されるようになったのです。

 

・境内。ここで毎年11月「蹴鞠の会」が開かれるそうです。鎌足公と中大兄皇子が接近したきっかけにちなみます

 

谷川健一編「日本の神々」で、松下煌氏が、中臣氏の三島進出の理由を二説紹介されています。一つは、河内の小勢力であった中臣氏(まだ賜姓以前の卜部)が、継体帝の後背氏族の一つとして継体軍団とともに大和に入り、さらに行を共にして三島に進出した説。もう一つは、やや後に、中央で天孫奉斎を職掌として勢力を伸ばした中臣氏が、記紀神話の天児屋根命を祖神として、天智系大王家の始祖である継体の墓を守るべく三島を手中に収めたと言う説です。

 

・拝殿向かって左の境内社。正面の大きい社が鹿島神社、右に市杵島姫神社、金山彦神社。左奥隠れてるのが出雲神社

・拝殿向かって右側に鎮座する菅原神社。かなり凝った造りで相当古そうです

 

中臣藍連は、神功皇后の新羅遠征に同行した中臣氏の先祖、中臣伊賀都臣が百済に使わされた際、かの地の女性との間に生まれた二子の内の兄、大江臣の後だと「新撰姓氏録」にあります。「続日本書紀」では栗原連の祖本大臣にあたるようです(佐伯有清氏)。また中臣賀都臣は雷大臣と同じ人とされ、新羅から凱旋後に対馬にとり、対馬県直となり亀卜の術を伝えたと、「津島亀卜伝記」にるようです。その子孫が卜部となり数十家に分かれていきます。

 

・大織冠神社入口。住宅街が間近に迫ります

 

阿為神社の創立経緯について、先の松下氏は、゛この地域には、伊(安威周辺の将軍山古墳や海北塚に紀ノ川流域の石材が使わている)あるいは出雲と繋がる渡来系(?)の先住氏族がいてやがて中央で勢力を得た中臣氏が三島のこの地に進出し、先住氏族を支配融合して、のちに中臣藍連や中臣大田連(太田神社奉斎)と呼ばれる律令体制下の中臣支族が形成され、そのころ、主族たる中臣氏の祖神を祀る阿為神社が成立したのではなかろうか”と仮説をまとめられていました。出雲に触れられたのは、土師氏の神社(高槻市天神町)そばの昼神車塚古墳の埴輪と、太田茶臼古墳今城塚古墳の埴輪が同じ新池埴輪窯で焼成されている事を踏まえての事のようです。

 

・大織冠古廟(将軍塚古墳)。左には休憩スペースがあります

 

阿為神社の社宝に、三角縁唐草文帯二神二獣鏡があります。大織冠神社の方の社伝では、鎌足の亡骸を多武峰に改葬した後、鎌足ゆかりの太刀、鏡、「左り鎌」を大織冠神社に収め、その鏡を阿為神社の社宝としたとあります。三世紀末から四世紀初めのもので、将軍山古墳の出土品と推定されています。

(以上参考文献:河村哲夫氏「神功皇后の謎を解く」、高槻市教育委員会「藤原鎌足と阿武山古墳」図録)

 

・藤原氏嫡流の九条道孝が明治14年に建立した石碑。墳墓はこのくらいの大きさです。

 

 

「日本の神々 大和」「同 河内」で大和岩雄氏は、「新撰姓氏録」にオホ氏とワニ氏が゛ナカツオミ゛を称しており、それと似た名を氏族名としたのが卜部出身のナカトミ氏だと書いています。「新撰氏族本系帳」には、欽明帝のとき中臣常盤が初めて中臣連姓を賜ったとあるようです。

 

一方、「飛鳥文化と宗教争乱」で斎木雲州氏は、常陸国の鹿島神宮が神八井耳の子孫仲国造が建てた古社で、いわゆる宮中祭祀の中臣氏は、その鹿島神宮の元神官・卜部家の分家だったと書いています。豊後に移住しナカツオミと自称、仲哀(中津彦)大王の側近になり(伊賀都臣?)、神功皇后の時代から宮中祭祀を職業としたそです。一方同じ本で、占部鎌子(鎌足)は鹿島神宮の社家の出であり、宮中祭祀の中臣家の養子になっていた、と説明していした。

上記の説では、中臣には大きく2つの流れが有るようで、やはり藤原氏の出自は難解になっていますね.・・・もちろん、斉木氏による出雲伝承は現時点あくまで一説であり、それに対する疑問を感じる話を鹿島神宮の記事で取り上げました。

 

なお、2018年に高槻市で藤原鎌足に関する特別展示が有った時の記事も過去コチラにアップしています。

 

・中央右の小山が大織冠神社のある将軍山。山上に小さく塔(京大地震観測所)の見える山が阿武山


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