北窓開く|春の季語が消える時
俳句は、俳諧を親とするものだから、本来は面白みを追及すべきものだろう。時代が下る程に高尚さが加わり、芸術性が必要不可欠のものとみなされるようになった。それは、少し残念なところである。
今では、笑えるものは川柳に押し付けて、わずか17文字の中に詩心を追及するのが俳句だと思われている。もっとも、発句が独立して個人のものとなり、附合の妙を味わうことが出来なくなったのだから、それも致し方のないことなのかもしれない。
けれどもたまに「!」とくる俳句がある。それは、心の赴くままに大いなる世界に向き合ったもので、芸術家となった大家にはなかなかに見られぬものである。
先日インターネットで、ゆきまち氏の
北窓を開く南窓も開く
を見つけた。破調ではあるが、俳諧らしい面白さが潜む。暖かくなったと思って北窓を開けたところ、北風が吹きこんで観音開きの南窓も空いてしまった…
まさに今年を象徴するような俳句である。春はまだまだ遠い。(泰)
季語(春風)|末成歳時記春風駘蕩との言葉もあるが、私にとってはつらい風。今日もクシャミがとまらない。いったい誰が噂をしているのだろうか。
句碑探訪|まりを投げたき上野公園に正岡子規の句碑がある。「春風やまりを投げたき草の原」。春風の中で、子供のように思いっきり走り回ってみたいが、今年は花見にも行けなんだ。
藤野古白|俳人のシニザマ正岡子規の従弟であり、子規以上の才能を持っていたとされる藤野古白。春やむかし、夢破れて自らの頭を銃弾で打ち抜いた。4月12日が忌日である。