摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

宗像大社2 沖津宮遥拝所、中津宮(宗像市大島)~沖ノ島祭祀変遷の近年の検討と、伝承の語る宗像~

2019年11月16日 | 九州


11:15に神湊湊を出発して20分程で、フェリーは大島港渡船ターミナルに着きます。そこから、まず沖津宮遥拝所に向かう為、11:50発の観光バス「グランシマール」に乗りました。これは、ターミナル駅と砲台跡の間を30分程度で往復する、小さなマイクロバスです。出発して10分弱で遥拝所前に到着します。ですが、その後10分程度したら戻ってくるバスに乗らないと、1時間前後はそこにいないといけなくなります。当日はあいにくの曇りでしたし、10人ほどの皆さんも戻られるので、名残惜しかったのですが、復路のバスに乗りました。残念ながら沖ノ島は見れませんでしたが、普通に来れる一番近い場所まで来た事に、ちょっとした達成感を感じました。


・皆さん思い思いに遥拝所に向かわれます

 

宗像市教育委員会の岡崇氏によると、この沖津宮遥拝所が設置されたのは18世紀らしいです。先の宗像大社1の記事で書きました歴史の続きですが、1586年に宗像大宮司氏貞が亡くなった後、大宮司家は断絶してしまいます。一時、荒廃、疲弊しますが、江戸時代になると、福岡藩主黒田家の保護を受け、筑前国の主要な地方神社という形で信仰が続きました。特に、第三代黒田光之は辺津宮境内末社の社殿整備や宝物修理など行い、その記念として1680年に三十六歌仙図扁額を奉納しました。


 

地方神社になっても、辺津宮、中津宮、沖津宮が三宮一体である事は変わらず、なかでも沖ノ島は神宿る島としての特殊な信仰が続きました。それを担ったのは、玄界灘の漁労民や船で往来する人々で、江戸時代以降、沖ノ島信仰に、生活者による敬虔な信仰という新たな一面が加わったのです<宗像大社、福嶋真貴子氏>。

こうした中での沖津宮遥拝所の設置だったのです。なお、昭和に入っても一時荒廃していましたが、宗像市出身で出光石油創始者の出光佐三氏の寄進で、大規模に整備され、今に至ります。

 



沖ノ島祭祀の変遷の基本のキを、超有名な代表遺物と共にまとめますと

      形態    存続期間      有名な遺物

第1段階  岩上祭祀  4世紀後半~5世紀  銅鏡(九州に類を見ない、畿内
                      上位層古墳の副葬品に匹敵)、
                      玉類(翡翠、碧玉、水晶)

第2段階  岩陰祭祀  5世紀後半~7世紀  金製指輪、カットグラス、
                      金銅製心葉形杏葉

第3段階  半露天・  7世紀後半~8世紀  龍頭金具
       半岩陰祭祀

第4段階  露天祭祀  8世紀~10世紀     奈良三彩

 

・拝所裏側です


・沖ノ島方向。。。

 

これは、かつての宗像大社復興期成会が実施した、1954年~1971年の3回の調査結果から固まっていたのですが、福岡大学、桃崎雄介氏によると、世界遺産申請にかかる再検討の進展で見直しされてきてるようです。

まず、第1段階古段階、というのが一等最初に追加され、3~4世紀の土師器有段口縁壺などを供献する土器祭祀期が設定されてます。それに、鏡については大正年間に膨大な量が持ち出され、完全なものと隅々取残されたもの以外は鋳潰され換金されてしまったことが分かっており、3世紀に鏡が捧げられていた可能性は否定できなくなっています。一方、歯車形子持勾玉について、大阪府池島福万寺遺跡や三輪山麓の桜井市茅原出土品に似ていて、6世紀中葉~後半に畿内中枢部から搬入されたと想定され、従来の岩上祭祀時期より新しい事が分かってきました。調べていくと、明瞭に区分けできないことが見えて来たという事のようです。


・絶壁のすぐ上に鎮座します

 

大島港渡船ターミナルに戻り、バスで紹介してもらった近くの食堂でお刺身を食べて、そして、歩いてすぐの中津宮を参拝しました。海浜にせまった丘陵上に、湍津姫を祀る中津宮が、本土の辺津宮と向かい合うように鎮座します。1566年、コチラも辺津宮本殿同様に大宮司氏貞の造営です。屋根に円形と四角形の堅魚木が3本づつ一束ねにして乗っていて珍しいですが、ご由緒は分かりません。拝殿の床下はかつて清砂が敷かれていましたが、昔は拝殿が無く、この清砂の上で礼拝したといわれ、海辺の神社の古い形態を示すものとされています。


・一の鳥居と二の鳥居



 

1981年に、中津宮から参道がある御獄山山頂で、須恵器や土師器、滑石製玉類の散布が確認されました。沖ノ島の1号露天遺跡とほぼ同時期とされます。この大島御獄山遺跡では、2010年にも調査が実施され、地面を掘りくぼめて大甕を据え置いた状況が確認されました。これは沖ノ島の半岩陰・半露天祭祀の段階の5号遺跡と同様だったのです。他にも金属製雛形品、奈良三彩小壺などの第3,4段階の祭祀遺物が出土し、こうして辺津宮の高宮祭祀の遺物も含めて、宗像三宮のおける祭祀が7世紀末までさかのぼる事が考古学的に実証されたのです。


・拝殿。やはり奥には、「奉助天孫・・・」の額



 

海の家むなかた館長で著名な考古学者である西谷正氏(お生まれは高槻市!!)によると、弥生時代前期の、今から2500年前頃の遺跡が宗像に10カ所ほどあり、北部九州でも有数の初期稲作文化の定着地といえるよう。ただ、弥生時代中期の田熊石畑遺跡で青銅器が15本出土し、共同体の首長墓であろう事が確認されてるものの、中期後半から後期前半にかけては、糸島市における伊都国の王墓とされる三雲南小路遺跡のように大型甕棺墓や前漢鏡の多量の副葬が確認された遺跡・墳墓は、宗像では確認されていません。これは、現時点では弥生時代のこの時期の宗像に、国の形成や王の誕生を想定しにくい事を意味するようです。


・出発直後のフェリーから。中央の鳥居が中津宮。そして、御獄山

 

「新撰姓氏録」には、”宗形君は、大国主6世孫吾田片隅命の子孫”と書かれています。東出雲王国伝承によると、出雲の主王を誰もかれも大国主命としてしまう言い方によるものであり、吾田片隅命は大国主命の祖父の、別の系譜の息子になるとの家系図を掲載しています。この御方が北九州に行き分家宗像氏を興したのです。そして、この地が出雲王国の西の端になりました。大豪族だったと言いますが、独立国ではなかったという事になるなら、現時点の発掘成果と合うのでしょうか。。言うまでもなく、吾田片隅命の娘三姉妹が宗像三女神です。

「先代旧事本記」や「海部氏勘注系図」では、この三女神と大国主命そして饒速日命の婚姻関係が著されていますが、東出雲伝承が語るそれと少し違います。「先代」や「勘注」は、これもやはり出雲の王をとにかく大国主命に集約しており、一方、東出雲伝承ではその家系と子孫がもう少し広がり、宗像三女神の御子達の子孫の系譜の中で、飛鳥時代までの古代史が展開されていったことが、とても理解しやすいです。つまり、”三女神が皇統に関わる形で位置づけられる”と合点がいくのです。





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