過ぎたるはなお及ばざるが如し。

 

とは、言い古された格言であるが、

今日これほど深い格言もない。

 

人間には、それぞれ固有の状態があり、

その状態に合わせた処方が必要である。

 

精神主義に縛られて、禁欲的になりすぎる余り、

 

縛られてしまうこと

(修道僧のそれ)は馬鹿げているし、

物質主義に縛られて、禁欲的になりすぎたり、

あるいは金の価値に束縛されること、

(現代人のそれ)もまた馬鹿げている。

 

人間を獣に変える最も簡単な方法は、

人間を神のように振る舞わせることだ。

 

この格言の意味は、

人間存在とはそもそも、神のようにはなれない。

 

人間は人間だからである。

 

神のようになろうとして、生活すること。

 

これは人間性を損ない、結果として神どころか、

獣のような生活になってしまうという警句を述べたものだ。

 

人間は人間としての最善を目指せは良い。

 

間違っても神のような、終始一貫を目指してはいけない。

 

人間とは、カオスであるからだ。

 

故に、時には、敬虔になったり、時には、冒涜的

であったり、

時に、禁欲、時に、放埒。

時に、理知、時に、本能。

 

それら全ての面を、すべて許してやること。

 

この上で、自分が思う方向性に沿って生きること。

 

これが、

自由と幸福の基である。

 

人間は、動物である。

コレも是なり。

 

人間は、主義に生きるものである。

コレも是なり。

 

人間は、理性的である。

コレも是なり。

 

人間は、金がほしい。

コレも是なり。

 

人間は、慈悲の心がある。

コレも是なり。

 

人間は、時に道を失う。

これも是なり。

 

全ては是なのだ。

否はない。

 

あるものを金科玉条。

あるものを絶対。

あるものを神聖不可侵とすることは、

それ自体が、間違いである。

(とはいえ、100%主義に生きられる人間は

 一体どれくらいいるだろうか?)

 

無軌道になったとき、何かを後悔する時、

それもよい。

 

それすら、人間であるからだ。

 

問題は、そんな時に、どうするか?

どう考えるか?どう行動するか?ということなんだ。

 

主義を持って生きることは、

価値あることである。

 

およそ人間が価値あることを成し遂げるとは、

主義を持つことによって始まるからだ。

 

だが、それが行き過ぎて、

コチコチの主義者になることは避けるべきである。

 

それは、束縛であり、思考停止である。

 

中庸とは、中くらい良いというような消極的な良さではなく、

至善であり、自然であり、

自由である。

 

 人が生きるとは・・・。

 

 

PS

古の昔、キリストは、人々に徹底的な物質の放棄を

求めた。

 

・・・。

 

これの意味は、その当時の人々(現代の人々もだ)が

あまりに、

物質にこだわりすぎる束縛

に陥っており、それが自由になることを妨げている

と考えたからであろう。

 

ところが、これらは、中世において、修道僧のような

ガチガチの禁欲主義。

 

精神主義が偉い、

物質の放棄が正しいという歪んだ価値に転嫁してしまったのだ

(笑)。

(とはいえ、これだって表面的な物質の放棄に過ぎなかったが(笑))

 

人間とは、なんて馬鹿なんだろうか・・・。

(これも愛すべき人間の一翼であるが)

 

あまりにも酷い極端なので、

あまりにも酷い極端で中和しようとしたわけである。

 

ちょうど、塩酸を、水酸化ナトリウムで中和するように。

 

ところが今度は、水酸化ナトリウムを入れすぎてしまって・・・。

 

強アルカリになってしまった(笑)。

 

どっちにしても使えないだろ(笑)。

 

我々が飲めるのは、(快適に飲めるのは)

中性の水。(PH6〜8)

であるからだ。

 

PSPS

リトマス試験紙がどこにも売っていない(笑)。

我が国の理化学教育はどうなってるんだ!!!(失笑)