こどもを犯罪者にしないために親が子どもにできること

みなさんは「犯罪者」と聞いてどう思いますか?

「人を殺す人間なんて悪魔みたいなやつに違いない」

「自分はそんな人間とは無縁だ」

「その親も絶対おかしいに決まっている」

そんな風に思っている方が大半ではないでしょうか。

私もそうでした。

犯罪を犯した側の立場に立って思慮するという考え自体が、そもそも自分の頭にありませんでした。

自分は絶対に犯罪者になどならないし、自分の周りにもそんな人は絶対に現れないし、ましてや自分の子どもが犯罪を犯すことなどありえないと考えていました。

犯罪者の気持ちなど自分にわかるわけがない!という傲慢な考えしか持っていませんでした。

昨日図書館から本を借りました。

2017年の3月末に廃庁となった“奈良少年刑務所”の受刑者達が、社会性涵養(かんよう※)プログラムの一環で書いた詩をまとめた詩集です。

※涵養…自然に染み込むように養成すること。地表の水が地下にゆっくり浸透していくように、無理をせずゆっくりと養い育てること

私が今回借りた『世界は もっと 美しくなる』という詩集は、奈良少年刑務所詩集の第二弾です。(1冊目の『空が青いから白を選んだのです』は借りられていました)

この本を読んで思ったのです。

“私もこどもたちを犯罪者にしてしまう親かもしれない” と…

『彼らはみな、加害者である前に、被害者であったような子たちなんです』

この詩集の前書きにはこんなことが書いてありました。

奈良少年刑務所から「受刑者のために授業をしてくれないか」と頼まれたときには、躊躇しました。正直「怖い」と思いました。(中略)

けれども、刑務所の先生方が、あまりにも熱心なのです。

「彼らはみな、加害者になる前に、被害者であったような子たちなんです。」

「世界はもっと美しくなる 奈良少年刑務所詩集  詩・受刑者/編・寮美千子」   より一部抜粋   

ここではじめに言っておきますが、私は加害者を擁護したいわけではありません。

どんな理由であれ、人の命を奪ったり、危害を加えたりすることは許されません。

実際に被害に遭われた方の気持ちを害することも、私の本意ではありません。

でも、だからと言って、短絡的に『加害者は悪!抹殺すべし!』と勧善懲悪を声高らかに宣言する気にはどうしてもなれないのです。

今回私が伝えたいことは、そんなつらい思いをする人をこれ以上増やさないために、今私たちにできることは何かを一緒に考えてみませんか?ということです。

この本の中の数々の詩を読み、彼らの育った背景に思いを馳せる時、今の私と息子達を重ねずにはいられません。

彼ら全員の境遇が私達とかぶるわけではもちろんないですが、何かがどこかで少しでも違っていたら、誰か一人でもわかってあげられる人がそばにいたら、彼らも犯罪に手を染めることはなかったのかも知れない、と考えずにはいられないのです。

「もしも息子達や夫の命が奪われたとしたら、命を奪ったその相手にも同じような思いを抱けるとでもいうのか」と問われれば、それを想像しただけで怒りで手が震える私です、そんなことは絶対にできません。恐らく悲しみと怒りで見境がなくなり、犯人を殺め、私自身も加害者になる気しかしません。

それでも、この矛盾する思いを引っ提げて言いたい。

これ以上加害者を増やさないためには、私たち親がそこに気付くことが絶対条件だと思うのです。

極度の貧困のなか、親に育児放棄や虐待をされてきた子

発達障害を抱えているために、学校でひどいいじめを受けてきた子

厳しすぎる親から、拷問のようなしつけをされてきた子

親の過度の期待を一身に受けて、頑張りすぎて心が壊れてしまった子

心に深い傷を持たない子は、一人もいません。

その傷を癒せなかった子たちが、事件を起こして、ここに来ているんです。

ほんとうは、みんなやさしい、傷つきやすい心を持った子たちなんです

「世界はもっと美しくなる 詩・受刑者/編・寮美千子」より一部抜粋

この詩集を読んでから、加害者もその親も、実際には私たちと何ら変わらないということを認めざるを得なくなりました。

私には自分が息子たちに付けてしまった傷を癒す責任があります。

「ほんとうは、みんなやさしい、傷つきやすい心を持った子たちなんです」

この本の中で刑務所の先生が語ったこの言葉が、彼らの親御さんの言葉のように聞こえてなりません。

彼らの本当の親が、保護者が、彼らのことをそんな風に話す人たちだったなら、彼らはきっと刑務所になど縁がなかったことでしょう。

子どもを追い詰めない育て方

過去記事にも書きましたが、 “こういう親はダメだ”という著書が根本的に嫌いです。

一体何をどこまでわかっていて、どの面下げてそんな風に上から目線で本なんか書いているんだというものが多すぎます。

子どもを育てたことがないとしか思えないものばかり。

『こうすれば子どもは良くなる』だの『こうするから子はダメになる』だの、子育ては算数じゃありません。

浅すぎる。

上の子の時はそれでokだったのに、下の子にやると大変な事になるなんてことはザラです。

同じ子だって時と場合によって対応の仕方は変わって然るべきだし、そういう流動的なところこそが人間らしさではないでしょうか。

救急車が人命優先で赤信号を渡ること然り。

救助に来た人間に覆いかぶさる溺れた人間を、共倒れにならないように殴って気絶させてから救助する、なんていう話も然り。

教科書通りに行かないことの方が多いのに、みんなテキストに頼りすぎです。

私が思う一番の子育ての指針は、ほどほどです。

やりすぎもダメ。

やらなさすぎもダメ。

中間くらいが一番良いんです。

これを後押ししてくれるような言葉がこの本の巻末付録に書いてあり、私の向いている方向が間違っていないという自信になりました。

そこに書いてあったいくつかをご紹介します。

親が立派すぎると子どもが苦しくなる

「正しいことを教えたいから」

「立派な大人にさせる責任があると思っているから」

「自分も今までそうやってきたから」

そうやって子どもがまだ小さいうちから、ありとあらゆることを律してきました。

私の場合は物言いがキツいし、何度も同じことがあると言葉もどんどん乱暴になるので、子どもたちにとっては息苦しい以外のなにものでもないだろうと自分でも思います。

そうやって強制的にしつけられたこと(「しつけというより“調教”」だと個人的には思っている)は、自分の頭で考えずに「叱られるから」やっているのでどこかに無理が掛かっています。

だから、自分が(やりたくないのに)気をつけていることをやらない人間が無性に許せない、ということがたくさん起き、本人が生き辛くなってしまうということです。

なんでそんなに周りの目ばかり気にしないといけないのでしょう。

でも、ある程度は周りに気を配るのもマナー。

やはりここでも『ほどほど』が大事なのではないでしょうか。

「甘やかす」と「受け止める」の違いを知る

これは私もできていないことなのですが、「甘やかす」はともかく、「受け止める」というのが難しいです。

話を聞いてほしい、遊んでほしいという時に、「忙しいから後でね」と言ったきり、そのあとのフォローを忘れることが多々あります。

そうやって甘える機会を与えられなかった子は、甘えられない子、困った時に他人に助けを求められない子に育ってしまうということです。

私も仕事などで他人に助けを求めるのが大の苦手です。

“親から離れられない子は甘えているからではなく、充分に甘えられなかったからまだ離れられないだけなのかもしれません”

と書いてありました。

大人になったのにいつまでも離れられないようでは困りますからね。

子どものうちにしっかりと甘えさせてあげることが、結果的に独り立ちを早めることになるはずと書いてありました。

甘えさせると甘やかすの違いは“子どもが言ってくる”か“親が勝手に御膳立てするか”の違いだと思っています。

『おとうさーん!おかあさーん!』と泣きついてきた時が甘えさせるチャンス!と思っておけば大丈夫でしょう。

自分が子どもならそうしてもらいたいです。

それから、まだお子さんが小さい方は、小さいうちに抱き癖なんて気にしないでたーくさん抱っこしてあげて欲しいです(^^)

抱っこは「ほどほど」ではなく『思う存分!』

今息子たちに抱っこしたら…長男にはまず間違いなく蹴られますね笑

でも次男は喜ぶんです。甘え足りないんだろうなと思ってます。

小学生のうちが勝負ですね。

優しさはリスク

“「うちの子は優しくていい子だから問題ない」と安心しきっている親御さんは、ちょっと気をつけた方が良いかもしれません”

と書いてありました。

いじめを受けているのに心配をかけたくなくて黙っていたり、無理な頼みを快く引き受けたり、親にまで気を遣って我慢の限界に達し、爆発して犯罪となったなんてケースもあるそうですから、子どもの優しさに甘えすぎていないか、心配していない親御さんこそ今一度振り返られることをお勧めします。

心のうんち

なかなか衝撃的な小見出しですが(笑)、これはとーっても大切です。

大人にも言えることです。

子どもだろうが大人だろうが人間なら誰もがもつ感情、怒り、悲しみ、悔しさ、不安、これらは絶対に吐き出さないとなくなりません。

「愚痴」こそ「心のうんち」です。

過去にも何度も書いてきましたが、愚痴や文句は絶対に我慢してはいけません。

私は母親から愚痴を跳ね除けられて育ってきたのでよくわかるのですが、ただ黙って聞いて欲しかっただけなのに「みんなそうだ」と言われると、自分が否定されたように感じてしまうのです。

話してくれたことに感謝し、それを復唱して「つらかったね」と心に寄り添ってあげましょう、それによって子どもは癒され、やがて自分から立ち上がっていくでしょうと書いてありました。

毎日頑張って帰ってくる旦那さん、奥さんに対しても、同じように接してあげるといいですね。

大爆発になる前に、プチ爆発で「クソババア」と言ったりするというようなことも書いてありました。

「これはガス抜きのために必要なことで、見放されないと確信しているからこそぶつけられる言葉です、上手に吐き出させてあげてください」とのこと。

そういえばつい昨日、いつも言葉に出せずに地団駄踏んだり物に当たっていた次男が、私に叱られた時(しつこくガミガミ怒鳴ってました)に、初めて「だまれクソババア!(長男のマネです笑)」と言いました。

長男の真似とは言え、なんかね、嬉しかったんですよ。

今まで散々次男にいろいろな言葉をぶつけてきたので、今も心に刺さってる言葉を早く私に投げ返してきてくれと本気で思っているんです。

「やっと言えたね!」って言って頭なでなでしてしまいました。

だまれクソババアって言われて喜ぶ私は変態ですかね(笑)

いえいえ。間違ったしつけをする私に、自分の思いを全力で伝えようとしてくれる息子たちがただただ誇らしいのです(^^)

子どもは親の先生ですから!

世間の物差しで測らない

これも難しいですよね。

私たちは今日まで散々世間の目に晒されて良くも悪くも生きてきた身。

自分のしてきたことを我が子に投影してしまうのは自然なんじゃないかと思うのですが、それをぶっ壊そうぜということなのでしょう。

“どうやったら子どもがのびのびと自分らしく生きていけるか”

(大人の私でものびのびとした本当の自分がどんなだか思い出せません…)

「子どもには自分の人生を生きていく力があると信じてあげてください」と書いてありました。

衣食住を整えて学校に通わせさえすれば、あとは子どもに任せておけば大丈夫と、そういう解釈でよろしいですか?(誰に?)

評価しない

これはよくわかります。

あちこちで見聞きすることです。

100点は良くて70点はダメ、ということではなく、頑張ったプロセスを褒めることが大切だということですね。

「だからお前はダメだ」なども評価です。

“こうでなければ価値がない”という曲がった思い込みが身についてしまい、自信のない子になってしまいます。

「0点を取っても、かけっこがビリでも、お母さんは長男のことも次男のことも大好き!」

この無条件の思いが子どもたちにきちんと届いていれば、子どもたちは大丈夫。

自分でもよくわからないけど、そんな確信があります。

「ありのままの自分を受け止めてくれる人がいること」が一番重要な気がしています。

“詩の教室を開くためのポイント”が子どもへの接し方のお手本になる!

それから、詩の教室を開くにあたっての注意点が書いてあったのですが、これがそのまま家庭の作り方・子どもへの接し方にも通じる気がしたのでご紹介します。

1 安心・安全な「人・場所・時間」を確保する

2 くつろいだ雰囲気を大切にする

3 作品の出来栄えを評価しない

4 否定しない

5 無理強いしない

6 信用して辛抱強く待つ

7 指導しない

8 司会者も参加者になる

9 心を受け止める

10 詩を通じて響きあう

11 大人を休む=共に遊ぶ

12 「ありがとう」「うれしい」を大切にする

「世界はもっと美しくなる 詩・受刑者/編・寮美千子」より一部抜粋

家庭が子どもにとってホッとできる場所であることは何よりも大切。絶対に安全な場所があるから思い切って飛び込んで行けます。

子どもが作ったものや頑張ったことへ評価や批判、否定は極力せず、子どもの感情をマルッと受け止めること。意外に思いますが、「ここがダメ」「ここをもっとこうした方が良くなる」などのマイナスの言葉だけでなく、『ここが素晴らしい!』などのプラスの言葉も極力さけた方が良いそう。親は評論家ではないということなのでしょう。作品の出来ではなく、一生懸命やったことに対して讃えるべきなのでしょうね。

やりたくないと思っていることを無理にやらせず、子どもの自主性に任せる。そして、子どもが何かを言ってきたり行動するまで待つ。心配でついつい先にああしなさいこうしなさいと助言をしてしまいますが、子どもを信じましょう。(私にはこれがいちばん難しい)

子どもと目線を合わせ、子どもと同じものを見、感じ、それについて一緒に考え、意見交換をしましょう。

大人も時には子どもと一緒に全力で遊びましょう。

子ども相手でも「ありがとう」、「うれしい」を恥ずかしがらずに伝えましょう。

一見当たり前に見えることですが、実際にはなかなか思い通りに出来ないものですね…。

最後に。「子育てのコツ」

最後に、奈良少年刑務所の元教官の方々から、私たち保護者へのメッセージをご紹介します。

「これを読んで、『しまった、私の育て方が間違った』と自分を責めないでくださいね。大切なのは『いま』と『これから』なのですから」竹下三蔵

「自分の命の大切さがわからなければ、他人の命の大切さもわかりません。人は、誰かに大切にされて、はじめて他人のことを大切にできるのです。どうかお子さんの命を慈しみ、心に寄り添ってあげてください」乾井智宏

「世界は もっと 美しくなる 詩・受刑者/編・寮美千子」より一部抜粋

“「子どもを追い詰めない育て方」は、一言で言えば、「親自身が自分を追い詰めない生き方をすること」。肩の力を抜いて子どもとともに伸びやかに人生を楽しんで”

と書いてありました。

私が親として周りから言われたいと思っていた言葉がまさにこれです。

文字通り肩の力が抜けた思いがします。(ありがとうございます)

『子は親の鏡』

つまり、「子どもの異変は親の異変」、ということなのかもしれませんね。

子どもを変えたければまず親が変わること。

頑張り屋のお父さんとお母さんが『ほどほど』になることで、お子さんも本来の自分が出せます。

それが上手な生き方のコツです。

みんな、肩の力を抜いて「ほどほど」に行きましょう。

毎日毎日お疲れ様です!

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