摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

天照大神高座神社・岩戸神社2(八尾市大字教興寺)~太陽女神が伊勢神宮に至る途上の地

2020年11月01日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

1の記事では、神社のご由緒や伊勢神宮との関係、女陰岩窟信仰などについて触れました。引き続き、濃厚に関係するとされる比売許曾の神の話にけたいと思います。

 

【姫島の比売許曽神】

新羅上古の王室系譜で、実在の王名とみられている十七代奈勿(nar)王は、太陽の意味だそうです。谷川健一編「日本の神々摂津」で、大和岩雄氏は、大阪の別称ナニハはnarから来た地名と推察されています。比売許曽神社記事でも記載しましたが、「古事記」では、新羅の阿具沼のほとで貧しい女性が昼寝をしていた時、太陽が輝いて虹となり女性陰部を貫き、妊娠して赤玉を生む日光感情説話が有り、そこから生まれた阿加流比売を追って新羅王子天日矛が難波を目指す話に繋がります。「日本書紀」は、加羅の都怒我阿羅斯等が結婚しようとした童女は、難波と国前郡でそれぞれ比売語曾社の神になったと書きます。

 

・白飯之滝。涼やかな水音が響いていました

・滝の正面には石像やお地蔵様が。正面には妙宗寺という簡素な造りのお寺があります

 

さらに「摂津国風土記」逸文では、新羅国の女神が夫から逃れてしばらく゛筑紫の国の伊波比の比売島゛にいたが、ついに摂津の比売島まで来た、と書かれています。一方、朝鮮の「三国遺事」に載る延鳥郎と細鳥女の記事では、新羅のこの夫婦が日本へ渡り、帰るように説得しに来た使者に細絹を持ち帰らせ、新羅で祀らせた場所を迎日県または都祈野(闘鶏野)と呼んだ、という話がありますが、大和氏はこれらの話は全て根が共通すると云います。

 

・天照大神高座神社境内。こじんまり、そして鬱蒼としていますが、ベンチもあるので和むことも可能です

 

アマテラスはオオヒルメとも呼ばれ、この呼称はこの神の原初的性格を示しています。そこからは天日矛伝承の日光感情説話が連想され、上記の神話に登場する女神達は日の妻であり、新羅の神を祀る比売許曾の神と関係すると大和氏は考えられます。天照大神高座神社の信仰はその神と共通する性格を持つのです。そして新羅~難波の行程は、難波王朝の時代を中心として朝鮮からの帰化人が博多湾の糸島水道に上陸してから近畿各地に移って行った道のりを示していると思われます。また、神功皇后の新羅遠征後の凱旋ルートも重なります。

 

・天照大神高座神社摂末社。熊野大神(左)、子守大神、とありました

 

【多神社との関係】

先の、田原本町の多神社の記事で触れましたが、多神社の平安時代のご祭神が、この春日部の天照大神高座神社と同体であったとの社伝が残っています。多神社の旧名は春日宮です。三輪山自体を祀る三輪氏の大神神社に対し、多神社は三輪山から昇る朝日を祀る神社なのです。さらに多氏は伊勢方面に移住し、伊勢神宮祭祀にも関わっていったことも確認できるとされています。

 

・岩戸神社鳥居

 

以上のような大和氏の考えを要約すれば、わが国の太陽信仰は、難波王朝の時代あたりにわが国に渡来してきた新羅を中心とし朝鮮系の人々(中心は息長氏)によって太陽信仰が持ち込まれ、王権祭祀として河内、大和そして伊勢へと伝り、丹後からの海部の信仰と習合していったというプロセスとなります。そして途上の河内にある比売許曾神社の場合、後にご祭神が国津神である下照比売(天照大神と競走者であった、との指摘も)に変わたと考えられるようです。

(参考文献:谷川健一氏編「日本の神々 摂津/河内/大和」)

 

・岩戸神社拝殿

 

 

【出雲伝承の語る太陽女神】

大和氏の論考には、出雲王国という考え方は有りません。一方、東出雲王国伝承では、一般に想定される朝鮮半島との交流の話がほとんど出できません。この事に違和感を持つ指摘も有ります。

 

東出雲王国伝承は、伊勢の天照大神の原型となる太陽女神信仰は、元々出雲のサイノカミ信仰(幸の神/塞の神。岐の神や八衢姫神の信仰)の幸姫が原型であり、東出雲王家富(向)氏からの分家・登美氏天日方奇日方(櫛御方、鴨主命)が、摂津三島→葛城→三輪に移住した後に三輪山に祀り、さらに丹後を経由して伊勢に至ったと主張します。一方で、出雲には古くから女陰磐座信仰があり、松江市宍町にある「女夫岩」は、足が2本伸びているような形の丘の、股当する位置に二つの岩を合わせてわざわざ置かれてると云います。三輪の大神神社入口の「夫婦岩」はこれをモデルしたらしく、同形とします。これらは縄文時代の生命誕生への信仰(それを表現する土偶が有名)から続くものだと説明しています(「出雲王国ヤマト王権」「出雲と大和のあけぼの」など)。

 

・岩戸神社本殿。岩戸神社境内からは見えないですが、天照大神高座神社から拝殿裏への通路があり、そこから拝見できます

 

【河内と出雲人】

ただ、これら信仰が、出雲と三輪以外の地でどうだったかは、出雲伝承ではあまり語られていません。わが摂津三島の事が特に気にるのですが、説明がありません。そんな中、「事代主の伊豆建国」で関連する話が有りました。゛移住した出雲族は、初めはカズラギ(葛城)方面に住んだ。(中略)その出雲人が、生駒山地の南端の河内東端で、製鉄をおこなった。その遺跡が雁多尾畑(カリンドバタ、現柏原市)の付近に残っている。(中略)岳山の上に、製鉄の神・金山彦と金山姫を祀る祠があった゛柏原市や雁多尾畑は、天照大神高座神社のすぐ南です。また、時代は下りますが、雁多尾畑の南に展開する玉手山古墳群は三輪地域にあるオオヤマト古墳群(行燈山古墳、桜井茶臼山古墳など)に形状が似ていることからヤマト王権と密接な関係が考えられてきているようです。これに関連した事で出雲伝承は、オオヤマト古墳群は登美氏(を含めた初期大和勢力)が築造した古墳であり、九州東征勢力の遺跡ではないと主張します。

 

・岩戸神社拝殿の裏。ここから本殿を拝見しました

 

天照大神高座神社の北にも、富氏の分家、櫛明玉神を祀るとされ玉祖神社が鎮座しているのも、とても気になります。近くに弥生時代の遺跡も出ています。さらに、同じ゛春日戸大明神゛も祀いう、すぐ南の恩智神社の旧社地「天王の森」は弥生時代中に画期がある弥生遺跡で、淀川水系や摂津の遺物が出土していす。だから、この辺り一帯の地にも摂津三島から移住した出雲が居た可能性を想像したいです。5世紀ではなく、元々紀元前23世紀に、この地に太陽信仰と磐座信仰がもたらされていたのは、と思いたいのです。その信仰の真髄が、後まで根強くていったと・・・はなぜ紀に、大和氏の論考に至るようなが載るのでしょうか。日本人にとって長い人気を保つ太陽女神が、朝鮮半島から来たとは思いたくない願望がありますね。

 

・岩戸神社本殿(左下の屋根の上)と天照大神高座神社本殿(右の木の葉の間)の位置関係

 

【藤原氏と記紀】

東出雲王国伝承を語る「親魏和王の都」で勝友彦氏は、天日矛の子孫田道間守に関する「日本書紀」の説明に関して書かれていす。゛記紀の制作者・右大臣不比等がヒボコの子孫・息長家をく見せる目的があったのかもしれない。なぜならば藤原鎌足は、息長系の大王と親密な関係にあり、三国国造系の大王と対抗した事情が考えられる゛その詳しい説明が「飛鳥文化と宗教争乱」に書かれています。中臣鎌足が朝鮮渡来系の天児屋根命の後だと言われる事がありますが、記紀が出来た頃の出雲国造もそう誤解していたらしく、「内の祖先は韓国からきた」と事実と違う話をゃべり、藤原家と親密になろうとしていた話が、「出雲と蘇我王国」にあります。実際の鎌足は一時宮廷祭祀の中臣家の養子だっただけというのが伝承の主張ですが、誤解されるくらい鎌足が息系天皇と親密だったというのです

 

滅亡させた出雲の信仰を現在の王権も踏襲している、などとはメンツ的には言ないから、その後韓国からの渡来人が来て以降の時代の話で覆い隠した、という感じを、伝承の話を前提とすば、持ってしまうのです。

 

・神社参道から出た処からの、大阪平野の絶景


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