子供にとって、父親は何人いてもいい。

 
相対的に見て、母親と子供の関係はどうしても
ピアツーピア的だが、
 
父親ならば、パラである。
 
これがある程度理解できた時、
人間存在に対する根本的な解がみえてくるような
気がする。
 
母親は、妊娠出産期を通じて、
一種の運命共同体的な存在として子供と過ごすが、
 
対象的に父親は、生活共同体の一員としてしか、
子供を認識できない。
 
平易な言い方をすれば、
母親にとって子供は、実体として自分の子供であるが、
父親にとって子供は、情報として自分の子供であるに
すぎない。
 
要するに、母親の申告を信じるしかないという意味で(笑)。
 
父親にとって、
つまり、0歳から育てれば、それが、
DNA的に自分とつながりがあるか、否かは、
本質的に重要なことではないということである。
 
遺伝より寧ろ重要なのは、
彼が自分の共同体の一員であることだけだ。
 
であるならば、もっと進めて、
共同体(家族)と繁殖を分離することは可能なのでは?
ということに行き着く。
 
DNA的につながりがあるのは、母親だけにして、
もっと優秀な種を接ぎ木する。
 
そうすれば、子供は極めて高い確率で、
「より優れた資質の者」になるだろう。
 
結局そのほうが、得であり、徳にも叶う。
 
今日、親や教師は子供に「なんにでもなれる」という式
の教育をしがちだが、これは明確に嘘である。
 
よほどの馬鹿以外は、これくらいのことはそのうち
理解するだろう(笑)。
 
その上で、 
現在のような欠陥だらけの核家族ではなく、
(核家族制度ほど、不公平な制度はない。
 ごく少数の幸運な人間以外にとって、
 馬鹿の量産拠点としてしか、機能していないから(笑))
 
ちょうど、寝屋子制度のような
共同体的拡張家族の中で、養育すれば、
親の性格の偏りや、好みに左右されること無く、
優れた資質を持った子供は、歪みの少ない環境で
育つことができると思う。
 
※寝屋子制度とは、
今日の社会問題の大半は、人間が二様の
歪みによって、馬鹿だらけになることによって
生じている。
 
一つは、遺伝的な馬鹿。
もう一つは、教育内容が馬鹿。
 
この2つの歪みを取り去れば、大抵の馬鹿げた問題は
起こらない。
 
賢い人間の社会では、
豚(搾取者)ははびこらないし、はびこれない(笑)。
 
子供にとって、父親は何人いてもいい。
という言葉は、それを実現するための確実な鍵となると
思う。
 
PS
ライオンのオスは、群れを乗っ取ると、
群れの子ライオンをすべて噛み殺すという。
これと同じようなことをやっているわけである(笑)。
 
人間は動物をやめられるか?
 
という問いがそこにはあるが
 
そうすれば、馬鹿は一掃され、
社会はかなり住みやすくなるはずなのだが・・・。
 
社会の良化とは、馬鹿を一掃することと、
ほぼ同意だから(笑)。