シシャモ
SHISHAMO。
若者に大人気の女性3ピースバンドの話ではありません。
私が中学生の時、とある友人の家がたまり場になっていた。
その友人には1個下の弟がいたために、弟の友達も含めたまり場に拍車をかけていたのだが、その中で一人の男と私は特段仲良くなっていた。
彼の名はヒロヤス。
見た目は中性的なイケメンで、いつも飄々とした態度で口を開けば嘘をつく、
そんなやつだった。
なぜそこまで仲良くなったのかは未だ謎の部分もあるが、帰る方向が一緒だったのも原因の一つだろう。
とはいってもたまり場からヒロヤスの家までチャリで30秒くらいの距離しかなかったので、その短い間にあーだこーだと濃い時間をきっと過ごしていたのだろう。
しかし、ある時から彼は帰り道で私を無視するようになった。
「無視」というと聞こえが悪いが、無視というよりは口を真一文字にして目を見開き無表情で一切こちらの問いかけに反応しないという「悪ノリ」の延長のようなものであった。
そんなヒロヤスに対してこちらも負けじとその場で思い付いた面白いことやその日のハイライトなどを言って笑わせようと必死にあがいていた。
そうこうしているうちにこの「無視という行為」に名前が生まれた。
ある日、ヒロヤスは遊びから帰ろうとするときに「今日も"ししゃも"すんぞ」と言った。
私はすぐに"ししゃも"が何かわかった。
「やめて~!"ししゃも"やめて~!!ジュースおごるから!」
今思うと、あの行為の何が"ししゃも"なのかはわからない。
しかし、この世界で名前のない行為に名前が付けられ、一つの意味と価値が生まれたのである。
皆さんもこのような経験はないだろうか。
身内にしか通じないノリや行動に名前をつけて、身内だけでキャッキャいうこと。
この世界を楽しく生きる一つの方法として、今まで名前のなかったノリや行動に名前をつけるということは新しい価値観を生み出しているようでどこか崇高な行為にも感じる。
それがたとえ小さいコミュニティの中だとしても身内ノリというものに広がりが生まれるし、もっと大きなコミュニティであれば尚更、共通意識による結束感が生まれるかもしれない。
このように世界に意味のある言葉を増やす崇高な行為にも名前をつけようではないか。
『シシャモる』と。