こんにちわ、スナフです。

 

今回はセミナー的な記事にしようかとも思いましたが閑話休題として、

私が旅で経験したことをお伝えしていきます。

 

 

非日常

 

 

 

終身旅行を行っていると、その場所で出会う非日常の風景や新鮮な食材。

それらと同じように私が大事にしているのがそこでしか出会えない人との出会いです。

 

非日常が私たち人間の脳を活性化させ、ち密な脳のネットワークを作り上げる。

 

これが私が終身旅行をしている最大の理由でしょう。

 

そこで先日、軽井沢で同じく個人でビジネスをやっているという方と出会ってきました。

 

 

比較的近いところに住んでいたのでネット上では意気投合していました。

 

 

うっすらと感じてはいましたがその方が私と会ったのはビジネスへの勧誘で、

足早にその場を去りました。

 

 

現状に不満があるでしょ?

 

僕より確か5歳年上のその女性は、ひっきりなしにそう言っていました。

 

「もっと年収上げたいでしょ?」とか

「もっと良いところに住んで生活をよくしたいでしょ?」などと。

 

私は自分の終身旅行を実践するという暮らしぶりを「さも当然ですよね?」という風に、

披露すると相手を委縮させてしまうという経験を持っていました。

 

だから東京出身だが、

今は北軽井沢で暮らし細々と個人のビジネスをしている設定で会いました。

 

話を聞いている限り、紹介案件がただ年収をあげるためだけのもので、

その先のヴィジョンが全く見えてこない。

 

だから丁重にお断りしその場を去りました。

 

私自身様々なビジネスの案件が舞い込むことがありますが、

そのビジネスで何がしたいかストーリーがないと共にやりたいとは思いません。

 

そしてとあることを言っていた友人、そしてとある旅を思い出しました。

 

 

日本は遅れてる

 

 

よく大学の食堂で語り合った友人がこんなことを言っていました。

 

「確かに日本は経済大国かもしれないけど、

やっぱり科学だとかビジネスの最先端はアメリカだし、

ファッションだってパリが発信したものをまねてるだけ。遅れてる。俺はアメリカに行きたい」

 

私自身日本は進んでるという人が多い中で「それは間違いでは?」と

思うことが多くありました。

 

 

彼の意見にはおおむね同意し、じゃあアメリカの人間はどう思っているのか?

 

 

当時の私はそう思いアメリカに出かけたのです。

 

 

 

Too fast,everything. in America.

 

 

サンフランシスコから電車を乗り継ぎ、バークレー校で学生に携帯アプリを駆使しながら

「あなたは何を目指しているのか?」尋ねてみた。

 

 

「アメリカはだめだよ。何もかもスピードが速すぎてとても気疲れする。

なんというか、人間らしい生活、自然を感じる瞬間がこの国にはないんだ」
「ぼくはもっと自分が生きているって実感がほしいんだ。

だから大自然と向き合うような、エアコンも冷蔵庫もないような、そんなところに行きたいよ」
 

 

 

正直その時は特に何も考えずに「答えてくれてありがとう!」ぐらいの気持ちでいた。

 

 

 

アメリカにもいったので今度はアメリカの学生が行ってみたいと言っていた

大自然が感じられる場所に行くことにしたのです。

 

 

 

大自然、でも娯楽はダンスだけよ
 

21歳でパキスタンにほど近い新疆ウイグル自治区のホータンに行った。

周りは360度砂漠の海、はるか崑崙山脈からカレーズで水を引いてきて、

一本一本タマリスクの木を植えていく。

 

そうやって緑(=人が住める空間)を創りだす。

 

バークレーのあの学生が言っていた「大自然と相対する人の営み」を感じることができる、

まさにその最前線だ。
やはりここでも街にあった大学の校門で学生をつかまえて、

日々何を考えて何を目指しているのかを徒然と聞いてみた。彼女はいった。

「ここは本当にだめ。何もないもの。

砂漠と砂漠を防ぐための樹を植えて畑を広げていくだけ。

娯楽と呼べるのはダンスパーティーくらいだし」


「こんなところより発展した都会で、最先端のファッションがあって、

たとえば北京とかに行って暮らしたいわ」


「日本はどう?楽しいことでいっぱい?」
 

オアシスを広げることの大変さ、民族の差別、将来への不安など話はつぎつぎと移っていき、気がついたらもう日も暮れて窓の外はすっかり暗くなっていました。
 

 

 

 

日本のサブカル、ぼく好きなんだ


彼女と別れた足で今度はカザフスタンのアルマティに向かい、

そこからさらにイスタンブールに行こうと旅行会社を訪ねた。

 

残念ながら、西に行く便はどれもチケットが完売で、

たまたま席が空いていた北京行の飛行機に乗ることにした。

北京でも同年代の学生と話す機会に恵まれた。

友人が知り合いの英文学専攻の院生の相部屋のベッドをひとつ用意してくれたのだ。

 

 

その日から3日間、同年代の中国人学生3人と日中関係を含めつつ、

日々何を考え何を目指しているのかを徒然と聞いた。彼らはいった。

「北京はだめ。言論の自由はないし、人はゴミゴミしていて、毎日がとても忙しい」
「たとえば音楽や映画、ファッションやアニメとか、

のびのびとした表現の幅が広い日本の文化が大好きなんだ。

いつか中国から出て日本のような国で暮らしたい」

日本から遠く離れた大陸の地で同世代の人間と夜中まで喧々諤々と話をし、

疲れた頭を枕にのせながら、

すこしのぼせたぼくの頭の中にふと一つの考えが降りてきた。

 

 

 

 

みんなユートピアを求めている

 

世界中どこにいても「ここにないもの」「ここでないところ」をみんな求めているんだ。
現状に不満で、現状の中にいて変化を感じられない自分に不満で、日々をすごしている人がこんなにも多いんだ。
大学の食堂から始まった旅を振り返ってみると・・・・・・

あれ?一人一人が求める場所にいくと最終的には元いた場所に戻ってくる。

みんなユートピアを求めているじゃないか!

 

 

 

 

ユートピアを求めない人
 

会ってきた人、話してきた人をもう一度、思い返してみると、

ユートピアを求めていない人たちがいることに気がついた。
 

かれらはきまってとても素敵な目をしていた。

もちろん仕事に疲れていたり、思うに任せない現状に苦しんではいるものの、

けっして現状にたいする不満を口にするそぶりさえ見せなかった。

 

いや、見せなかったのではなく見せる「不満」すら持ち合わせなかった

――こういった方が正確だろう。

 

 

ユートピアを求めない人。

彼らに共通することは現状をしっかりと把握しながら、その中で最大限楽しむ方法を模索していたことだ。「では、どうできるか」がだいたい口ぐせ。

マートルデ。

かれは砂漠の真ん中にある街の大学教授で大きなひげを蓄えたおじさんだ。

自分の民族の自立をどうすれば達成できるかを真剣に考えながら、

コミュニティー作りや教育に心血を注いでいた。
 

 

 

彼との会話は終始「じゃあどうすれば現状をよりよくできるか」だった。
 

 

これまでの実績とそこから得られたアイデア・課題について、

日本からきた若者がどう感じるか、ものすごく真剣に聞いて、話してくれた。
 

ちょうど彼と出会った時期は学費の集金時期でマートルデは少し疲れていたけど、

合間合間に時間をつくっては民族の村々に、ご飯に、衣装にと、

興味津々のぼくをあっちこっちに連れて行ってくれた。

 

「どうだ、素敵だろ?」

 

案内するあちこちでマートルデは得意げだった。



早川さん。

彼女はタイでエイズ患者の最後の受け入れ先、ホスピスを切り盛りしているおばさんだ。
地域社会にも家族に捨てられて身よりのない人たちに、

寝るところと労働と語る場を提供することに人生をかけて取り組んでいた。

 

彼女は毎週誰かを看取り、

少ない運転資金ですべてをやりくりするから朝から晩まで働き通し。

精神的にも肉体的のも経済的にも絶対に大変のはずなのに彼女はいつも笑っていた。

「楽しいかどうかなんてわからないけど、

だけどいまやっていることは最善だと思うし、まぁ、よく生きてるほうだと思うわ」

 

いま楽しい?ふと疑問に感じたことを口にしたらさらっと返事を返された。

 

彼らには求めるユートピアがないんだろうか。

 

ユートピアの語源は not everywhere、つまり「どこにも」「ない」。だから『理想郷』となる。
マートルデや早川さんにとってユートピアはないというより、not not everywhere―「どこにも」「ない」ものは「ない」。かれらはいま、本当のユートピアにいるのでしょう。
 

 

 

 

私がPT(終身旅行)をしているのもユートピアを求めての行動なのかもしれない。

 

「ユートピアはどこにもない」のと同時に住む場所が十分ユートピアになりえるのでは?

 

 

そう思うのです。

 

それでは失礼いたします。

 

 

 

またぜひお会いしましょう。